第十二話 魔法の解ける時間
十二月十三日 二十二時
新西京六区 工場街 クラブ『ババ・ヤガ二号店』(リンクス)
六区の夜は、肺の奥まで錆び付かせるような鉄の匂いがする。
昼夜問わずあくせくと働き続ける工場からでる煙のせいだろう。
俺の目の前には、くすんだグレーの塊がそびえ立っていた。かつては何かを貯蔵していたであろう倉庫は、今や「ババ・ヤガ」という悪趣味なネオン看板を掲げ、不健康な光を垂れ流している。
臼に乗った魔女のロゴが、チカチカと不規則な瞬きを繰り返していた。壊れかけた看板ほど、この辺りの治安を正確に物語るものはない。
扉の向こうから低音が微かに――遠くの家の夫婦喧嘩のように――漏れ聞こえてくる。
入り口には、箸よりも銃の扱いを熟知していそうな男が二人。
一人はスキンヘッドの頭にスラブ語の刺青、もう一人は短く刈った金髪。
二人とも瞳は青く、安物のスーツに身を包んでインカムをつけている。
俺とアーク、そして足元にいるリーナス師匠――空気の屈折率を変化させて光学迷彩状態――はジャケットのポケットに両手を突っ込み、彼らの前に立った。
「何の用だ。ここはおぼっちゃまがミルクを飲みに来る場所じゃない」
スキンヘッドが、濁った声でそう言うが――威圧感はそこまででもなかった。
ペットショップ前で、どの犬が一番高く転売できそうか値踏みしているような顔だ。
アークか。
あからさまに人の良さそうなおぼっちゃま……つまり鴨が葱をしょってきたように見えているのだろう。
アークは黙って雪風の用意した偽造CIDを提示。
俺は――むかつくことに――奴の召使としての偽造CIDをこれまた提示。
スキンヘッドはそれを確認すると顎をしゃくる。
「精々楽しみな」
アークは硬い表情で頷くと黒い鉄扉が開き、中から暴力的な低音が溢れ出す。
俺はアークの後ろについて店内に入っていく。
ガキだからとまともなボディチェックも無しか――なめられたものだ。
店内に一歩踏み出せば、そこは色彩の地獄だった。
赤と青のLEDパネルが壁面でのたうち回り、スモークの向こうで若者たちが魂を削るように踊っている。
薄暗い照明と、踊り狂う色彩のせいで壁が何色に塗られているかなんてわかりやしない。
ストリート系の連中に混じって、瞳をトロンとさせたギャルが、電子パイプをくゆらせながら虚空を見つめていた。
VIP席に陣取るロシアンマフィアどもの視線が、獲物を物色する肉食獣のようにフロアを舐めている。
足元を、影のような黒い塊が音もなく通り過ぎた。
リーナス師匠だ。
四本足の神を気取った猫は、アルコールに溺れた客たちの足の間を、水面に浮く油のようにスルスルと通り抜けていく。
(リンクスよ……何だこの騒音は? 我はもっとこうポップなアニソンが良いのだが?)
相変わらず幼稚園児が突然言い出すような意味のわからないわがままが始まる。
(えーと……こういうクラブでアニソンは……)
何か有効な援護射撃を期待して、隣のアークに視線をやる。
駄目だ。全校生徒の前で一人、壇上で将来の夢を朗読させられているほどに緊張している。
溜息をついた俺は、アークを掴んで壁際に連れて行く。
「アーク、お前……ちょっと目立ち過ぎだ。端っこにいろ」
「えっ!? ぼ、僕が不自然だって? そんなば、馬鹿な?」
「既にどもっているだろうが」
「おかしい――ちゃんとこういったシチュエーションに備えて――」
何やら言い訳を始めたアークを俺は無視。
ジャケットの内ポケットにある銀のナイフの冷たさを、指先で確認した。
空気は重く、ドラッグと香水、そして「悪意」の匂いが混ざり合っている。
***
二十三時 新西京三区 繁華街 クラブ『ババ・ヤガ一号店』(斎藤誠二)
想定通りだったが――入口で雪風とバックアップを取り上げられた俺の手持ちは、銀コーティングされたナイフと、ペッパーパンチグレネード、香水入りスプラッシュグレネードだけだ。
やれやれ、スパイダーマンがウェブ・シューターをとりあげられたようなものだ。
店内を見渡すと若者がダンスフロアで踊りながら――おっと、あまり過激な表現は控えておくとするか。
ま、口うるさい相棒達から解放されて自由を満喫するのも一興かもしれん。
カウンター席に座り、バーテンに注文を言う。
「ブラッディメアリー、ウオッカ抜き(ただのトマトジュース)をくれ」
「うちのはタバスコとレモン入ってるよ」
黒髪黒目の典型的なバーテンの制服を着た男がそう言ってくる。
俺は黙って頷いた。
俺の前に置かれたブラッディメアリーのウオッカ抜きをちびりちびりやりつつ時間を潰す。
ワーウルフが暴れるとしたら――公衆の面前で変身するか?
いや……トイレ、か?
しかしこの手のクラブのトイレは連れ込み宿と化していることも多いし……汚いことも多い……行きたくない……だからトイレの出入り口が見える場所に陣取ろう。
トイレの場所を見回して確認――見張るのに適している場所は……
きょろきょろと辺りを見回す。あれは?
見知った顔。
黒髪をツーブロックにした焦げ茶色の瞳を持ち、色あせたオーバーサイズの濃緑のジャケットに青いジーパンのヒューマンの少年――マガミを見かける。
こんなところに何を――いかん、さっさと退避するように言わねば。
声をかけようと立ち上がるが――マガミは店の外へとさっさと出て行ってしまった。
……まぁ、ストリートギャング同士のアレコレとかあるのかもしれんな。
ここはヴォリィのお膝元だが。
席に戻りそんなことを考えていると、安っぽい香水の匂いが鼻につく。
ちらと左隣に視線を振ると、ヒューマンの女性が座るところだった。
ピンク色のボブカットの下から、厚い化粧の隙間から黒い瞳が――アルコールかドラッグだろう、とろんとしている――俺を見つめてくる。年のころは三十過ぎ、身長は百七十センチくらいか。
少しふっくらした体つきで、青いタンクトップからは胸があふれんばかり、下は黒いペチコートに黒いハイヒールを履いている。
「色男さん。何を飲んでいるの?」
「ブラッディメアリーだ」
胸を強調した服装――つまり胸を視ろってことなのだろうが――ひねくれている俺は敢えて視線を外したまま冷たく答える。真冬に外でその恰好なら驚いてみてしまうだろうが(もちろん性的な意味ではない)、この場所でその格好はむしろおしとやかな部類に入る。観察する価値などない。
「カクテル? 詳しいの?」
そう言いながら少しずつ距離を詰めて俺の左腕に胸を当ててくる。
どうしたものか――今は相手をしている場合でも、気分でもない。
「人並みにはね。すまないが、俺には特定の恋人がいるんだ。ベッドでのダンスパートナーなら他所を当たってほしい」
雪風やリーナスがいたら即座に要らない突っ込みを入れられるが――幸いなことに今は邪魔者がいない。
「あら、別にバレなきゃいいじゃないの」
そう言いながら俺の左手にそっと右手を重ねてくる。
俺は即座にその手を――あくまで優しく――俺の手から外す。
「専属契約をしていてね。すまない、そうでなければ十分に魅力的な誘いだったんだが」
そう言ってお詫び代わりにウインクを飛ばす。
俺のウインクを見た彼女は興が冷めたらしく、無言で席を立った。
「あら……専属契約している相手がいたの?」
俺の背後から――ある意味、一番今の言葉を聞かれたくなかった人の声が聞こえた。
漆黒のロングヘア、アイスブルーの蠱惑的な瞳。シャープな深紅のパンツスーツに、インナーは黒のハイネック。足元は鋭いピンヒール。
肥溜めの中に――女神が立っていた。
「なっ――綾乃さん!?」
「私、あなたになら良いかもって――思っていたのに」
そう言いながら彼女は俺の右隣に――肩と肩が触れ合う距離に――座る。
俺の鼓膜を暴力的に殴りつけるだけだった、不快なBGMが遠のいていく。
何故こんな店に彼女が?
いや、それどころじゃない。しかし、焦る俺の気持ちと裏腹に彼女は次々と俺の心を揺さぶってきた。
「本当にいるの?」
「いや、実のところいない。そうでもしないと彼女が俺を諦められないと気を遣ったのさ」
こんなことを言っている場合じゃないのはわかっているが……誤解されたままは嫌だった。
彼女のまとう上品な香水の香りが、俺の思考を麻痺させていく。
「以前、結婚を申し込んでくれたのは嘘だったのかと思ってショックだったわ」
そう言いながら俺の右手に彼女の左手を重ねてくる。
さっきの女の腕に当たる胸や手の感触は、俺にとって大理石の彫像が触れてきたようなものだった。
けれど、今は全神経が俺の右手に集中する。
「綾乃さん、ここは危険かもしれない」
「何で?」
そう言って見つめてくる。
「確実な事は言えないんだが、実は俺は私立探偵なんだ」
「ふふっ、私立探偵小説マニアの私立探偵だなんて、やっぱりあなたは素敵な人ね」
誰にも言われたことの無い――だが、もしかしたら俺が一番聞きたかったかもしれない言葉を彼女は口にした。
「いや、俺はたいした探偵じゃあないんだ」
彼女に犯人の予告状についての推理を話す。
ババ・ヤガが危ないであろうこと。
どの店舗なのか? 何時なのか? は絞りこめていないこと。
「じゃあ、ここじゃないかもしれないじゃない」
「……それはそうなんだが。もし君が巻き込まれたら――」
「それとも誰かにババ・ヤガを、この店に来るような人達を守るように依頼を受けているの?」
そう言って彼女は店内を軽く見渡す。
一晩限りの快楽の相手を探しに来ているであろう男女。
裏で行われているであろうドラッグの売買。
そういった物を彼女は無表情に眺めた。
「それは――」
受けていない。俺が受けたのは事件の真相解明とか、調査の過程とか、そういうことだ。
宮下ケイのときのように、理不尽な死から救いたい子供がいるわけでもない。
ルーブのときのように、守りたい皆の英雄がいるわけでもない。
五十嵐結衣のときのように、クソの慰み者にされる運命を待つだけの女の子も――
「なら私とよそに行って、もっと楽しいことをしましょうよ」
彼女が俺の耳元でささやいてくる。
恐らく――このまま彼女とどこかに二人で行って朝まで一緒に過ごせば――いわゆる恋人関係になるだろう。
夢のような話だ。しかし、俺は理性を百二十パーセント動員した。
それをしてしまったら――俺は俺じゃなくなる。
俺の師匠ならどうする? 彼は恋人のスーザンが第一だ。
それでも、彼女を家に帰してここで張り込み続けるだろう。
そもそも俺と彼女は恋人同士ではない。
今を逃せば――待てよ?
この店が閉まるまで待つのは……この手の店は午前十時くらいまで平気で開いていることがある。
駄目だ、話にならない。
こんな店に来る奴らのために、俺の今後の人生を左右する決断を棒に振る価値があるのか?
いや、ここで断ったとしても、だ。彼女と俺はどうやら相思相愛らしい、日を改めて――
「実はね誠二。私……この街での仕事が終わりそうなの。来年までにはこの街を出ると思うわ」
彼女が俺の右肩に頭を預けてそう囁いてきた。
「そう、か…………」
思いがけない言葉に、俺の頭が真っ白になる。
「でも、あなたとは一生一緒にやっていけるかも。って思ったのよ。どうかしら。ついてきてくれない? 何なら、私があなたを養ってあげても良いわ。私にとってあなたにはそれだけの価値があるもの」
もし、もし俺が今の仕事をしていなければ……即座に頷いていただろう。
しかし――
『現場では、店員数名に加え、巻き添えとなった一般市民二名が死亡しました。犠牲となったのは、近くに住む佐藤ハナさん(七十二)と、その孫のタカシ君(六)。タカシ君は、誕生日のプレゼントを選びに来ていたところを、犯人と店員との激しい銃撃戦に巻き込まれたものと見られています――』
ジェーンの読み上げていたニュースが……俺にかけられた呪いのように脳裏から離れない。
俺みたいな平凡な人間一人に背負えることには限界がある。そんなことはわかっている。
それでも俺は……金縛りにあったように固まっていた。
ここで俺が頷いたとしたら、それは彼女が必要とする俺なのか?
それとも、ここで頷かない俺を彼女は必要としているのか?
とりあえず今は駄目だ……後でまたもう少しいい雰囲気の場所で彼女に告白して――遠距離恋愛でもなんでも――そんなことを考える。
人生でこんなに悩んだのは初めてかもしれない。
時計に目をやると午前零時を越えるところだった。
視線を彷徨わす…………待て、何故だ?
俺は、ここにいるはずの無い顔を目にとめた。
イワン・アレクシー!?
咄嗟にAR表示を確認――奴の表示は汐海荘から動いていない。
あいつ、ホロリンクを置いて来たのか。
裏をかかれた!
瞬間、耳から遠ざかっていた雑音が俺の意識に戻ってくる。
「綾乃さん!」
俺は彼女を抱きかかえ、後ろに庇う。
そしてイワンとの間に立ち、懐に手を伸ばした。




