第五幕 初めての「選択」と解放 ―鄭から晋へ―
鄭の都に戻ってから、夏姫は静かに暮らした。
幾年かが過ぎた。
ある日、男が訪ねてきた。
申公巫臣だった。
楚の共王が即位し、斉への使者を命じられた彼は、その途上で鄭に立ち寄ってきたのだという。彼は夏姫を迎えたいと、鄭の襄公に申し出た。鄭の襄公は、これを許した。
夏姫の部屋に巫臣が入ってきたとき、彼女はすぐに分かった。この男が、あの複雑な外交の糸を引いていた人物だと。鄭への帰国の話を作ったのも、この男だと。
「なぜ」と彼女は問うた。
「ずっと、あなたのことを」と彼は言いかけ、止まった。それから静かに続けた。「あなたを人として見てきた者が、この世に一人くらいいてもよいと思いました」
夏姫は長い間、黙っていた。
「あなたは何を捨てるつもりですか」
「楚での地位を。一族の多くを。おそらく、安全な未来を」
「それが惜しくはないのですか」
「あなたより惜しいものは、この世にありません」
男はそう言った。大げさな言葉だった。世の男たちはそういう言葉を使う。しかし巫臣の口からそれが出たとき、言葉の重さが違った。それは口先の花ではなく、既に決断の終わった者の言葉だった。
夏姫は、これまでの生涯を思い返した。
鄭に生まれたのは選択ではない。陳へ嫁いだのは父君の決断だ。夫を亡くしたのは運命であり、廷臣たちに抱かれたのは恐怖からの服従だ。楚へ連行されたのは征服の結果だ。襄老に与えられたのは荘王の采配だ。どこへ行っても、誰かが彼女を動かした。彼女は常に運ばれる荷物だった。
しかし今、初めて、彼女の前に扉があった。
選ぶということが、こんなに重いとは知らなかった。
「行きましょう」と彼女は言った。自分の声が、以前とは違う音をしていると感じた。人形の声ではなかった。石の声でもなかった。それは震えていたが、地面を踏んでいた。
二人は斉を目指したが、折悪しく斉は晋との鞍の戦いで敗れたばかりだった。巫臣は素早く判断を変え、晋の重臣・郤至と連絡を取り、晋への亡命を決めた。追われる身であっても、次の一手を冷静に考える男だった。
夜の闇の中、馬を走らせながら、夏姫は風を感じた。
風は彼女の髪を後ろへ引いた。衣の裾を乱した。顔に夜の空気を叩きつけた。冷たかった。しかしその冷たさは、宮廷の夜の冷たさとは全く違うものだった。
外にいる。
その当たり前のことが、夏姫には奇跡のように感じられた。
自由というものは、こういう温度をしているのか。
生まれて初めて知った。
ふと、息子のことを思った。
徴舒。あの鋭い目をした息子。母の屈辱に怒り、弓を引いた息子。あの子はきっと、自由というものを一瞬だけ感じたのではないだろうか、と夏姫は思った。弦を引き絞り、霊公へ向けて矢を放った瞬間、それがどれほど危険な行為であっても、あの子はその一瞬に自分を取り戻したのではないだろうか。
夜が白み始めた頃、遠くに山の稜線が見えた。
まだ暗い空の縁に、ほんの少しの青みが滲んでいた。夜明けの一番初めの色だった。見ようとしなければ見えないほど淡い、約束のような青だった。
夏姫はその色を、ずっと見ていた。
美しいと思った。
久しぶりに、何かを美しいと思った。自分の顔がもたらす混乱も恐怖も関係なく、ただ空の色を見て、美しいと思った。
Claude sonnet 4.6 Lowで作成
no+e「小説 傾国の花 ―夏姫伝―」
https://note.com/norifumi07/n/n819e6a51a6b6?magazine_key=m48308acc548a




