第15話 試遊
午後七時を少し回った頃、遠野凪は社内のデスクの端でノートパソコンを閉じた。
「お、遠野くん今日は早いな」
通りすがりの上司が、意外そうに声をかけてくる。
「ええ、少し用事がありまして」
「珍しいな。デートか?」
「違います」
凪は即答し、コートを手に取った。
上司が軽く笑って去っていく背中を横目に、凪は静かに社を出た。
新宿駅西口の地下通路を抜け、指定された案内に従って、ビル五階の多目的ホールへ向かう。
ホールの入り口では、黒いポロシャツを着た運営スタッフが受付を仕切っていた。
「《フリーダム・フロント》新入力デバイス試遊会へようこそ。お名前をどうぞ」
「遠野、凪です」
スタッフが端末を操作する。予約枠。ID確認。簡単な案内。
ホール内には、同じように予約で集まったプレイヤーたちが十数人ほど散らばっていた。ランカーの姿はない。一般層の、中堅未満の男女ばかりだ。
(ちょうどいい)
凪は表情を変えずに、空いている試遊ブースの列に並んだ。
ホールの壁際。
黒いロングパーカーのフードを軽く被ったままの少女が、長椅子の端に腰かけて足をぶらつかせていた。
ワイヤレスイヤホン。気怠げな目。ぼんやりと天井を眺める姿勢。
(……別に、来なくてもよかったかもしれない)
真白ましろは、小さく欠伸をした。
学校帰りに、気まぐれで予約だけ取っておいた。理由は特に覚えていない。いや、覚えてはいる。
(あいつ、絶対試すし)
ぼんやりと、自分のパートナーの冷静な声を思い浮かべる。彼が新しいデバイスに適応したら、自分の戦闘データの取り方も変わるはずだ。だから、先に一度触っておいたほうが、組みやすくなる。
(……うん、そういうこと)
それ以上の理由は考えないことにして、真白は欠伸をもう一つこぼした。
列が進む。
凪が試遊ブースの手前まで来たところで、一人の少女が、前のブースから出てきた。
フードを被ったまま、ぼんやりした目で通路を歩いてくる。肩が少しだけ、凪の腕に触れた。
「あ」
少女が小さく声を漏らし、ぺこりと軽く会釈する。
「ごめんなさい」
「いえ」
凪は短く応え、軽く頭を下げた。
一瞬、顔が見えた。白い肌、整った目鼻立ち。気怠げな中に芯のある瞳。
(……綺麗な人だな)
それだけ、頭の片隅でよぎって、凪はすぐにブースへと視線を戻した。
少女も、そのまま通路を歩いていく。イヤホンに手を伸ばし、小さく欠伸をしながら、出口のほうへと。
凪はブースに足を踏み入れた。
小型のダイブポッド。壁の案内に従ってシートに身を沈める。
「本機はβ版です。動作はテスト用の白空間に限定されます。体験時間は十五分」
スタッフの声を聞き流しながら、凪は深く息を吸った。
『同期開始』
視界が白く広がる。テスト用の白空間。何度も見た景色。
次に来るはずの工程――「動きたい動作を意識的にコマンドへ翻訳する」あの重い作業が、なかった。
試しに、凪は自分のアバターの手を見ようと思った。
視線が、ふわりと移動していた。
次に、握ろうと思った。
握っていた。
「……」
凪の唇が、わずかに動いた。
彼はずっと、自分のことを「論理は早いが、出力が致命的に遅い人間」だと定義してきた。頭の中の設計と、実際の画面の挙動は、常に分厚い壁で隔てられていた。コマンドの翻訳時間、入力デバイスの遅延、指先のもどかしさ。
その壁が、消えていた。
試しに、簡単な連続動作を組み立ててみる。前方へ三歩、右回転、左手を上げて、右脚で踏み込み。
組み立てた瞬間、終わっていた。
全部。
もっと複雑な挙動を意識する。空中跳躍、捻り、着地と同時の後退ステップ、さらに連続した方向転換。
頭の中で描き終わるのと、アバターがその通りに着地するのが、同じ瞬間だった。
「……」
しろっぷが、いつも笑いながら口にしていた言葉。
『軽い』『繋がってる』『気持ちいい』
ああ、これだったのか。
凪の頭の奥で、別のものが動き始めた。
ずっと彼の中に溜まり続けていた、出力先のない膨大な設計図の山。関節、人工筋肉、神経伝達、荷重分散。頭の中でだけ完成し、誰にも形にできなかった無数の機体案が、一斉に輪郭を帯びていく。
この操作速度があれば、動かせる。
あの設計も、あの構造も、あの動きも、全部。
(……組みたい)
気づくと、彼はテスト空間でアバターを動かしながら、頭の中で新しい機体の骨格を描き始めていた。重心の置き方、関節配置、バフの乗せ方。試遊用の白い空間など、もはや目に入っていなかった。
『残り、三分です』
スタッフの声が、遠くから響いた。
凪は、動かし続けていた。自分の頭の中にあった完璧な設計図が、ようやく、外側と地続きになった感覚を、もう一秒でも長く確かめていたかった。
試遊が終わり、ブースを出た凪は、しばらく通路の端で立ち止まっていた。
歩きながら、頭の中ではもう、次の機体の輪郭が動き始めている。ヒューマン型をベースにした、新しい案。滑らかで、精緻で、一つの生命として完結した造形。
エレベーターに乗り、ビルを出る。
西口の地下通路を、人の波に逆らうように歩きながら、凪は小さく呟いた。
「……組める」
自分の声が、少しだけ、震えていた。
同じ頃。
新宿駅の改札の前で、真白はイヤホンの片方を外し、欠伸をしていた。
試遊は三分で飽きた。クリサリスほど気持ちよくはなかった。自分にはあまり必要ないかもな、と正直に思った。
でも、とフードの中で彼女はぼんやり考える。
(あいつは、たぶん)
パートナーの顔を思い浮かべる。
普段、淡々と機体のログだけを眺めているあの男が、これを触ったらどうなるのか。
想像して、ほんの少しだけ、真白の口角が上がった。
(……たぶん、ヤバいことになる)
彼女はイヤホンをポケットに押し込むと、電車のホームへと歩き出した。
改札を抜けて下りのホームへ向かう人の流れと、上りのホームから人の流れが、雑踏の中で一瞬だけ、交差した。
二人が、それに気づくことはなかった。




