第二十話 小さな背中
アレからどのくらい時間が経過したのだろう。
診療所から出たら外は土砂降りの雨だった。雨の中、事務所に戻る。静けさが耳に痛い。誰もいない事務所。いつの間にか、雪風が、リーナスが、リンクスが、アークが、結衣が、常に誰かがいて、賑やかだった場所。でも、今は雪風と二人だ。
ガンベルトを外して雪風とバックアップを机の上に置いた。赤いコートを外套掛けに引っ掛ける。
「誠二、すぐにシャワーを浴びないと風邪を引きます。また、本日は朝食しかとっていません。体を温めたら何か食べることを推奨します」
雪風がいつものように細かいことを言い出す。
「雪風」
「どうしました?」
「今までありがとう。お前とは色々あったが……いつも一緒にいてくれて、本当に助かった」
「誠二……意味がわかりません」
珍しく雪風の声が戸惑いに揺れた。
「リンクスがそのうち事務所に顔を出すだろう。お前は好きにマスターを選べば良い。だが、できればリンクスと一緒にいてやって欲しいと思う」
「誠二! 待ってください! あなたは何を――」
雪風の叫びを、閉められた事務所の扉が遮る。
そういえば、あいつがあんなに取り乱すのを見たのは初めてかもしれないな。俺は土砂降りの雨の中に踏み出していた。さて、これからどうするか。どうでもいいか。
土砂降りの中でも、通りは人で混み合っていた。
俺は久々に一人になった。
俺が何かする必要があるか?
無い。
綾乃の理論は完璧だ。俺の完全敗北だ。
俺が一人二人救ったところで――ヴォルコフと竜造寺組がまたドンパチすれば……十人単位で人が死ぬだろう。
俺にそれを止められはしない。俺が一人でヴォルコフを壊滅させれば良いのか?
馬鹿らしい……全ての犯罪組織を潰していくのか?
万が一、それができたとしても……さらなる無秩序が生まれる。
あんなクソみたいな奴らでも必要なんだ。
この街は、この世界は、クソだ。
…………マガミに蹴りを入れていた時の感触が俺の脚から消えない。
リンクスになんて言えばいい?
いや、あそこであいつがマガミだと分かった時点で、リンクスにもう会えないのは分かっていたことだろう誠二。
俺にはリンクスに会わせる顔なんてない。どんな顔をしてあいつに会えるってんだ……お前を殺そうとしていたのが、お前の尊敬していたマガミで、そのマガミは俺が……俺が殺した、だなんて。
結衣の涙、ジェーンの凍りついた表情。大丈夫だ。彼女達ならすぐに俺のことなんて忘れて、またいつもの日常に戻るだろう。
アークは……あの正義バカはある意味一番心配不要だろう……いや、今の俺の姿を見たらなんていうだろうな。
『誠二さん! 正義のアンダーがこんなことで負けて良いんですか!』とか言いそうだな。
俺は手近な壁に拳を叩きつける。
俺の隣を歩いていたエルフの青年が、その音に驚いたのだろう。俺からさりげなく離れていく。
正義なんてない。ヒーローなんていやしない。
そんなものがあるなら……なぜマガミはああなった……サルはなんで麻薬の横流しに手を出した?
俺は、マガミがアンダーになって無惨に野垂れ死ぬのを手伝うべきだったのか?
サルと一緒に袖の下もらっていればよかったのか?
何が悪い? 誰が悪い? 俺か? 世界か? 人類そのものか? 制度か? わからない。何もわからない。何を憎めばいい。何に怒ればいい。いや、一つだけわかっていることがある、この世界は腐っているってことだ。
ジェーンとのやりとりが頭をよぎる……
『誠二、あなたは純粋すぎるのよ』
そうなのか? なぜ、誰もこの世界に何も思わない。なぜ、見ないふりができる。なぜ、聞こえなかったふりができる。俺にはできない、いや、できなかった。やはり、俺はどこかおかしかったのだろう。でも、もう全部どうでも良いことだ。
俺の中でずっと燻っていた、俺を突き動かしていた、自分でも何かわからない呪いは……綾乃との戦いに敗北したときに消え去っていた。
雨の中、あてもなく歩く。人混みの中で孤独を噛み締める。心も、身体も冷え切っている。だが、身体の芯が熱い。気が晴れたか誠二? いや、何も晴れやしない。孤独を独り楽しむ。
俺も世界の色々から目を逸らして生きていくべきなのだろう。結局、俺は空っぽで、スペンサーの真似事で世界の理不尽から目を逸らしていただけの腰抜けだ。
今まで殺したクズどもの顔が、マガミの命乞いの叫びが、頭から離れない。
あいつらも寂しいだろう。もっと地獄の人口密度を上げてやるのも悪くないのかもしれん。
一度事務所に戻って武装を整えて、この街のクズというクズを皆殺しにしてやるか。途中で死ぬか、アルゴスに捕まって牢屋行きだろうが。
それでいいのかもしれない。牢屋に入れば、今みたいにくだらないことを悩む贅沢もなくなる。死ねば、こんなふうにうじうじ悩むこともない。
この死への憧憬は懐かしい。心の奥にぽっかりと開いたブラックホール。いったん生まれた虚無は消せない。付き合い方さえ覚えてしまえば――距離を取って無視していれば――なんてことはないが、破滅したくなったときには便利だ。自分から飛び込めばいい。
かつてのリンクスとのやりとり――
『良いかリンクス。正解なんてない』
俺はこう答えた。でも、俺は綾乃に正解を突きつけられ、何も言えなかった。どうやら正解はあったらしい。
『俺達は――生まれる環境も、死に方すらも選べない。じゃあ、何だったら選べるんだ。俺たちはいったい何のために生まれてきたんだ』
あのリンクスの叫び。俺は答えを持っていたはずだ。だが、今となっては俺が問いたかった。何のために生まれてきたんだ、俺は。誰か俺に教えてくれ。
「くくく、ははははは」
「おいおっさん。何がそんなに楽しいんだ?」
気づけば俺の目の前にトロールとオークの二人組が立っていた。
右側にオーク。左側にトロール。
俺は無視して横を通り抜けようとする。
「無視すんなよ」
トロールの武骨な手が俺の肩を掴む。同時に俺の腹にオークがボディブローを叩き込んでくる。
素人だな。たいした威力ではない。それでも身体に染みついた動きは、反射的にこいつらをぶちのめそうとする。俺はあえて抑制した。
丁度良い、たまにはサンドバッグになるべきだろう。トロールのストレートが俺の顔を殴りつけ、オークがへたくそな蹴りを俺にぶち込む。
よろめいた俺は壁に背中をぶつけ、へたり込む。身体がだるい、頭も熱い……。
「クソヒューマンが。有り金置いて行けよ。そうしたらこの程度で勘弁しといてやるよ」
有り金だ? 俺がアラブの大富豪にでも見えるのか? 何の冗談だ? 俺は笑えてきた。
「こいつ、何にやついてるんだ。まだ殴られたりないらしいな」
トロールが俺の腹に蹴りをぶち込んでくる。
良いじゃないか、結構効いたぞ。その調子だ。痛みを感じている間はくだらないことを考えないですむ。何ならここで死んでも良い。ほら、殺してみせろよ。
「今の……蹴りの……つもりか? 幼稚園児の、お遊戯かと、思ったぜ」
俺の言葉にトロールの顔が真っ赤になる。
「その様でよくほざいたな。カスみたいなヒューマンの分際でよ」
「とことんやっちまうか」
その時だった。
「チャーリー! どこにいくの?」
少女の声。雨の音に紛れて聞こえてきたその透明な響きが俺の耳に届いたのと、どちらが先だったろう。蹲る俺の前に、熊のぬいぐるみが立ちはだかっていた。
その小さな――小さすぎる背中は、俺に絡んできた二人組から必死に俺を守ろうとしているようだった。
この小さな背中には見覚えがあった。短い間しか一緒にいなかったが、死線を越えた仲間。
まさか、お前なのか……チャーリー?
見間違えるはずがない――その背中は、かつて俺にメッセージを送ってきたあのぬいぐるみだった。
チャーリーの後を追ってきたのであろう、エルフの少女がぬいぐるみの横に立つ。
「おじさんをいじめてるの? 何で? 止めてあげて下さい」
まさか……宮下ケイ、君なのか? 傘を差した彼女の後姿。綺麗な、黒い長髪が背中に揺れている。元気になったんだな。本当に……良かった。でも……こんなところで君は、何をしているんだ。俺なんかにかまっていないで、さっさと逃げるんだ。恩返しのつもりか? 君は、君の命を救ったのが俺だってことを……知らない、はずだ。なのに、なぜ俺をかばおうと俺の前に――
「何だぁこのガキ」
トロールがうなるように言う。
「可愛いじゃねーか。俺はこういうエルフの女は好きだぜ」
オークが少女の手を掴む。
「止めてください!」
少女が、年不相応な毅然とした声を出す。
「何を止めろって?」
オークの男がそう言ってエルフの少女を自分の方に強引に引っ張る。
「お前のロリコン趣味もほどほどにしとけよ」
トロールが下卑た笑みを浮かべる。
大通りから少し入った路地で行われている暴力と、これから行われるであろう更なる暴力。気づいた人間は多くはないだろう。だが、誰も気づかないなんてことは無いはずだ。それでも、誰も、何の反応もせずに通り過ぎていく。
こいつらの、彼女への行為を、やりとりを聞いた俺の中で――もうとっくに消えたと思っていた炎が、一瞬で激しく燃え上がり俺自身を焼き尽くそうとする。ずっと、ずっと抑え込んでいた炎が。呪いが。ありがとうよ、お前らのおかげで、今だけは思い出せた。
俺が何のために戦っていたのか――彼女に、触るな。
壁に背をついて座っている状態から、俺の右手に立っている無防備なオークの金的に左脚で蹴りをぶち込み、右側に転がる。
声にならない悲鳴を上げてオークが蹲る。奴のズボンの股に血が滲む。勢いあまって去勢しちまったようだな。これで女性へのくそみたいな欲望も多少は収まるだろう。
「ヒューマンてめぇ!」
トロールが怒声を上げて俺に蹴りを打ち込もうとするが、右側に転がった俺は既に蹲っているオークの影に入っている。
即座に立ち上がった俺に向かって、オークの腕から逃れたエルフの少女が飛びついてくる。
「もう大丈夫だから。ありがとう。早く逃げるんだ。良いね?」
彼女を抱きとめた俺はできるだけ優しく声をかけて、安心させるため、彼女に笑顔を贈る。そして彼女を俺の背後に誘導する。
「不意打ちで勝ったつもりかよ、卑怯者が!」
トロールがお仲間のオークを迂回してこちらに近寄ろうとする。
俺はトロールの言葉を無視。本当は、こいつらにありとあらゆる罵詈雑言を浴びせてやりたかった。でも、俺の後ろには守るべき少女がいる。彼女にそんな言葉は聞かせたくはない。俺が今、戦っているのは彼女の体を、心を、魂を守るためだ。
いつもの癖で自分のコンディションを確認する。寒気に頭痛。武器はナイフが二本。どう考えても最悪だ。だが――彼女を守れるなら、何を差し出そうと――ここで死のうとも悔いはない。
金的を押さえているオークの顔面を掴み、左の膝蹴りを追加で三発ほど叩き込む。奴の牙が何本か折れて宙を舞った気がするが、知ったことではない。即座に後頭部に右の肘撃ちをぶち込む。もうオークはなすがまま、いやこの状態になった奴が取りがちな最も愚かな行為――地面に自ら崩れ落ちようとする。
一瞬で全治数ヵ月ほどのダメージを負わされたお友達のオークを見たトロールの目に恐怖が宿り、動きに躊躇いが生まれる。
俺はオークをトロールの方に押しやる。
こいつがアンダーなら、このオークごと俺を倒しに来ただろう。
だが、トロールは押しやられたお友達を見て反応に困る。
俺は右側に歩を進める。
慌てたトロールが、俺からしてみればあまりにも適当な左のストレートを打ち込んでくる。
リーチが違いすぎる相手の場合――壊せるところから壊す。
俺は右足を一歩。右斜め前に。それで奴の左のストレートは俺に当たらない。俺は左手で奴の左手を受け流しつつ掴み、即座に右の肘打ちを叩き込む。
奴は慌てて左手を引く。濡れてるせいで滑り、俺の手から自由になる。引かれる手に付いていく形で俺は左足を前に一歩。俺の射程に入ると同時、左の鎧徹しをトロールの左胸にぶち込む。トロールの目が見開かれ、咳があふれ出した。俺は右のローキックをヤツの左の太ももに打ち込み、再度左の鎧徹しをトロールの左胸にぶち込む。
足を引きずってトロールは逃げようと後ずさる。
遅いんだよ、お前……俺は左足首の鞘から、マガミに使わなかった銀コーティングのナイフを逆手で抜きトロールの左手の手首、腱のある位置を深く切り裂く。
トロールの悲鳴が路地裏に上がる。しかし、雨音にかき消されたそれは、セレナーデのようなものだ。
さて、オークは去勢してやった。トロールはとりあえず片手を使えなくしてやったわけだが――殺しておくか?
どうせ生きている価値もない糞どもだ。そう考え、水たまりの上に一歩、踏み出す。ケイちゃんはもう逃げられただろう。本当は振り返って確認したいが、そんな体力も気力も無い。振り返ってもし、彼女がまだそこに居たら、これからする行為への決意が鈍る。
水たまりの跳ねる音が俺の耳を優しく撫でる。雨の日は好きだ。雨音が雑踏の音を優しく包み込み、水の匂いがこの街の腐臭を押し流してくれる。そして俺がこれから行う、醜悪な行為も。
また一つ、俺は自分から罪を背負う。構うものか――どうせ俺は人殺しのクズだ。あいつらと何も変わりはしない。こんな往来で堂々とあいつらを殺せば刑務所行きの可能性もあるが……ホテル『刑務所』も悪くはない。
そう決意し更に一歩を踏み出す。また水たまりの跳ねる音が、心地よく耳に滑り込んでくる。これから死ぬオークとトロールに捧げられる鎮魂歌。
その時、俺の足に何かが抱きついてきた。俺を止めるように。もう良いよ、と言ってくれているように。
クマのぬいぐるみ……チャーリーだ。
俺は、俺の中で燃えていた何かが、俺自身を焼き尽くす前に収まるのを感じた。
立ち止まった俺を尻目に、トロールとオークは悲鳴を上げながらよろよろと逃げ去っていった。
……。身体が熱い。頭も痛い。ナイフを鞘に収める。
俺は再び座り込むと壁に背を預け目を瞑った。雨の音、雨が俺にぶつかる感覚に身を委ねる。アドレナリンが消え去り、奴らに殴られた痛みが戻ってくる。
痛覚遮断は起動したくはない。この痛みだけが、今、俺を、この世界に繋ぎ止めている楔だからだ。この痛みが消えれば、俺はきっとこのクソみたいな世界から解放される。それこそが、俺に残された最後の希望なのかもしれない。最後に、ケイとチャーリーに会えて、二人を守れて、本当に良かった。俺は世界一幸運な男だ。
……もし、綾乃のところにいけば――彼女は俺の全てを肯定し、そして自分のものにするだろう。彼女は、俺に彼女を俺のものにしろ、と言って誘惑してきたが……逆だ。俺があそこで頷いていたなら、俺が彼女のものになっていただろう。そこまで求められることは、ある意味幸せなのかもしれない。
俺の存在意義は消えた。しかし、綾乃のもとにもいくことはできない。……俺は、自分の魂だけは、誰にも奪わせたくはなかった。何かが、自分でも説明できない何かがそれだけはできないと叫んでいた。なら……この最後の、くだらない、自分でもよく分からない誇りを抱えたまま死にたい。
彼女と俺は同じだ。
でも、決定的な何かが違う。自分でも良くわからなかった。
でも、今更もう、何もかもどうでも良いことだ。そう、俺は彼女に敗北したのだから。
「おじさん、大丈夫?!」
ケイの声が耳元で聞こえる。何で戻ってきた……そもそも逃げていなかったのかもしれない。俺のことは良い。放っておくんだ。俺がここで野垂れ死んでも誰も気にはしない。ここはそういう街だ。君が貧乏くじを引く必要はない。そう言いたい。だが、身体が言うことを聞かない。彼女を拒絶して、家に、帰さねば――
「俺は、大丈夫だ……ありがとう。ケイ……君は家に、さっさと……帰――」
冷たい雨の感覚が火照った俺の身体を冷やす。だが、寒気と頭痛が止まらない。必死に俺を呼ぶ少女の声と、俺を抱きしめるぬくもりを感じながら俺は意識を失った。




