第16話 アルカナ・オブスキュア
しろっぷがガレージに足を踏み入れた瞬間、空気の密度が、普段と違っていた。
「……おはよ」
いつも通りの気怠げな挨拶。
だが、返事がない。
「……凪?」
コンソールの前に座る凪は、こちらを振り返りもしなかった。両手が光のキーボードの上を舞い、ホログラムのウィンドウが同時に十数枚、空中に展開している。
ガレージの隅、見慣れない黒い機器が、静かに青い待機ランプを灯していた。試遊会から数日。凪はそれを受け取った日から、ほとんど寝ていないはずだった。
骨格モデル。関節トルクの試算。装甲の材質シミュレーション。神経伝達の経路図。ビームの出力チューニング。
彼の周囲だけ、時間の流れが違って見えた。
「……へえ」
しろっぷは、ソファに身を投げ出しかけて、やめた。
なんとなく、足音を立てて近寄りたくなかった。
立ったまま、腕を組んで、彼が黙々と新しい何かを組み上げていく様子を眺める。
しろっぷの端末には、昨日の夕方の通知履歴がまだ残っている。新宿駅前、中規模ホールの試遊会。時間は三十分ほど。彼女はその会場で、一つも本気を出さずに帰ってきた。帰り道、ぼんやりと思い浮かべた光景――あの淡々としたパートナーが、もしあのデバイスを触ったら。
(……やっぱ、ヤバいことになってる)
彼女は、声に出さずに小さく笑った。
自分が体験会に行ったことも、そこで感じたことも、凪には言っていない。言う気もなかった。自分の中で、それはそういうもので片付く種類のことだった。
凪が、ようやく指の動きを止めた。
彼は振り返らないまま、短く言った。
『……しろっぷ。来ていたんですね』
「三十分前からいたけど」
『気づいていました。手が離せませんでした』
「でしょうね」
しろっぷはつかつかと歩み寄り、彼の背後からコンソールを覗き込んだ。
ホログラムの中央に、新しい機体のワイヤーフレームが回転している。
人型。スリム。装甲の輪郭はロボット型の典型を踏襲している。
だが、視線を集めたのはその細部だった。
全身を覆う艶のある漆黒の装甲。顔面にあたる部分には、のっぺりとした黒いマスクが嵌め込まれている。目元にあたる位置には、ただ一筋の細いスリット。そこから、仮組みの段階で既に冷たい青い光が、静かに漏れていた。
右手には、身の丈を超える黒い杭。
先端は鋭く、胴体部分には青い発光線が脈打つように走っている。
「……うわ」
しろっぷは、しばらく黙って眺めた。
そして、ぷっと吹き出した。
「悪そうなキャラじゃん」
『悪役ですか』
「めちゃくちゃ悪役。仮面被ってて、黒くて、杭持ってて、光ってる。裏ボスでしょこれ」
彼女は肩を揺らして笑いながら、機体の周りをぐるりと一周した。
子供がおもちゃの周りを観察するような歩き方。
「ねえ、これなに? なんでこんな悪そうなの作ったの」
『……設計上の最適解を追求した結果です』
「絶対嘘。あんた、これ好きで作ってんじゃん」
凪は、答えなかった。
答えなかったことが、答えだった。
しろっぷは満足そうに目を細めて、機体の背中側へ回り込んだ。そこに並んだスラスターの配置を指先でなぞり、ふむ、と小さく頷いて、また正面に戻ってくる。
「気持ち悪いよ、あんた」
『……そうですか』
「褒めてんの」
凪の手が、小さく動いた。
機体の仕上げに入る。人工筋肉の伸縮率、関節の遊び、装甲と内部構造の接続部。彼の頭の中には、これら全てが既に完璧な数式として組み上がっており、あとはそれを現実のデータとして書き出すだけだった。
一時間。
二時間。
やがて、ガレージの中央に展開されていた巨大なホログラムが、ふわりと輪郭を取り戻した。
最後のコマンドを打ち込む指が、一瞬だけ、止まった。
それは、これまで誰にも見せたことのない、彼自身の頭の中にずっと在り続けたものだった。誰かの機体を調整し、誰かの才能を補完し、ずっと他人の隣でだけ機能してきた彼が、初めて、自分の名前で外に出す形。
凪は、静かに、エンターキーを押した。
『――完成です』
漆黒の機体が、青い光を静かに放ちながら、そこに立っていた。
杭を右手に携え、左手は軽く開いたまま。仮面のスリットからは、冷たい青い光が一定のリズムで脈打っている。
しろっぷは、それを数秒、真顔で眺めた。
そして、また吹き出した。
「かっこいい。けど、やっぱ悪そう」
『そうですか』
「うん。……名前は?」
『《アルカナ・オブスキュア》』
しろっぷは、その響きを口の中で一度、転がした。
「アルカナ・オブスキュア」
『ええ』
「意味は?」
『隠された秘儀、というような』
しろっぷの目が、少しだけ細くなった。
彼女は黒い機体をもう一度、頭のてっぺんから足の先までゆっくりと眺めて、ぽつりと呟いた。
「……あんたらしいじゃん」
凪は、何も答えなかった。
彼は、初めて自分の機体のダイブポッドへと歩み寄った。
これまでガレージの隅で埃をかぶっていた、一基のポッド。
その横に、もう一基。しろっぷ用の見慣れたポッドが並んでいる。二つのポッドが、こうして並び立つ光景は、このガレージで初めてのものだった。
『……試運転に入ります。まずは感覚の同期確認まで』
「ふーん、手伝ってあげよっか」
『いえ、お一人で』
「えー」
『……必要なら、呼びます』
「呼ばなかったら怒るから」
軽口を叩きながらも、しろっぷはコンソール脇のスツールに腰掛けて、ホログラムモニターの前で待機の姿勢を取った。
彼女の視線の向こうで、凪がポッドに身を沈めていく。
ハッチが閉じる直前、彼女はふと思いついたように言った。
「ねえ凪」
『はい』
「試運転終わったら、ランクマ行こ」
凪の手が、ハッチの縁で一瞬、止まった。
『……早いですね』
「だって、この子、動かしたいでしょ」
しろっぷは、アルカナ・オブスキュアを顎で示した。
「私も、隣で見たい」
凪は、数秒、沈黙した。
それから、マスクのスリットから漏れる光と重なるような、静かな声で応えた。
『……了解しました』
ハッチが閉じる。
同期開始のアナウンス。
ガレージに残されたしろっぷは、スツールの上で足をぶらつかせながら、並んだ二基のポッドと、中央に佇む漆黒の人造人間を、じっと見つめていた。
ようやく、何かが始まってしまった気がした。
モニターの端で、ランクマッチの待機画面が、静かに起動する音がした。




