第三幕 幾人の手から手へ ―楚の郢都―
楚へ連行される旅は、長かった。
幌を張った車の中で、夏姫は揺られ続けた。外の景色が窓の布越しに揺れ、木々が流れ、川が流れ、人々の声が遠のいた。彼女は何も見なかった。眼を開けていても、何も映さないことを覚えていた。それは人形よりも一段低い場所だった。石になることだ、と彼女は思っていた。石は誰かに抱かれても何も感じない。
楚の郢都は広く、華やかだった。
荘王は彼女を見て、表情を変えた。それが何を意味するか、彼女はすぐに理解した。もう驚かなかった。
しかしその席に、一人の男がいた。
申公巫臣。荘王が夏姫を後宮に迎えようとしたとき、静かに立ち上がって言った男だ。
「なりませぬ。わが君は諸侯を召集し、罪ある者を討伐するという義を掲げてこの戦をなされた。今、夏姫を娶れば、それは美色を貪るための戦であったことになります。美色を貪ることは淫、淫は大なる罰を招くもの。どうかご再考を」
荘王は頷き、夏姫を後宮に入れることを取りやめた。
続いて荘王の弟・子反が夏姫を欲した。巫臣は再び言った。
「彼女は不吉な人です。鄭では子蛮が早死にし、夫の御叔は逝き、霊公は弑され、その子・徴舒は誅された。孔寧と儀行父は陳を追われ、陳の国そのものが滅びました。天下には多くの美しい女人がおります。なぜ、この人でなければならないのですか」
子反も引き下がった。
夏姫は、その言葉をどこか遠いところで聞いていた。不吉な人。そうだ、私はそういう人間なのだ。男たちを滅ぼし、国を滅ぼす。それが私の顔の意味なのだ。
しかし。
一つだけ、引っかかることがあった。
巫臣は「不吉」と言いながら、彼女を見るとき、他の男たちとは違う目をしていた。それがどういう目なのか、彼女はすぐには名付けられなかった。欲望ではなかった。値踏みでもなかった。
痛みを知る者の目だ、と後になって気づいた。
荘王は結局、夏姫を重臣の連尹・襄老に与えた。
翌前597年、邲の戦いが起きた。
楚と晋が中原の覇権をかけて激突した大戦である。荘王率いる楚軍は晋を大破し、河を渡ろうとする晋兵で川が埋め尽くされたという。この勝利で荘王の名は春秋五覇の一人として天下に轟いた。
しかし夏姫の夫となった襄老は、この戦いで晋将・荀首の矢に倒れた。遺体は晋軍に奪われ、楚へ戻ることさえ叶わなかった。
夏姫は顔を上げなかった。夫と呼んでいた人が、また一人逝った。悲しいとは思わなかった。悲しむための感情が、あの穴の中に全て落ちてしまっていたから。
さらに追い打ちをかけるように、襄老の息子・黒要が彼女と通じた。継母と息子。この国では、それを咎める者もいなかった。夏姫は石のまま、その日々を過ごした。
その間も、巫臣の動きはひそかに続いていた。
彼はまず秘密裏に鄭へ使者を送った。「襄老の遺体を取り戻せるよう晋と交渉できる。その代わり、鄭の国姓である夏姫を帰国させてほしい」と告げた。荘王がこの案件を巫臣に諮問すると、巫臣は淡々と説明した。楚が人質としている晋の智罃と、晋が人質としている楚の公子穀臣の身柄交換の話があり、公子穀臣に襄老の遺体をつけて返還する話を鄭が仲介できると。荘王は納得し、夏姫の帰国を許した。
夏姫が鄭へ戻ることができたのは、そのような複雑な外交の糸の上を歩いた結果だった。しかし彼女は誰がその糸を引いているのか、まだ知らなかった。
Claude sonnet 4.6 Lowで作成
no+e「小説 傾国の花 ―夏姫伝―」
https://note.com/norifumi07/n/n819e6a51a6b6?magazine_key=m48308acc548a




