第三十二話 意志を継ぐもの
俺を呼ぶ声が遠くから聞こえる。
「誠…………誠二! 誠二!!」
「綾……乃……君、なのか……?」
俺の頬に痛みが走った。
「ちょっと! 命の恩人の私を他の女と間違えてるんじゃないわよ!」
あまりに理不尽な暴力と発言に、俺の意識が一気に浮上する。
目の焦点が合う。金髪を濡らし、ダイバースーツを着ているジェーンの顔が飛び込んできた。普段は知性と冷静さを宿した切れ長の瞳が、今は怒りに燃えている。初めて見るかもしれん、こんな瞳をしたジェーンを見るのは。そして、女性が髪を濡らしているのはどうしてこう色っぽいのか――と、ふと場違いなことを考える。
「ジェーン……」
俺は猛烈に咳き込んだ。口の中がしょっぱい。
体を起こそうとするが……力が入らん。
「起きないで寝てなさい。もうすぐ救急車が着くわ」
「どうして、ここに……?」
「あんたのAIが今回の事件についてのメッセージを送ってきたのよ。しかもあとから追加もあったわ」
それは説明になっているのか? だが、聞く元気もない。
「最初のメッセージに事件のあらましについて書いてあったのは良いとして。追加できたメッセージには『犯人と決着をつけに誠二が向かったのは海上のコテージです。一緒に犯人と心中するために海中に飛び込んだ場合に備え、可能なら待機をお願いします』って書いてあったんだけど?」
コテージ近くの浜にやってきて停まった赤いスポーツカーはジェーンのか。
「そうか、うちの過保護なAIのせいで手間をかけたな」
雪風め、あいつはいつから俺の保護者気取りに……?
「本当よ! あんたと綾乃とかいう女がいちゃこらするのを聞かされて!」
しかも勝手に会話を流してやがったのか……?
「おい、いちゃこらじゃないだろうが。あれは名探偵と犯人の必死の戦いで――」
「こじらせたアホ女とそれに引っかかった馬鹿男の愁嘆場にしか聞こえなかったけど?」
無茶苦茶言いやがる。ここはきっぱりと一言……いや、二言、言ってやるべきだ。幾ら命の恩人でも言っていいことと悪いことが……俺の意識は再び闇に滑り落ちて行った。
「死ぬなら私の目の届かないところでって! 誠二?」
十二月二十七日 午後一時
新西京中央区 新西京中央病院
女性の鼻歌が聞こえる。目を開くと結衣が本を読んでいる。
「結衣……」
「せーちゃん! 寝すぎだよ、三日も!」
俺の声を聞いた結衣は本を閉じるとこちらをのぞき込んできた。
本のタイトルが視界の隅に映る。スペンサーシリーズの失投。思わず笑みが顔に浮かぶ。
ん? 三日? 俺は上半身を起こす。
「綾乃は?」
「見つかったのはせーちゃんだけってジェーンさんが……」
「そうか……」
結局、俺は彼女に勝ったのだろうか。いや、どうでもいいことだな。少なくとも企みを挫けた。それでいい。
「そういえばせーちゃん、ちょっと変わったね」
結衣が俺の顔を覗き込んでくる。近い。
「近い。離れろ」
顔を手で押しのける。
「もー!」
俺の台詞だ。
「何が変わったんだ。イケメン度がアップしたって? あれ以上イケメンになりようなかっただろう」
「え、全然ちがくて」
違うのかよ。そこは同調しろよ。
「なんか、前と比べたらあんまり怒ってないね。少し鎮火した? 的な?」
「……」
もしかしたら――結衣が俺のことを一番見てくれているのかもしれないな。ふとそんなことを思う。……。いや、ジェーンあたりは口に出していないだけな気もするが。
「後ねー、岩村さんがドーナツとコレ置いて行ったよ。『アホが起きたらわたしてやってくれ。ご注文の品だ』って」
そう言ってホロリンクを渡してきた。
「おい結衣。伝言は正確に伝えてくれないと困るな。アホ? 天才の間違いだろ」
「えーと……うん、そだね〜……」
あいまいな笑みを結衣が浮かべた。
「それと~ジェーンさんとシーリーさんがお見舞いに来て~」
あの二人が? 珍しいな。
「何かバチバチしててうちめっちゃ怖くて~。二人とも誠二は私に借りがあるって言ってて~」
俺はその時に意識がなかったことを神に感謝した。ありがとう神様。今度神社に行くときはお賽銭を奮発するからな。というか……借りだと? 思い出したくない記憶を検索する。確かにどでかい借りが二人にはあるな。どうしたものか。しばらく顔を会わせないでいたら忘れてもらえないだろうか?
しかしよくよく考えるとあいつら――お転婆歌姫は俺のことを芸能界引退用の駒……ジェーンはジェーンで特ダネを掴んでくるための便利な手下としてしか考えてない節がある。俺が気に病む必要はないのではないか。……俺はもしかして、この街でもっとも借りを作ってはいけない人間に借りを作ってしまったのではないだろうか?
「二人とも仕事忙しいからって帰ってったけど~」
ずっと忙しくしていてくれ。頼む。
「うちは大学休みだからここでせーちゃんの寝顔見てたんだけど~」
……。恥ずかしいことを言うな。止めろ。
「リーナスちゃんは猫だから病院に入れなくて激おこぷんぷん丸で~、雪っピは銃だから当然持ち込み禁止で~、そしてあーしだけが残った。みたいな?」
結構ミステリを読み込んできているな。良い傾向だ。いや、良くない。俺の好感度が自動的に上がっていく。
「それと、浩一お兄さんからこれ~」
紙を渡してきた。
請求書?
何やら法外な金額が書いてある。いや、おかしいだろ。明細を見る。ほぼすべてバイクの修理費……俺は見なかったことにした。
「結衣。それは紛失したことにしといてくれ」
「えー! それ、私の責任になるじゃん!」
「俺を助けると思って!」
「いくらせーちゃんの頼みでも無理ゲーなんだけど~!」
「マジかよ。でもよくよく考えるとだな。鉄火場に生産終了したビンテージモノのバイクに乗って乗り込むやつが悪いんじゃないのか?」
俺は一縷の正論に辿り着いた。これで浩一に勝てる。
「……頼んだのせーちゃんでしょ?」
「結衣。そこは俺に同調しろよ!」
「しーらない」
そう言って本を再び読み始めやがった。
なんてこった。あのまま綾乃と死んでおくべきだった気がしてくる。
は~やっとれん。そういえばドーナツがあるんだったな。っておい! ミステリードーナツかよ! まぁいい。時には妥協も必要だ。俺は岩村の置いていったドーナツを齧る。すっぱ!! やたら甘酸っぱい。
「ミステリードーナツじゃん! 何味?」
むしゃくしゃしながらドーナツを齧る俺に気づいた結衣が騒ぎ始める。
「お前もそっちの食べたらいい」
適当に一つ押し付ける。
確かに何味なんだ?
気になった俺は自分の食べているドーナツの包み紙をひっくり返し、ホロリンクでスキャン。
思わず苦笑した。
『失恋味』
どうりで甘酸っぱいわけだ。
十二月三十日 午前十時
新西京四区 黒田宅
俺は黒田のところで治療を受けているイワンの見舞いに行った。
今日あたり退院らしい。
「生きとったか誠二」
ノーム、身長百四十センチの爺さんが出てきてそう声をかけた。ぼさぼさの白髪に黒い瞳が特徴で、常に白衣を着用している闇医者の黒田だ。後はエロ爺。これだけでこの爺の説明は事足りる。
「言っただろ。俺は不死身だってな」
「雪風ちゃんの根回しとジェーンちゃんがおらんかったら危なかったと聞いとるがな」
「あいつらは心配性なんだよ」
「雪風ちゃんが独立型AIならのぉ。アンドロイドボディでお前の妻にでもなってもらえば、お前さんももう少し人間らしい生活ができるようになるんじゃないか?」
「俺は惚れた男に合わせるタイプの女が好みなんだ。雪風のメンタリティが仮に女だとしてもあいつは真逆だろ。ダメだ。ダメダメ! だいたい独立型AIは今はご禁制だから! 公的には存在しないから!」
「独立型AIじゃなくてもAIにアンドロイドに入ってもらって嫁にしておる奴なんぞ幾らでも――」
「要らないお世話だって言ってるだろうが!」
「お前さんはもう少し自分の生活がどれだけ綱渡りか自覚するべきじゃぞ」
「ちゃんと渡り切ってるから良いんだよ。そんなことよりイワンはどこだよ?」
「やれやれ、こっちじゃ。というか、女の患者を連れてこんか」
「安心しろ。絶対にお前のところには連れてこない」
イワンの病室に通される。
「気分はどうだ?」
イワンはうつろな瞳をこちらに向けてきた。
「……なぜだ?」
「何が?」
「なぜ、俺を助けた?」
「俺がお前を助けたかったからだ」
イワンは頭を振った。
「意味がわからん」
俺は肩をすくめる。
「同感だ。俺も意味がわからん」
「お前、馬鹿なんだろう」
「よく言われるんだ。でも逆に考えてみてはどうだろうか? 俺が天才すぎて、皆がそれに気づけなくて馬鹿に見えるという可能性は?」
俺は手を広げて微笑んだ。
「やはりお前は馬鹿だ」
イワンは冷たく切り捨てる。
短い沈黙が二人の間に漂う。だが、俺には心地よかった。
「で、復讐を果たした気分はどうだ?」
とはいうものの、ずっと黙っているわけにもいかん。
「すっきりした。いい気分だ」
確かにイワンの顔から憑き物は落ちていた。しかし、生気は逆に失われていた。
「良かったじゃないか」
「だが、それだけだ。結局全てを俺は失っている。すっきりしたが――戻る場所の無い復讐は、虚しいな」
「そうか。ま、そんなもんだろう。戻る場所があるような奴はそもそも復讐者にはならん。戻る場所を奪われるから復讐者になるのだろうからな」
「それはそうだな」
「じゃあ生きる理由はもうないのか?」
「せっかく助けてもらっておいて悪いが――そうかもしれない」
イワンはそう言い、うつむいた。
「これから探して行けよ。といいたいが、お前に良い物を持ってきた。絶望に効く薬になれば良いんだが」
イワンにホロリンクを渡す。ヴォルコフ壊滅後に岩村がスネグーラチカから持ってきて、見舞いにくれたものだ。イワンはホロリンクを一瞥すると俺に返してきた。
「もう俺には不要な物だ。俺は出来るなら荒野に帰って暮らしたい」
「そう言うなよ」
俺はホロリンクを操作して中のデータを展開してみせる。
「文字は読めるのかイワン?」
「綾乃が教えてくれた」
その名前を聞くと少しだけ胸が痛む。
「なら、意味はわかるな?」
リストが展開された。
「待て、まさかこれは、俺の群れの売られていった先の……?」
「そうだ。そこにいけば、助けられるかもしれん。世界中に散らばっているから時間はかかるだろうし、命がけだろうが」
「……なぜだ、なぜ、そこまでしてくれる」
イワンは静かに泣き出した。
「お前のその泣き顔が見たかったからだよ。人間も案外悪くないだろう?」
俺はそう言ってニヤリと笑った。
「もし、全員を助けることができたら、俺は、俺はお前に、どうやって恩を返せばいい……」
「もしその時が来たら? 俺は新西京一ハードボイルドな私立探偵なんだ。滅多に助けは要らない。だから、他の困っている誰かに手を差し伸べてやってくれ。困ったときはここに連絡しな。金以外のことなら手助けできるかもしれん」
イワンに俺のホロリンクのアドレスを渡す。湿っぽいのは苦手なんだ。俺はイワンの泣き声を背に、病室を立ち去るため扉に向かった。
「青い牙だ」
イワンが突然俺の背中に言った。
「何の話だ?」
俺は振り返ってイワンに問いかける。
「俺の……本当の名前だ」
「あぁ、じゃあ次からそう呼べばいいのか?」
「いや、イワンでいい。ただ……お前には知っていてほしかった。なんでかは、俺にもわからないが」
何だよ、恰好いいこといいやがって。俺も何か真の名的な何かがあればいいのだが。いろいろ悩んだが、俺は何も言わないことにしておいた。
「ありがとう。恐らくは最上級の敬意の表明なんだろう? こいつは光栄だ。イギリスでいうところの騎士叙勲をして貰った気分だ」
そう礼を言うと、俺はウインクを一発プレゼントし――何かそれを見たイワンが顔をしかめた気がするが、気のせいだろう――今度こそ病室を後にした。
十二月三十一日 午後一時
新西京三区 大黒天通り 斎藤誠二探偵事務所
『南太平洋沖で船員を救出するために――ダニエルさんが無人島から無事保護され本日新西――』
ジェーンの読み上げるニュースをBGMに、机に座った俺は請求書とにらめっこをしていた。まずい。年が越せない。浩一の馬鹿のバイク代のせいだ。
ジェーンからの報酬(俺の半年分の生活費)をつぎ込んでも帳消しになる。ヴォルコフから金一封を貰っていなかったら危ないところだった。それもイワンの治療費でほぼ消し飛んだ。俺の懐にお金が入った瞬間、世界中から強奪されていっている気がしてきた。資本主義万歳。
経費にならんか? ならんな。流石にな。外注頼んでおいてそのバイクの修理費を経費と主張するのは流石の俺でも躊躇う。ジェーンに殺されそうだ。
そもそも車両保険が悪い! 古いけど価値のあるバイクの価格はマニア間での価格では計上されませんとかおかしい。古いぼろバイクでしかない価格しか出さないとかせこい。いや、でもそれをしだすと古いマニアの間で人気の車やバイクは保険に入れなくなる気もするな。ないよりはましなのか?
そんなことを考えている場合ではない。事件を解決したのになぜ俺の経済状況はほぼ変化していないのか。何かがおかしい。むしろ悪化している可能性まである。
世界の謎について悩む俺をしりめに、部屋の隅においてある水の入った皿を前に黒い馬鹿が何か言い出した。
「誠二。なんだこれは」
「水だ」
見てわからんのか?
「我はルーブの邸宅で供された極上のミルクが良いのだか?」
「その皿に入っているのはその極上のミルクだが?」
俺は俺の中でアレは水じゃなくてミルクということにした。
「いや、貴様。今自分で水と言ったであろうが。これはミルクではない。水である」
「金がないときは言うんだよ!」
「貴様に金があった試しなどないではないか!」
舌打ちした俺は立ち上がり、冷蔵庫から低脂肪合成牛乳を取り出す。
リーナスの前の水に少し入れてやる。
「これでそれは極上ミルクだ」
ウインクをしてそう言ってやった。
「………………」
リーナスは無言&半眼でこちらを見つめてきた。
何だその目は? 憐みか? いや、尊敬の眼差しに変換しておこう。正直な話、あんなのにかまっている場合じゃない。
ふう。どうしたものか。シーリーもジェーンも恐ろしくて連絡取れないしな。連絡を取らないほうが不味い気もするが……百鬼堂に行って遥さんの話し相手のバイトとか?
落ち着け誠二。死ぬ気か? それだけは最後の手段にしておきたい。こうなったら企業子飼いのアンダーにでもなるか?
ソファではリンクスが我関せずといった顔で寝転がって荘子を読んでいる。
結衣は――なぜかここに訪ねてきた宮下ケイとおしゃべりをしていた。
「強くなければ生きていけない。優しくなれなかったら生きている意味がない」
ケイちゃんがドヤ顔でチャンドラーを引用している。
「その時、くだらないことが起きた――」
結衣がドヤ顔でローレンス・ブロックを引用している。
なんでだよ。スペンサーを引用しろ!
黙っていられなくなった俺は椅子から立ち上がる。そしてソファで並んでお茶をしながら女子会(私立探偵小説について語り合う女子会はかなりレアだと思うが)をしている二人に文句をつけた。
「ったく、お前らは何もわかっていない。良いか? スペンサーこそが――」
「スペンサーおじさんは黙っててよ!」
だ、黙ってて?
「うわぁ、ケイちゃんハードすぎ。あんまりリアルなこと言ってるとせーちゃんガチ目にぴえんしちゃうからお手柔らかに~」
フォローになっていないぞ結衣。
「そういえばおじさん、その赤いコートくれるって言ってたよね」
何だろう。何か、身内認定されたのかケイちゃんの態度が雑に――?
「えっ? あぁ……でも要らないって……」
「実物みたら結構いい感じだから、貰ってあげても良いよ」
「えっ?」
今更? いかん、アークの『えっ?』が発症し始めたかもしれん。
「おい、ガキ」
突然リンクスが身を起こす。
「その赤いコートは俺が誠二……さんからいつか貰うんだ。すっこんでろ」
「何よ貴方!」
「何だよ!」
同じくらいの年頃の少年と少女が睨み合う。少女の足元ではチャーリーが一緒にリンクスを睨んでいる。二人に言いたかった。そもそも俺のコートは俺のだ。ケイちゃんは要らないって言っただろう。後でやっぱり欲しいは無しだよ? ね?
しばしの沈黙。
ケイちゃんが口火を切った。
「あなた――何歳なの?」
小学生みたいなことを言い出した。いや、そもそもからして小学生だった。
「俺、は…………」
リンクスが言葉につまる。恐らく、正確な年齢を自分でも把握していないのだろう。リンクス……俺の心が少し沈む。そういえば、誕生日も聞いたこと無いな……もしあいつ自身も把握していないなら、俺があいつを拾った日を誕生日ということにして祝ってやるか?
「早く言いなさいよ!」
「そ、そう言うお前は何歳なんだよ!」
リンクスが押されている?! 負けるな!
「十歳よ!」
「俺は十一歳だ! 俺の方が年上だ!」
「何よ! 一歳しか変わらないじゃない!」
「それでも俺の方が年上だ!」
お、おい、リンクスお前……まさか年齢マウントのために……少し同情した俺は何だったんだ?
「身長はほぼ同じでしょ! 本当に十一歳なの? 嘘なんじゃないの?」
「は、話をすり替えるな! 俺は十一歳だ!」
「何よ、さっきから十一歳とか言ってドヤ顔して! 精神年齢は私の方が上なんだからね。おじさんの看病だって、お母さんと一緒に私がしたんだから!」
ケイちゃん。それは絶対に口にしてはいけないことだ。宮下家に拾われたことはこいつらに言わないで欲しい。俺が少しだけ泣いてたことをばらされたら、もう一度失踪する自信がある。しかし、俺が口を挟んだら地獄が加速しそうだ。いかん、頭痛がしてきた。
「まぁまぁ二人とも落ち着きなさいって」
結衣が割り込む。そうだ、お前は十九歳の大学生だ。陽キャギャルのコミュ力と大人の対応でこのチビっ子たちの不毛な争いを停戦に持ち込んでくれ。
「せーちゃんのコートはうちのだから」
「えーっ?」
「は?」
ケイちゃんとリンクスが呆気にとられる。
うん。俺も訳がわからない。
「せーちゃんがスペンサー読んだらうちにくれるって~病院でラブラブ看病してたら~」
確実に言っていない。ラブラブ看病? 捏造するんじゃない。
「私だって看病した!」
「俺は看病されたんだぞ!」
そして結衣とリンクスとケイは三つ巴の言い争いを始めた。
三国志が始まってしまった。俺はもう関わらないでおこう。
「誠二。良かったですね」
腰から現状を把握していないとしか思えない発言がされた。
「雪風。何が良かったんだ。俺には地獄が展開されているようにしか見えんが」
「ちゃんと、あなたの意志は伝わっていますよ」
こいつは一本取られたな。
(誠二さん! 大変です!)
(なんだアーク。俺も大変だ。助けてくれ)
(あなたの助けが必要な人がいるんです! 今からそっちに――)
(よし、アビシニアンで落ち合おう)
俺はアークの発言を遮り合流場所をアビシニアンに変更した。この地獄から逃げ出せるなら何だっていい。グッジョブだアーク。
「誠二。今度こそちゃんと稼がないとやっていけませんよ」
雪風をホルスターに収める。
「我を置いていくことは許さぬぞ。美味いミルクを出す処に行くのだな?」
リーナスが俺の隣に来る。
言い争いをしている三人を刺激しないよう、俺達は事務所から脱出した。
「誠二。わからないことがあるのですが」
雪風の質問。
「なんだ?」
「なぜ、綾乃は最後に自爆したのですか?」
「完全に俺の推測だが……モリアーティ教授として完成するには、あそこでライバルである俺と一緒に死ぬのが必要だったからだろう」
「……なぜそこまでしたのでしょう?」
「彼女は頭が良すぎたのかもしれない。結果、孤独を感じ、孤立感を抱えていたんじゃないか。だからモリアーティごっこを始めた」
「ごっこ遊びで自爆ですか? 尚更理解不能です」
流石の雪風でも生きるのに退屈する、という感覚まではそう簡単に理解できないのかもしれない。俺は少しおかしくなった。
「俺は別にたいして頭は良くないが、たまたま彼女と通じ合えた。だから自分という存在を俺に解いてほしかったのかもしれん。多分、本来の彼女はあそこまで遊びはしないはずだ。逆に言えば、そこまで退屈していたんだろう」
対戦相手のいないチェスを独りで延々遊んでれば退屈もする。あれだけ裏から操っていれば――最悪、勝てなくとも負けることは無かったはずだ。引き分けか勝利しかない独りっきりのゲーム。だから負ける可能性をわざと組み込んだのだろう。偶然俺のことを知って、俺と出会ったことで。
「確かに今回の事件は彼女の遊びが無ければ、我々はイワンを人知れず排除するか、ヴォルコフがテロ行為を起こす前に潰すか、といった解決方法しかとれませんでした。今回の結末、イワンの救済はありえません」
「彼女に誤算があったとしたら、それはきっと多分――――」
「多分? 何ですか?」
「いや、忘れてくれ」
俺はその先を口にしなかった。晴れ渡る冬の空を見上げる。
綾乃。一緒に来てくれていたら、退屈している暇なんて無かったのにな。
師走の風が俺に応えるように吹き、コートを翻す。
俺はまた、誰かの手を取るために歩き始めた。それは相変わらず俺の自分勝手なわがままに過ぎない。でもそれが、ほんの少しでも世界を変える小さな希望の芽になるかもしれないことを、ちょっとだけ望みながら。
十年後
ロシア帝国領シベリアの辺境にある村
遠くで狼の遠吠えが聞こえる。
戦いの音が。皆の悲鳴が。
怖い。ナターシャは恐怖に震えていた。悪い人達が今、ナターシャの住んでいる村を襲っているらしい。お父さんたちが戦っている間、ここに隠れていなさいって言われて、ナターシャはお母さんと倉庫の奥に身を潜めていた。
お隣の村は、一か月前、襲撃にあって男の人はみんな殺されて、女の人達は捕まったらしい。なんでほうっておいてくれないのだろう。ただ、静かに幸せに暮らしたいだけなのに。私達が何をしたのだろう。ナターシャをずっと抱っこしてくれているお母さんは「大丈夫だからね」とつぶやいているけど、微かに震えている。お母さんも怖いんだ。外ではずっと爆竹の鳴るような音が鳴り響いている。神様! いるならどうか助けてください!
倉庫の扉が大きな音と共に開いた。大きな銃を持った怖い男の人が大声を出す。
「どうせ奥に隠れているんだろう?」
ひっ。
その声に驚いたナターシャは思わず息を呑む。
「ん? 何か聞こえたぞ……そこか?」
男はそう言うとナターシャとお母さんの隠れている場所にどんどん近づいてきた。
「見つけたぞ!」
男はお母さんの髪を掴むと隠れていた倉庫の箱の間から引きずり出した。
「や、やめてください!」
「上玉じゃねーか! 連れて帰ってたっぷりと、いや、とりあえずここで――」
その瞬間、倉庫の扉を通って何かが入ってくる。狼の遠吠えが――すぐそこでした。
「何だ? 狼?」
男が振り向いた瞬間、乾燥した小枝が折れるような音と共に男の体が宙を舞った。
「い、いやああああああああああああ!」
お母さんが叫ぶ。
お母さんを助けたのは、人の姿をした狼さんだった。白いコートを羽織った人狼さんは、首輪から声を出して話しかけてきた。それは、とても優しげな声だった。
「驚かせてすまなかった。もう安心だ。俺の部族の者達が、君達の村を守る」
「な、何で――?」
お母さんは震えながら尋ねた。なんで助けてくれた人に震えているんだろう?
「俺の――いや、我が部族の友の願いだ」
ナターシャは物陰から出てきて人狼さんに話しかけた。お母さんが止めようとするけど手を振り払って進み出る。
「助けてくれてありがとうございます。私はナターシャです。あなたのお名前は?」
「自己紹介ありがとう。小さなナターシャ。俺の事はイワンと呼んでくれ。悪い奴らをちょっくらやっつけてくるから、ここに隠れているんだよ」
イワンさんはそう言ってウインクをすると、白いコートを翻して倉庫から飛び出して行った。それはまるで、おとぎ話に出てくるヒーローみたいだった。
斎藤誠二の事件簿 FILE4 意志を継ぐもの 完
次回予告 斎藤誠二の事件簿 FILE5 約束
予告A
「アンダーは相手を殺すために理解する。私はあなたを理解したわ、誠二。あなたはどう?」
「なんか斎藤のおじさん、でっかい客船に乗っていっちゃったんだ。何で俺がこんな目にあうんだ! とか怒ってて怖かったねぇチャーリー。ペット禁止だからってリーナスちゃんを置いていくっていって大喧嘩してて大変だったんだよ。『俺が乗っているからには戦艦ミズーリに乗ったつもりでいていいぞ』とか言ってたけど……意味がわからないよね。どうしたの、チャーリー。ふむふむ、沈黙の戦艦って映画があるの? ……。スペンサーおじちゃん、死んじゃうのかな? もらってあげるから赤いコートは置いていってね?」
予告B
「こいつはいささかハードすぎる。俺がハードボイルドな私立探偵じゃなかったら過労死してたな」
「誠二さんは冷たいことに僕を置いてシーリーさんと豪華客船旅行に旅立ってしまった……僕だって行きたいのに……本当に大人ってやつは汚い! しかし、誠二さんを待っていたのは想像を超える地獄だった。というか、その女、綾乃さんよりやばくないですか? 最恐の敵では? やっぱり行かなくてよかった〜! シリーズ最大級の笑撃! えっ? まさか僕の出番、予告だけ?」




