第10話 調整
深夜、凪のプライベートガレージには、無機質な電子音とキーボードを叩く音だけが響いていた。
モニターの中で、再設計された《クリサリス》のワイヤーフレームが、複雑な幾何学模様を描きながら脈動している。
「……やはり、実戦データが足りない」
凪は一人、呟いた。
しろっぷの異常な入力に耐え、それを「深化」へと変換するための新システム《臨界適応》。その理論は完璧だ。だが、設計図がどれほど美しくとも、それが実際の仮想空間でどう「揺らぐ」かを確認しなければ、完成には至らない。
凪は、コンソール横のダイブポッドの蓋を開けた。
通常、ビルダーが機体のテストを行うのは当たり前の工程だ。だが、凪には一つの致命的な欠点があった。
「……気が重いな」
ダイブ。
視界がホワイトアウトし、次の瞬間、彼はクリサリスのコックピットにいた。
ランクマッチ。フィールドは『荒野』。
対戦相手は、テンプレ構成のロボット型。盾とライフルを装備した、まさに「教科書」のような機体だ。
カウントダウンが終了し、試合が開始される。
「……まずは、右スラスターの初期レスポンスの確認」
凪は冷静に、頭の中で計算した通りの入力を試みた。
相手がライフルを構える。弾道予測ライン。回避に必要なベクトルは左後方三〇度。必要な推力は四〇%。
――ガクッ。
計算は完璧だった。だが、凪の指先がその「最適解」を物理的な操作として出力する速度は、あまりにも、あまりにも遅すぎた。
被弾。装甲が削られ、大きく体勢が崩れる。だが、凪の脳内にはすでにカウンターの最短ルートが描かれていた。右の副腕による、相手の死角を突いた刺突。当たる未来が、明確に“視えて”いる。
――だが、動かない。
彼の指先がコマンドを叩き終える頃には、無情にも相手の機体はすでに回避行動に移っており、クリサリスの腕は虚しく空を切っていた。
「……っ」
正解が完全に分かっているのに、自分の出力が追いつかない。頭と体が完全に切り離されているような、底知れぬ操作の地獄。
『なんだ、今の動き?』
『回避運動の途中で止まってね?』
観戦チャットに嘲笑が走る。
凪の操るクリサリスは、まるで初心者がマニュアルを読みながら操作しているかのような、ぎこちない動きで弾丸をまともに受けた。
「……やはり、僕の指先は致命的にこの世界に向いていないな」
自嘲気味に、ほんの〇・五秒だけ息を吐く。
だが、凪はすぐにその微かな感傷を切り捨てた。彼にとって、この試合の「勝敗」には一ミリの価値もない。あるのは「データ」だけだ。
「……追従性が〇・〇二秒、想定より甘いな。装甲の摩擦係数を再計算する必要がある」
ボロボロと機体が削られていく中で、凪は表情一つ変えず、淡々とログを読み上げていた。
回避コマンド。攻撃コマンド。そのすべてが、相手に読まれる以前の問題――「動き出すまでが遅すぎる」という、パイロットとしての絶望的な実力差。
結果。
わずか一分後、クリサリスは一度も反撃することなく、地面に伏して爆散した。
『Winner, 肉汁パラダイス』
『今のクリサリス、昨日話題になってたやつだろ? 中の人変わったのか?』
『設計はすごいけど、動かしてるやつがゴミすぎるな……』
辛辣なコメントを背に、凪は無表情でログアウトした。
ガレージに戻った彼は、すぐにコンソールに向かう。
「……わかった。僕の『論理』が正しくても、このデバイスを通した『操作』という工程そのものが、今の設計には不純物として混ざりすぎている」
凪の指が、光の速度でプログラムを書き換えていく。
しろっぷに合わせるのではない。
しろっぷの「感覚」を、一切の劣化なく「現象」へと変換するための余白。
数時間後。
ガレージの重い扉が開き、気怠げな足音と共にしろっぷが現れた。
「おはよー。……ねえ、なんかランクマの掲示板で変な噂立ってるんだけど。クリサリスがカカシ状態でボコられてたって」
「テストです。……それより、しろっぷ」
凪がコンソールを叩くと、ガレージの中央に巨大なホログラムが展開された。
そこには、以前の「継ぎ接ぎの異形」ではない。
滑らかで、どこか有機的な質感を帯びた、漆黒と銀の対比が美しい『完成形』のクリサリスが佇んでいた。
「仮説の実証段階に移行します。……あなたのための『最適解』を定義しました」
「……へえ」
しろっぷの目が、一瞬で鋭くなる。
彼女にはわかる。この機体が、以前とは次元の違う「何か」に変貌していることが。
「乗ってみますか」
「当たり前でしょ。……早くさせてよ、気持ちいいやつ」
しろっぷがダイブポッドに滑り込む。
凪もまた、隣の観測席でヘッドセットを装着した。
同期。
クリサリスの瞳に、紅い炎が灯る。
「……っ、なにこれ」
しろっぷの声が震えた。
まだ動かしていない。ただ、神経をリンクさせただけだ。
なのに、今まで感じていた「自分と機体の間の膜」が、完全に消失している。
「あなたの感覚のすべてを、一ミリの減衰もなく出力できるよう調整しました。……今のあなたなら、あの『迅・ソニック』ですら、遅く感じるはずです」
「……最高。なにこれ、ヤバすぎ」
しろっぷが、獰猛な猫のように笑った。
「今まで私が着てたのって、全部重りのついた拘束具だったわけ? これなら――」
彼女の瞳の奥に、昏く、しかし純粋すぎるほどの殺意が渦を巻く。
「絶対に、届く。……あの鳥ヤロウ、次会ったら絶対にスクラップにしてやる」
凪がマッチングの画面を開こうとした、その時。
視界の端に、システム全体に配信される小さな通知アイコンが点滅した。
『――【お知らせ】近日、システムアップデートを実施予定。詳細は後日発表』
「ん、なんか通知来てる。アプデ?」
「……ええ。詳細はまだ伏せられているようですが」
凪は一瞥しただけで、無造作にその通知ウィンドウをスワイプして消した。
今やるべきことは変わらない。目の前にあるこの未完成の化け物を、世界に解き放つことだけだ。
「……行きましょうか、しろっぷ。誤差を潰すための、実戦検証を開始します」
「うん。……あいつらの信じてる『正解』、全部スクラップにしてあげる」
二人の異端児は、再び戦場へとその一歩を踏み出した。




