第十九話 鏡像の聖女
頭部をなくしたマガミの死体を前に、俺は彼女を見つめていた。
黒い髪、青い瞳、白衣の下に赤いシャツと赤いスラックス……紛れもない、綾乃だ。
いつものようにミステリアスな笑みを浮かべている。
彼女の両手に武器がないのを確認した俺は、銃をホルスターに収める。
彼女がここにいる理由を俺は考える――綾乃もまた、何も言わない。
お互いの共有した時を懐かしんでいるような、不思議な静寂。
今の俺達の間にあるのは、かつての懐かしい思い出と、血と、硝煙と、消毒薬の混ざり合った臭いだ。
「こういう時は――何故君が? っていうのが定番なんじゃないかしら、探偵さん」
彼女の発言が静寂を壊す。壊してしまった。綾乃はゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
いつもと変わらない――いや、むしろいつも以上に俺のことを慈しんでいる声色。
「久しぶりだな、綾乃。いや、初めまして、と言うべきか? …………森先生」
「私とあなたの仲じゃない、今まで通り、綾乃って呼んでよ」
またもや沈黙の幕が二人の間に帳を下ろす。
どうする……俺の右手が疼く。
一息にこの青い目の悪魔を撃ち殺すか――だが――どうしても聞かねばならないことがある。ありすぎる。
「医者は、人を救うものだと思っていたよ」
俺はかつてマガミという名の少年だった残滓を、視界の端に収めつつ、言葉を放った。
「彼は少なくとも、特別な自分になれたわ。あなたは彼をそうさせたくはなかったようだけど」
「当たり前だ。アンダーになってどうする。まともに死ねるやつは一握りだ」
「あなたは探偵なんでしょう? ならあなたは大丈夫よ」
「俺の話をしているんじゃない!」
「……。彼はね、うちの棚に置いてあったプロトタイプ・セラムを勝手に使ったのよ。私も彼には悪かったとは思っているの。だから私はあなたが彼を撃つのを止めたのだけど。やはり超一流のアンダーは違うわね。何があっても、やるべきことはやる。愛する女の制止の言葉ですら止まらないなんて」
(誠二。プロトタイプ・セラムはエレヴォルヴ社の遺伝子改変血清です。致死率は高いですが――適合すれば先祖返りを起こす薬剤です)
雪風が俺に情報を教えてくれる。
つまりあいつには――ライカンスロープの血が眠っていたということか。
「俺が君を今も愛しているかは、自分でも半信半疑になっているところだ」
「そんな哀しいことを言わないで、誠二。私はあなたを世界で一番愛しているのだから」
「愛している男をライカンスロープに襲わせるのが、君の愛情表現なのか?」
「でも見事に撃退したじゃない。惚れ直したわよ。やっぱり私が愛するならそれくらいじゃないと。大丈夫、もしあなたが危なかったらちゃんと止めたし、何ならつきっきりで看病するつもりだったから」
つまり、俺が自分に相応しいか試していたわけか。
「だからといって、彼を巻き込む必要は無かったはずだ」
「彼が自分から望んだことよ。リンクスを、あなたを、これで見返せる。そう言っていたわ。私は止めたのだけれど……」
彼女のその言葉が真実かどうか確認する術は、もうない。
しかし、彼の言葉が事実だったとしたなら俺はあの夜……
「なぜこんなことをしたんだ」
「分からないの? 冗談でしょう?」
「ヴォルコフ・ブリガーダをこの街から排除するためだ」
「分かってるじゃない」
「関係のない人を巻き込むな」
「私は街を救っているのよ? 抗争が続けばそのぶん関係ない市民が巻き添えになっていくわ。私の計画に巻き込まれて死ぬ人の数なんて比べ物にならない数がね。どうかしら、凄腕の犯罪コンサルタントでしょ?」
……犯罪コンサルタント、ね。
「まさか、あんなホームズの連載を辞めるためだけのぽっと出の悪党に憧れてこんなことをしたのか?」
「あら……スペンサーに憧れて一人を救うのに二十人以上を殺したあなたと、街を丸ごと救うために悪党と少しの市民を殺している私――何が違うの?」
宮下ケイの事か。
たまたま麻薬売買の現場を目撃して撃たれたエルフの少女。
「なぜそれを?」
「あなたと初めてバーで会った夜、すぐに調べ上げたわよ。あなたがどういう人で、何をしているのか。想像以上だったわ。あのマーカスを倒し、八百長の不正を無かったことにしてこの街を救い、新興ヤクザを壊滅させて一時的にでも人狩りネットワークをずたずたにした。他にも挙げましょうか? まさに隠れた英雄とはあなたのことよ。特に惹かれたのは……一人を救うためなら、何人でも殺すその覚悟よ。私はあっという間に虜になったわ」
「俺を二度と英雄なんて呼ぶな!」
目の端に倒れているマガミの変わり果てた姿が映る。
――俺は気付いた。
彼女の台詞。『あら、私立探偵はあなたでしょう? あなたこそホームズを目指さないと』
俺はあの時点では、彼女に自分が私立探偵だなんて言ってない――普段の俺なら気づいたはずだ。
彼女とのやりとりに舞い上がっていた自分の間抜けさに嫌気がさす。何が名探偵だ……!
「まさかあの犯罪の予告状は……」
「そうよ。全部あなたと遊ぶためのものよ」
「だから第三の殺人までは予告状が無かったのか。俺と出会ったのが第三の殺人の後だったから」
「そういうことになるわね」
彼女は少し目を細めた。
馬鹿な――こいつ、完全にいかれている。
「意味がわからない。どうしてだ?」
「どうして? 私は退屈だったのよ。ホームズのいないモリアーティなんて退屈でしょう? だからスペンサーで不満だったけど、あなたを試してみたのよ。でも――やっぱりスペンサーじゃ駄目ね」
「スペンサーは駄目じゃない。俺が駄目だっただけだ」
「実はね、誠二」
そう言って、変わらず美しい、蒼い瞳で彼女は俺を見つめてきた。
「私ね。あなたが謎を解けなくてほっとしたのよ」
「どういうことだ」
「あなたと会って、あなたの事を知れば知るほど――あなたのことを愛してしまった。でも、もしあなたが謎を解いてしまったら――あなたは私の敵になってしまう。ふふ、まさかここまであなたのことを愛してしまうなんてね。その強さ、その知性。そして何より、譲れないもののためなら手段を択ばない覚悟。あなたほどの男は他にいないわ。本当に、この街の女たちは見る目がないわね、あなたの魅力に気づかないなんて。そろそろ良いでしょう? あっちの部屋にいって、私をあなたのものにしてくれて良いのよ。その後は、私と一緒に楽しく生きていきましょうよ」
俺のことを――一人の斎藤誠二として――愛してくれる、見てくれる女は、きっと後にも先にも彼女だけだろう。そう、思ってしまった。
「俺がそれに同意すると、本気で思っているのか」
「思っているわ。だってあなたと私は相思相愛、そうでしょう? あなたを見ていればわかるわ。あなたは私をどうしようもなく、愛している」
その言葉に心は動いた。
俺は雪風を抜いて彼女に突きつけた。
「もう止めるんだ。止めてくれ、頼む」
「それは無理よ、私にもプライドがあるの。どちらにせよ計画はもう止まらない」
銃を突きつけられてなお、彼女は一ミリも動じていなかった。
「マガミはもう死んだ。君の手駒は――」
「安心して。まだこのゲームを続けるつもりがあるのなら――予告状をまた出してあげるわ。あなたには止められないでしょうけど」
「現実は小説とは違う。俺は確かに君の出した謎を解けない。だけど、今ここで俺が君を撃てば止まる。俺はそうするつもりだ」
引き金に力を込める。
「おかしいわね。もうすぐヴォルコフは街から消えるわ。知的生命体の密売も無くなり、麻薬売買も消える。そして竜造寺組との抗争もね。結果的に多くの市民が救われるのよ?」
「どうせヴォルコフが消えても他の犯罪組織が入ってきてまた同じことを繰り返す」
「そうね。でも、あなたが一人救ったところで、またすぐ同じような被害者は出るわ。あなたの手の届かないところで。本質的に何が違うのかしら? それに――次にやってくる犯罪組織はもう少し穏当で派手な抗争をしないかもしれないじゃない。あなたも知っての通り……ヴォリはマフィアの中ではかなり荒っぽいほうよ。つまり、私たちはね――どうしようもないほどに、同じ。私のほうが効率的で規模が大きいだけの話よ」
俺は何も言い返せなかった――ずっと目を逸らしていただけで、綾乃に言われるまでもなく、俺は自分の矛盾を知っていた。しかし、今、目の前にいる俺が愛してしまった女は、その矛盾をより効率よく、的確に行っている。それを突きつけられた俺に何が言える? 彼女の行為と、俺のしていることと何が違う?
俺が宮下ケイ一人を救ったところで、五十嵐結衣を助け出したところで、シーリーを、ルーブを救おうが、俺の手の届かないところで救えなかった大勢の子供、さらわれた女の子、なんなら男の子だって、いくらでもいる。考えるだけで自分の無力さに吐き気がする。
彼女のしていることも同じことだ。いや、俺よりましかもしれん。俺より多くを救えるかもしれないのだから。
自分自身とは戦える――だが――鏡に映った自分を撃っても鏡が割れるだけだ。
森綾乃は、鏡写しのもう一人の俺だ。
そして俺は、彼女のことを愛してしまっていた。
彼女を見つめていた視線を、逸らす。
俺には救えなかった、自ら手にかけたマガミの亡骸を見つめる。
「……違、わない」
「そこでそう言えるのがあなたの誠実なところよ。私はそんなあなたを……心から愛しているわ」
当たり前だ。これを否定することは、今までの自分の行いを全否定することになる。
一人を救うために殺してきた奴ら――クズどもだが――から目を背けることができれば、気はとても楽になるだろう……だが、俺はそんな自分は許せない。そのクズにも、殺されて悲しむ家族や友人がいる。殺しは殺しだ。正義だから問題ない。で誤魔化すことはできない。
「以前ならそれを聞ければ嬉しかっただろうが、今となってはそこらのCMよりも空虚な響きだな」
「あなたは良いわよね。スペンサーの台詞が沢山残っていて。それを引用したり雰囲気を真似していればいいんだもの。モリアーティは全然台詞なんて残っていないわ。だから自分で残さないといけないのよ。あなたが羨ましい」
俺の苦し紛れの軽口すら、彼女は軽やかにかわしてきた。
確かに俺は……ただ、スペンサーの真似をしているだけに過ぎないのかもしれない……
「私はこの街そのものを、誰も解けない完璧な『密室』に仕立て上げてみせる。あなたに止める権利は、力はあるのかしら?」
彼女はゆっくりと俺の横を通り過ぎ――通り過ぎざまに俺の唇にキスをして――去っていった。
「今まで会った人の中で一番愛しいと思った人。私のものになる決心がついたらいつでも連絡を頂戴。私はいつまでもあなたを待っているわ」
去り際にそう言い残して。
「誠二。私としては彼女をここで撃つことは非推奨ですが――彼女を撃たないのですか? いつもの非論理的なあなたならば躊躇いなく撃っているはずです」
遠ざかる彼女の足音を遮り、雪風が立ち尽くす俺に問いかけてくる。
非推奨。その通りだ。雪風すらも向こうの言い分が正しいと認識している。
彼女をここで止めたら、全ては半端なままで終わる。
……彼女の足音が遠ざかる。
俺は、その場から一歩も、いや、指一本すら――動かすことはできなかった。




