第三話 居てもいい場所
十一月五日 午前十一時
新西京三区ダウンタウン 大黒天通り 斎藤誠二探偵事務所
目を開くと、暗い茶色の天井が目に入った。
冬眠から目覚めた熊よりも、今の俺は寝ぼけている。
身体を確認する。
手当された形跡がある。
室内を見回す。
おもちゃ箱に丁寧に玩具をしまう子供が、持ち物が多すぎてしまいきれなくて整理整頓したくでもできない、といった印象の部屋だ。
窓はない。
扉が一つある。
壁も天井と同じく暗い茶色で統一されている。
壁一面には紙の小説が本棚に並び、入りきらない本が床に積んである。
今時紙の本?
トイレットペーパーが尽きた時に尻を拭く紙をあんなに置いとくとは酔狂な話だ。
部屋の隅にはフィギュアが幾つか置いて……いや、仏壇に位牌を飾るかの如く祀られている。
そして幼児の集団に紛れ込んだ高校生くらいの違和感を抱かせる、大きなロッカーが置いてあった。
……金目のものがあるとしたらあそこか?
俺の着ていた服……擦り切れて薄汚れた緑色の軍用ジャケットと黒いジーンズは……綺麗に洗濯されてすぐ近くのテーブルの上に置いてある。今すぐパーティーに着て行けそうなくらいだ。
どうやら助かったらしいという感覚がしみ込んでくる。
しかし、俺を助けて何を企んでいる?
さっさと服を着て金目の物をもらってずらかろう。
その時、俺の横たわっているベッドに一緒に寝ていた奴がいたことに気が付いた。
俺の足元に黒い毛玉が丸まっている。
黒猫だ。
エメラルドのような緑色の目でこちらを見つめている。
良い子だから鳴かないでそのまま静かなままでいてくれよ。
俺が出て行ったあとなら好きなだけ……一晩中だってロックを叫んでくれても良い。
「ふむ。目を覚ましたか無知蒙昧なる人の子よ」
鳴くどころか喋った。
「どうした? 我が美しさ、威厳、尊さ、神々しさにうたれて言葉もでぬか。許す。喋るが良い。そうだな。まず名を聞かせろ」
しかも自分を神か何かと勘違いしているらしい……
「リンクス」
俺は自分の名前を教える。
「ふむ。良いだろう。特別に覚えておいてやろう」
「それは有難う。あんたが助けてくれたのか?」
俺の質問を聞いた黒猫は、瞳を細めるとまたもや尊大な口調で語り始めた。
「我が? 貴様如き塵芥を? ふっ……調子に乗るなよ小僧。そうだった、一つ注意をしておこう。そこらへんにある紙の本は鼻をかむチリ紙にしても良いが、我が至宝には指一本触れるなよ?」
「……。安心してくれ。触らないように今すぐ出て行く」
床に立って服を着ようとするが……身体に力が入らない。
床の上で立ち往生していると扉が開く音がした。
そして赤いコートを着た男が入ってきた。
「おっと眠り王子のお目覚めか? 目覚めのキスはリーナスが?」
俺の意識が闇に沈む前に聞いた声だ。
やや茶色がかった髪、三十代くらいか?
ヒューマンの男性。瞳は猫の瞳のようだ。室内が暗いからか瞳孔がやや大きい。
改造者か。どの程度改造しているのかは解らないが……
「誠二。冗談は顔だけにしておけよ。我は忙しいので後は貴様の仕事だ」
「俺がイケメン過ぎるからってそう言うなよ」
黒猫は羽毛のように重力を感じさせない動きで床に降り立ち、尻尾をピンと立てて部屋から出て行った。
誠二と呼ばれた男は俺を虫をつまむかの如く軽々と担ぎ上げ、ベッドに放り投げた。
「俺は斎藤誠二。新西京きってのハードボイルドな私立探偵だ。お前は?」
「リンクス」
「帰るあてはあるのか?」
「ある」
反射的にそう答えていた。
そう答えておけば――この得体のしれない場所から逃げ出せるかもしれない。
「そうか。今すぐ帰りたいのか?」
何だ? 帰りたいと言えばすぐ帰って良いぞ。と言わんばかりのこの返事。
「……」
あの夜の事を思い出す。俺には……もう……どこにも帰る場所はない。
だが、こいつが小児性愛者の変態じゃない保証は何処にもない。
そんな奴の慰みものになるくらいならストリートで野垂れ死ぬ方がましだ。
黙った俺を気遣ったのかも良く解らないが…誠二と呼ばれた男はペラペラと話し出した。
「居たいならしばらくここに居て良いぞ。何か警戒しているようだが、俺がお前を助けたのは単なる――そうだな――俺の精神衛生上の理由だ。別に何かしてもらう必要はない。
好きにしたらいい。あぁ、そっちの本には許可なく触るなよ。あれは観賞用だ。
そっちの本棚の本は読んでも良い。布教用だ。
そこのロッカーも触れるな。お子様には危ないからな。
フィギュアはどうでも良い。むしろ破壊してくれたらスペースが空いて助かる。好きな時にお前はここから出て行ってもいい。
そのときは一言声をかけてくれると助かる。しかし即座に野垂れ死にされたら俺がお前の治療に払った金が無駄になるから――無理に出て行って突然死かますのは遠慮してほしいところだ」
そう言って下手糞なウインクを飛ばしてくる。信じられるかよ。
だが――こいつの目。俺を見る目は、今まで見てきたどんな人間の目とも違った。
俺を空気ではなく、ゴミでもなく、性欲の対象でもなく、商品でも敵でも仲間でもなく――まさか、人間として俺を見ているのか?
「何があった?」
そんな俺の迷いを知ってか知らずか――まるで昨日の天気について質問してくるかの如く、暢気に質問をしてくる。
「……あんたに関係あるのか?」
「いや、ないな。人狩りで弱小ストリートギャングが消える。ストリートチルドレンが何人か消える。良くある話だ。だが――まだ間に合うかもしれん」
「……」
こいつ、全部わかって……呆気に取られて黙っていると、今度は飯の話をしだした。
「で、特製のペペロンチーノを食うところだったんだが、腹は減ってるか?」
どう答えようか一瞬迷う。しかし、体は正直だ。それに、俺に何かするならとっくの昔にどうにかしているだろう。今のところは信じてやってもいい。
「減っている」
俺は頷いた。
「食うか?」
「食う」
「おいおい、まずはエチケットだ。俺はあんまり気にしないが、世の中には年上というだけで敬語を強要する石頭で溢れている。もう少し言葉遣いに気を使った方が良い」
「ストリートチルドレンの平均寿命で考えればあんたよりも俺の方が年上かもしれないだろうが」
「面白い視点だな」
本当に面白そうな顔をして誠二は言ってくる。
「だが、そう思ってるうちはお前はそこから抜け出せない」
……こいつは何を言っているんだ?
「何の話だ」
「まぁ良い。とりあえず俺の分のペペロンチーノをやる。俺は自分のを作ってくる。やれやれ二度手間じゃねーか」
そう言って持ってきてくれたペペロンチーノは……確かに美味かった。
「ペペロンチーノにはいろいろあるが、俺は余り乳化させない焼きそば風ペペロンチーノが――」
何やら語り始めたこいつの言葉を子守唄代わりにして、俺は水底に沈んでいくように――こんなふうに眠るのは、いつ以来だろう――眠りに落ちていった。




