第九話 19時26分 小田急線にて
時刻は午後7時26分。
都心から郊外へと向かう下り電車。帰宅ラッシュの熱気がまだ残る車内で、凪は車両の隅の座席に収まり、手元のタブレット端末を無表情に見つめていた。
現実世界における彼の名は、遠野 凪。
都内の大手通信インフラ企業で、若くして次世代ネットワークの根幹設計を任されている技術者だ。無駄を嫌い、常に最適解を求めるその姿勢は上層部からの評価は高いが、同時に「優秀すぎて他人に歩み寄ろうとしない」と周囲から浮いた存在でもあった。
だが、今の凪にとって現実の評価などどうでもよかった。
彼の脳内を占めているのは、たった一つの『未完成な数式』だけだ。
(……あの最適化は、偶然じゃない)
タブレットの画面には、仮想空間の戦闘ログが羅列されている。
絶対王者・迅ソニックとの戦いで、《クリサリス》が見せた最後の数秒間。
限界を突破した機体負荷。パイロットの異常な入力速度。
それらが衝突した時、通常の安全装置なら機体を強制停止させる。だが、あの時のクリサリスは停止する直前――ごく一瞬だけ、パイロットの闘争心に“適応”し、フレームの出力を最適化しようと試みていた。
(モンスター型のみに許された隠しシステム、《深化》。……テンプレの深化は、ただステータスを一定値上昇させるだけの“固定強化”だ。だが、僕が組んだフレームの『余白』と、あの異常な才能が噛み合った結果――)
凪の指が、画面をスワイプする。
(あれはシステムによる固定バフじゃない。機体そのものがプレイヤーに合わせて変態する――“臨界適応”とでも呼ぶべき現象だ)
――その時だった。
ふと、隣に座る人物のスマートフォンの画面が、凪の視界の端を掠めた。
ダボッとしたオーバーサイズのパーカーに、ワイヤレスイヤホンをつけた、高校生くらいの少女。
気怠げな外見とは裏腹に、彼女の視線は手元の画面に、獲物を狙う肉食獣のように鋭く張り付いていた。
(……?)
凪の視線が、無意識に少女のスマホへと向かう。
そこには、見覚えのあるゲームの戦闘動画が再生されていた。
白い機体。そして、異形のモンスター。間違いない。『迅・ソニック』と『しろっぷ』の戦闘ログだ。
(……この試合の動画を見ているプレイヤーは珍しくないが)
凪は一瞬だけそう思い、視線を戻そうとした。
しかし。
少女は無言のまま、険しい瞳で動画のシークバーを親指で弾いた。
激突の瞬間のコマ。そこで動画をピタリと止めると、彼女は画面の端――クリサリスの『右の副腕』の付け根あたりを、苛立たしげにトントンと指先で叩いた。
――ピタッ。
凪の指が、タブレットの上で硬直した。
(嘘、だろ)
声など出ていない。だが、彼女の指先の動きが、何に注目しているかを雄弁に物語っていた。
あの高速戦闘の、自壊寸前の乱戦の中で生じた「右の副腕のコンマ〇五秒の遅れ」。
そんなもの、ログをフレーム単位で解析した凪にしか分からないはずの極小のノイズだ。それを、この少女はただの動画視聴で、しかも“感覚”だけで見抜いているというのか。
(ただの観戦者じゃない。……ランカークラスのプレイヤーか?)
凪は、少女の横顔を静かに観察した。
だが、少女は隣の視線など全く気にする様子もなく、ただひたすらに自分の敗北の瞬間を再生し続けている。
ガタン、ゴトン、と。
一定の電車の揺れの中。
決して交わるはずのない二人の思考が、不思議なほど完璧な符合を見せ始めた。
(……あー、イライラする)
少女の細い指先が、画面の中の不器用な異形をなぞる。
(体が重い。頭のスピードに、全然ついてこない)
隣の凪が、タブレットの数値を見つめながら内心で応える。
(……原因は明白だ。僕の引いた安全マージンが、彼女の反応速度を殺している)
少女が、苛立たしげに画面をタップする。
(邪魔。このストッパーみたいなの、いらない。全部外してよ)
凪の脳内で、新しいフレームの青写真が猛烈な勢いで組み上がっていく。
(だが、リミッターを完全に外せば、異常な負荷に耐えきれずフレームは自壊する。必要なのは単なる解除じゃない――負荷の『許容』だ)
少女の瞳の奥に、身の毛がよだつほど純粋な闘争心が宿る。
(壊れたっていい。あいつに届くなら)
凪の指が、タブレット上で狂ったような速度でコードを弾き出す。
(――いや。壊すわけにはいかない。指先一つ壊させない。その代わり、異常な負荷を自壊ではなく『深化』のトリガーに書き換える)
(私が思った通りに。一ミリの遅れもなく、この形が動いてくれるなら)
(極限の入力にのみ反応し、機体そのものを変態させる『臨界適応』。それを、この未完成の数式に落とし込む)
(そうすれば)
(そうすれば――)
(次は絶対に、あの鳥ヤロウをスクラップにしてやる)
(誰も見たことのない、真のバケモノが完成する)
プシュー、と。
駅に到着し、電車のドアが開く音がした。
少女はふあ、と小さく欠伸をして耳のイヤホンを外すと、スマホと一緒にパーカーのポケットへ突っ込んだ。そして、ひどく眠そうに目を擦りながら、だるそうに立ち上がって電車を降りていった。
残された凪は、閉まっていくドアの向こうに消えた少女の後ろ姿を、しばらく見つめていた。
(……奇妙な感覚だな)
なぜだか分からないが、ほんの一瞬、あの見知らぬ少女と“対話”をしていたような強烈な錯覚を覚えた。
まるで、今まさに自分が設計しようとしている「制御不能なバケモノ」の具現化を見たような――。
「……気のせいか」
凪は小さく首を振り、再びタブレットの画面へと視線を落とした。
今は、現実の他人に構っている暇はない。口元には、エリート技術者らしからぬ、狂気めいた静かな笑みが浮かんでいた。
あの純粋で、凶悪で、無邪気な才能のための、最高の器を創り上げなければならないのだから。
帰宅客で賑わう電車の中で、世界をひっくり返すための最悪の設計図が、今まさに産声を上げようとしていた。




