第十話 対決
俺の目の前には金属製の灰色の扉が立ちはだかっていた。扉には104号室と書かれたプレートが申し訳なさそうに張り付いている――これが、唯一の装飾だった。
扉の隣、薄汚れた壁面には、とっくの昔に潮風で塗装が剥げ落ち、代わりに誰かの指紋と錆でコーティングされたチャイムが備え付けられている。
俺はとりあえず一押し。扉越しにチャイムの音が淀んだ空気を震わせた。
十秒経過――室内で動きはない。
二十秒経過――室内で動きはない。
いるのはわかっているんだが?
居留守を使うつもりか?
俺は再度チャイムを押す。
再び待つ。
三十秒経過――室内で動きはない。
静寂――潮風が俺と扉の間を駆け抜け、地に落ちた木の葉が引きずられる音のみが俺の鼓膜をそっと撫でる。
イワンの野郎――!!
「誠二。いつ私に『人類の狡猾なやり口』とやらを教えてくれるのですか?」
雪風が何やら言い出す。
俺は雪風を無視。良いだろう。そっちがその気ならこっちもこうだ。
扉を猛烈な勢いでノック。ついでに軽く蹴りもトッピングしてやる。扉の上げる悲鳴が、周囲に飛び散った。
「アルゴスセキュリティだ! 開けて下さい!!」
ノックの音に追加して大声で叫ぶ。
「イワンさん! 開けて下さい! アルゴスセキュリティです!」
室内で、重い何かが動く気配。床の軋む音。
金属の擦れる悲鳴とともに扉が開く。
青いジーパンに白いティーシャツを着たイワンが俺の目の前に立っていた。
イワンは無言。茶色のイヌ科の瞳が、俺を捉えたまま、微かに首を傾げている。その仕草は、人というにはあまりにも獣じみていた。
「アルゴスセキュリティ風紀課の斎藤です」
そう言いつつ俺はコートに仕込んである変装用――アルゴスセキュリティを辞める際に記念品代わりに偽造しておいた――刑事手帳を開いて見せる。そして、奴が粗探しを始める前に即座にコートの内ポケットにしまいなおす。
「実は――このあたりでひったくり事件が多発しておりまして。あたりの聞き込みをしていたのですが」
ここで言葉を切ってイワンの様子を見る。無言。
こいつまさか――日本語が解らない?
「В этом районе(ヴ・エータム・ラヨーニェ)в последнее время(フ・パスレージニェ・ヴレーミャ) участились грабежи(ウチャスチーリスィ・グラビョジ)。 Х ожу, спрашиваю людей(ハジュー、スプラーシヴァユ・リュデーイ) — вдруг кто-то что‑то видел(ヴドゥルグ・クトータ・シュトータ・ヴィーデル)」
俺は錆びついたロシア語をフル稼働して言い直した。
「あぁ、日本語――解りますよ。あなたのロシア語は腐ったボルシチだ。聞くに堪えない」
突如喋ったイワンの声は、剥き出しの刃だった。
低く、硬質で、そして俺への敵意を隠そうともしていない。
おいおい……日本語がわからないふりで誤魔化そうとしたあげく、下手糞なロシア語で話しかけられると耳障りだから日本語で話せ……だと?
こいつ……いますぐ銀の弾丸を叩き込んでこの舐めた口を今すぐふさいで――いや、落ち着け俺。
待てよ? 名誉棄損でなんとかならんか? どう考えてもならんな。
「えーと……それは失礼しました。で、ひったくりの件ですが――」
「あぁ。聞いたこともない。他を当たってくれ」
そう言って扉を閉めようとするイワン。
「おっと! ちょっとあなたのCIDを確認させてほしいのですが」
俺は閉まりかけた扉を、靴で強引に止めた。
「おや? ホロリンクの電源が入っていない? ホロリンクを持っていなくてもCIDの登録された生体タグを所持していれば問題はありませんよ。どちらもお持ちではないのでしょうか?」
そう言いつつイワンの腕につけているホロリンクに手を伸ばしタップ。
イワンは無言で、俺の伸ばした手を振り払う。
「あぁ――必要無いからな。切っていたんだ」
俺のタップでイワンのホロリンクに電源が入る。
奴のCIDが俺の視界に重なっているARに緑色の文字で表示された。
「問題ありませんね。では、何かあったら気軽に頼ってください。満月の夜、発作的に狼の真似をして遠吠えをしたくなったり、とかね」
俺は十ワットのウインクをサービスとして飛ばしてやる。しかしイワンは無言で扉を閉めた。
「まったく、照れ屋さんめ」
俺の呟きは、潮風に溶けて散った。
扉の前から立ち去った俺は、歩きながら雪風に話しかける。
「イワンのホロに超小型発信機を張り付けた。これであいつの現在地がわかるだろう。ばれたらそれまでだが。ホロリンクにあまり触らないようだから今夜くらいはもつと信じたい」
「流石です誠二。これが人類の狡猾さですね。私は感銘を受けました」
雪風が淡々と棒読みで応じる。
「素直に褒めろよ!」
「発信機の信号、正常に受信。……汐海荘104号室に静止しています。これで彼が『ババ・ヤガ』へ向けて移動を開始した瞬間、あなたのARに赤いラインが引かれることになります。……さて、褒めてほしいとのことですが……『おじさんの割には、指先の動きが女子大生のフリック入力より速かったですよ』これで満足ですか?」
「……。後半が余計だ。……おいアーク、見たか。指先一つで狼に首輪を嵌めて見せる。これが『プロ』の仕事だ」
「……えっ?」
こいつ……絶対にゲームしてただろう。どう考えても教育的指導が必要だ。
「アーク! お前、ドローンでちゃんと見張っとけよ!!」
「はい!」
俺は愛車に戻ると、シートに体を沈めた。やれやれ、やっと俺の体温を盗む風から身を守れる。
「さて、問題は『ババ・ヤガ』は三店舗。俺は一人ということだ」
残った問題に意識を戻す。
「そこの解決が必要ですね」
「アルゴスは動かないだろうし……それに『ババ・ヤガ』にアルゴスの人間は入れないだろう」
「なぜですか?」
「現職の刑事ってのは――どうしても臭うんだよ」
「成程。確かに多くの犯罪小説でそのように語られています」
「だから頼んでもな……」
「ではリンクスは? 彼はそのような臭いはしないでしょう」
そう言うと思っていたが……俺は言葉を濁す。
「リンクス単独で人狼と戦う可能性があるのは……奴はまだ子羊だ。狼の前に差し出しても豪華なディナーになるだけだ」
「はぁ……あなたもたいがいに過保護ですね」
俺を過保護な保護者みたいに言うんじゃない。
「雪風。俺は現実的な話をしているんだ」
「リンクスとリーナスとアークのトリオならどうでしょうか?」
「……。不安しかない。だが――誰も居ないよりはまし、か。だが、それでも二店舗だ。一店舗はどうしても余る」
「私は不思議なのですが――なぜ専門家に頼まないのですか? どうせとぼけるでしょうから先に言いますが、斎藤浩一に声をかけましょう」
「お前――マジか――それは……」
わかってはいた――わかってはいたが――
「大丈夫です。私があなたのふりをして浩一へ依頼のメッセージを作成します。送信しました」
俺が躊躇っていると、浩一へのメッセージが勝手に送られていた。
何なんだ……?
主体性がありすぎるのも問題があるのでは?
俺はAIと人類の適切な関係について頭を悩ませつつ、車のエンジンをかけた。




