第十五話 鏡合わせの獣
午前零時五分 新西京三区 繁華街 クラブ『ババ・ヤガ一号店』(斎藤誠二)
綾乃さんが帰り、重低音の鳴り響くクラブ。カウンター席で一人酒を飲むイワン。
周囲の客は何も考えずにダンスに興じている。
イワンが犯人という証拠はほぼ無いに等しい。
俺が今いきなりこいつを襲う訳にはいかない。
(雪風!)
(どうしました? 綾乃とのラブロマンスは一段落したのですか? 私のことなんて忘れたかと思っていました)
……何かいつもより刺々しいな。
(リンクスの方のフォローを頼む)
(了解しました。綾乃と一緒になって私立探偵を廃業する前に死なないよう、あなたも気をつけてください)
おい、こいつまさかやきもちか?
いくら独立型人工知能とはいえ、普段の言動からは想像もつかん。
いや、今はそんなことを考えている場合ではない。
俺はブラッディメアリーのウォッカ抜き(ただのトマトジュース)の入ったグラスを手に持ってイワンの隣の席に座る。
「いやぁ、偶然ですねイワンさん」
「何のようだ。馴れ馴れしいぞ」
「そう言わずに。俺とあんたの仲でしょう?」
「殺し合う仲か?」
イワンの何気ない一言。だが、そこに込められた俺への、いや人類への憎しみは確かなものだった。
俺はそれに答えずいつでも動けるよう、できるだけ椅子に浅く腰掛けなおす。
しかしイワンはそんな俺のそぶりを気にする様子もなく、店内を見回す。
「これだけの文明を築いておきながら……やっていることは酒に溺れて現実逃避か?」
その口調は軽蔑にあふれきっていた。
「この街では、ただ生きていくだけで辛いんだ。人はそこまで強くない。たまの逃避くらい許してやれよ」
「なら、原野にかえるべきだな。酒や麻薬に溺れて繁殖相手を探しにこんな場所にやってくる。これがお前らのいう文明社会というやつか?」
まさかホロリンクもまともに持ち歩かない奴相手に、文明論を戦わせることになろうとはな。
「そうだな、お前のいうことはもっともかもしれん。俺もそう思うよ。あまりにもくだらない」
俺の答えが意外だったのだろう。イワンは驚いた顔をした。
「だけどな。生まれつき遺伝子病を持った子供、不慮の事故で死にかけた誰か、そういった人達は、原始社会じゃあ切り捨てられるだけの弱者になる。ここでなら……少なくとも救えるかもしれん。そう悪いことばかりじゃない、そう思わないか?」
イワンは黙って酒をちびりちびりやりつつ何かを考えているようだった。
「だとしても……貴様らは奪いすぎる。殺しすぎる」
それは、魂から絞り出された憎悪の雫だった。
「それについて、俺は否定しない」
「ならば貴様はなぜ奴らを守る? その価値があるとでも?」
「それは……」
「所詮その程度か。勘違いした正義の味方気取りってわけだ」
イワンがそう言い捨てた。
「守る価値のあるやつもいれば、無い奴もいるだろう」
俺もまた言葉を絞り出した。
正義だと?
ティッシュに丸めてゴミ箱に放り込んじまえ。
そして続ける。
「このクラブで踊っている奴の何人が奪いすぎている? 殺しすぎている?」
イワンは言葉に滲む憎悪を隠そうともせず答えた。
「人類の一部という時点で同じことだろう。俺は奴らを許すことは出来ん」
「その理屈でいえば、狼の群れで一頭がたまたま無法なことをしたら、その群れ全てを狩りつくさねばならん」
「人類はそうするだろうが! 自分達だけは例外だとでも?」
イワンがグラスをカウンターに叩きつける。その顔は怒りで歪んでいた。
「そうだな。お前の言うことは正しい。人類が例外でいられているのはたまたま狩られない立場にいるからだ」
イワンが初めて俺を真っ直ぐに見つめてきた。
「なら――狩られる立場になったら――それで諦めがつく、それで良いんだな?」
俺を試すようにそう聞いてくる。
「異論はない。だが、このクラブで例えよう。たまたまこういった場所に憧れていて、初めてこういった場所にきて、踊っているだけの若者。そういった若者が彼と何ら関係の無い凶弾に倒れたとしよう。彼もしくは彼女に家族がいたら? なぜ、と叫ぶだろう。俺はその叫びを無視できない。聞かなかったことにはできない」
「お前は何を――」
俺はイワンの言葉を聞かずに続ける。
「ロシアでシェイプシフターを乱獲する密猟者のニュースを聞いた時。ニュースでマフィアの抗争に巻き込まれて死んだ人々。たまたま落ち込んでる人に麻薬を勧めるクズ。俺は……俺は絶対に許すことはできない。
クズどもを……全員ぶち殺してやりたい。だが、俺にはそれはできない。ただの無力な一個人でしかないからだ。たまたまその場にいないからだ。本当に正義なんてものがあるのなら――こんなことが、毎日毎日、繰り返されて……たまるかよ」
自然と自分の持つグラスに力が入る。
イワンの目が僅かに見開かれる。そのまま黙って俺を見つめる。
「しかし、例えば今このクラブに殺人鬼が乱入してきたとしよう。薬の売人? マフィア? 勝手に死ねばいい。だが、そうじゃない、ただ、ひたむきに毎日を生きている人達――その人達をクソみたいななぜ、からなら守ることができる。今、この場に俺はいるからな。俺には特殊な才能なんて何もない。だが、守らない理由にはならない。たとえそれで――俺が死んだとしてもだ」
踊る照明の下、耳障りな低音に包まれた空間にいながら、しばしの静寂が俺とイワンの間に漂った。
「何故、お前が選ばれたのかわかったよ」
静寂を破り、イワンがそうつぶやいた。
「何の話だ」
「いや――お前は、俺だ」
「おいおい、俺は筋金入りの文明人だぞ。野生の化身と一緒にされたら困る。荒野に放り出されたら俺は三日で死んじまう。特に問題はトイレだ。ウォッシュレットもトイレットペーパーも無いトイレとか想像するだけで耐えられん」
イワンは俺の言うことを無視して黙って酒を飲んでいた。
くそっ、なんだってんだ。
***
午前零時十分 新西京六区 工場街 クラブ『ババ・ヤガ二号店』
(リンクス)
店内のBGMは既に止まっている。
代わりにあたりに響くのは麻薬過剰摂取暴走者の意味をなさないうわごと。
重傷を負ったクラブの客の呻き声。
どこかで扉の開く音。
そしてワーウルフの吐息。
踊り手の消えたステージで。
青白い照明だけが何も気づかないまま忙しなく踊り狂っていた。
俺の目の前に立ったワーウルフは品定めするように静かに俺を眺めている。
何だ?
俺は半身の状態を崩さない。
ワーウルフは唇のはしをまくりあげると軽いうなり声を上げ始めた。
俺をびびらせて楽しもうってのか?
俺は奴の威嚇を無視したまま呼吸に意識を集中する。
『死地で一番大切な呼吸だ。そして思考を止めるな。後は体に染みついた記憶を信じろ』
誠二の言葉を思い出す。
右手と左手、それぞれに銀コーティングされたナイフを逆手に構える。
こいつは、血に飢えた動物じゃない。人間だ。俺は直感した。
俺を捕食するのではなく、遊んで、楽しんで、殺そうとしている。
こうして睨み合っている間にも、俺は奴の観察を終えていた。
身長百七十センチほどか。
手の爪はあまり鋭くはない。
となると、再生能力、怪力、敏捷性、噛み付きに気を付けるべきだな。
俺の小学校の壁のようなのっぺりとした能面が気に入らないのだろう、ワーウルフが唸りながら一歩踏み出してくる。
距離、三メートル。
俺にとってはまだ命のやりとりをする距離ではない。
が、向こうにとってはそうではないだろう。
更に一歩、二メート――奴は両手を構えると連続で軽いジャブを打ち込んでくる。
慎重な野郎だ、本来は後ろに下がりたくはない、だがこのジャブ――速過ぎる。
奴のジャブに合わせてナイフであの毛むくじゃらの腕を脱毛してやりたいが、俺の技量では厳しい。
なすすべもなく連続で放たれるジャブを避けるため、下がる俺の足首を何かが掴む。
一瞬背後に目をやる。
足の腱を斬り裂かれて倒れていた麻薬過剰摂取暴走者が俺の足首をその怪力で締め上げた。
「なっ――」
目の前のワーウルフがジャブをやめて右手を振りかぶって思いっきり俺にストレートを放ってくる。
――加速圧縮思考
限界まで魔力を回す。極限まで圧縮される時間。
後ろに跳びながら防御して受ける。
最悪の場合、死ぬ。
ラッキーなら、両手もしくは片手が脱臼してその後死ぬ。
体勢を大きく崩してでも避ける。
次の一撃で死ぬ。
だが――
俺の顔面に奴の右の拳が炸裂する。
寸前、俺は上半身を大きく右側に倒してバランスを崩しながら叫ぶ。
「影業――静寂の闇を駆ける孤影」
周囲に漂う光の粒子を遠ざけ、俺達は一切の光を通さない闇に包まれる。
俺の頭のあった位置を奴の拳が通り過ぎた。
見えていなくても、位置は割れている。
右側に崩れる、しゃがむ、俺を掴む手にナイフを叩き込む。
肉を断つ感触とともに右足首が自由になる。
しゃがんだ俺の頭上を物凄い風が通り過ぎた。
ワーウルフは左のボディブローを打ってきたようだ。
次は蹴りが来るだろう。
だから俺は即座に奴がいるであろう右側に転が――俺の脇腹に奴の脚がかすっ――気づくと俺は吹っ飛んで壁に叩きつけられていた。
まずい、全身が痛い。集中が切れる。奴を包んでいた業が消え、光の粒子が戻ってくる。
あの蹴り、まともに入っていれば恐らく内臓が破裂して即死だった。
たまたまか?
それとも……臭い、か。
俺の臭いの濃さでおおよその位置を掴んだのか?
どうする?
いや、奴は今俺を仕留められると思って油断しているはずだ。
逆にチャンスかもしれない。ここでなんとしても奴を仕留める。
俺は懐のグレネードをまさぐ――不味い、ナイフが無い――?
さっきの蹴りで俺はナイフを手放してしまったらしい。
本物のアンダーなら死んでも手放してはいけないのに。俺はまだ本物のアンダーじゃない。
ワーウルフはゆっくりと、俺が死ぬまでの時間を堪能できるようにだろうか、近づいてくる。
突然店内にBGMが戻る。
シーリーの新作のポップソングだ。
あぁ、もう一度彼女に奢ってもらったストロベリーサンデーを――
(リンクス、諦めるのが早すぎぬか?)
リーナス師匠――でも、これ以上どうしろって――俺にはもう――
俺の目の前まで来たワーウルフが手を振り上げる。




