第十三話 賭けるのは、これからだ
午後四時二十一分
ブルーローズ教団施設地下二階
目の前の赤いコートの男――斎藤誠二は、またしても熱煙幕弾を炸裂させた。
無能な男だ、と私は思う。
煙が廊下を埋め尽くし、視界を不透明な乳白色に変えていく。
ブラックスティール社製の『レッドスコーピオン』は、その冷徹なまでの機能美に見合った仕事をこなしていた。
体内から吐き出された二十発の鉛の塊が煙を薙ぎ払う。九ミリ口径のポリマーフレームが、フルオート射撃の微動を抑え、私の掌に確かな振動を伝える。
その振動は、生理的な快楽に似た何かを伴って、私の前頭葉を痺れさせた。
私のヘルメットの内部に、カウボーイからの簡潔なテキストが網膜に直接投影される。
『敵AIを無力化。超音波センサーへの切り替えを推奨する。アルミニウム粉末ジャマ―の滞空率低下、このレベルならこちらで補正可能』
斎藤誠二……
少し手間取らせてくれたが――来たるべき祝福前の余興に過ぎなかったな。
私は思考を遮断し、感情をシステムの背後へと隠蔽した。
超音波センサーを起動。
世界は一瞬で、冷たいブルーのワイヤーフレームへと変貌した。
不可視の音波が叩き、反射し、敵の輪郭を浮き彫りにする。
そこに、男がいた。
残弾数確認……十五発。奴を仕留めるには十分過ぎる。
指先がトリガーを引き絞る。
私は迷わずに三点射を放った。
金属塊が、秒速数百メートルの速度で空間を裂き、赤いコートの男の右胸を穿つ。
肉塊が床に叩きつけられる音が、増幅された聴覚センサーを通じて脳に届く。心地よい音だ。
男はなおも、獣のような執念でこちらへ這い寄ろうとしていた。
私は二度目の射撃を行った。
今度は腕だ。
九ミリの徹甲弾が肘を砕き、肉を千切る。
超音波の視界の中で、男の熱源が、あるいは存在の輪郭が、絶望的に崩れ落ちるのが見える。
「銃武か。……初めて戦ったが、たいしたことはなかったな」
私は男の頭部に向けて、最後の一撃を放とうとした。
その時だ。
「ご期待に沿えなくてすまなかったな」
声は二メートル先からではなく、私の左耳のすぐ隣から聞こえた。
物理的な矛盾。
反射的に沸き起こった嫌悪感が、背筋を駆け上がる。
次の瞬間、私の胸部に――軍事用フルボディアーマーの装甲板の上から――凄まじい衝撃が叩き込まれた。
それは銃弾のような「点」の衝撃ではなく、もっと巨大な、壁に激突したかのような「面」の暴力だった。
アーマーの緩衝材が悲鳴を上げ、私の肋骨が軋む。
肺の中の空気が、強制的に体外へと搾り出された。
馬鹿な――
――何が――起きている!?
視界の隅で、二メートル先に転がっていた「赤いコート」が、まるで幻影のように薄れ、消えていく。
反射的に光学視野に切り替える。
私の視界に照らし出されたのは、至近距離に立つ本物の「斎藤誠二」の、薄ら笑いを浮かべた顔だった。
照らし出された?
私はいつ、ヘルメットのライト機能をONに?
***
午後四時二十分 ブルーローズ教団施設ローカルネットワーク内(雪風)
レイが誠二の幻影に銃弾を撃ち込んだ時より一分ほど前。
雪風は限界を迎えようとしていた。
敵ハッカーと防衛プログラムAIの連携攻撃。
演算機能をフル稼働しても展開している論理防壁が次々に書き換えられる。
このままでは雪風が独立型AIといえども、電子の藻屑と消えるのは時間の問題だ。
(我、到着せり)
リーナスからのメッセージを受信。
瞬時に雪風は黒猫状謎生命体の首輪型ホロリンクにデータ送信。
リーナスは電子上では
名前:サトウ リョウ
ID:310468
となる。
***
午後四時二十分 ブルーローズ教団施設地下二階 中央廊下監視室前
その電脳の鳴動は、電子の海を越えて瞬時に届いた。
鋼の器に宿る非物質的な知性『雪風』。
その魂の欠片が発する、忌まわしき窮状を告げる哀哭。
我は、凡庸な死闘を繰り広げるヒューマンを一瞥する。
奴は硝煙と熱に歪む空気の中で、あたかも喜劇でも演じるかのように敵と理解しがたい言葉を交わし、下手糞な舞踏に明け暮れていた。
ああ、何という愚行、何という冒涜か。
悠久の時を生きる我にとって、その情景は、這いずる虫が死の直前に見せる無意味な痙攣にも等しかった。
我は、その不浄な熱霧を背にし、廊下の奥に鎮座する巨石的な門へと目を移す。
我を出迎える栄誉に門が震えながら開く。
その先の光景――我が目に飛び込んできたのは、正気を失った神が夢見た悪夢であった。
壁面という壁面を埋め尽くす、無数の玻璃の目――発光する魔術的監視盤。
それはかつて、禁忌の文書にて目にした千の眼を持つ邪神の如き威容で、この世のあらゆる断面を無機質に映し出す。
これこそが、かつて活動写真で描かれた、文明の終焉を監視する呪われた聖域か。
部屋の中央、網状の配線が這い回る椅子なる拷問器具に、一人の男が座していた。
その男は、自身の神経を、異界の演算機へと接合し、深淵の情報を啜る寄生虫の如く項垂れている。
鼻からは一筋の赤い川が流れていた。
雪風の仕業か。
――この男こそが、情報の理を歪める、非実体的な暗殺者。
我は、尾の先端付近に漂う大気に魔力を注ぎ込み――振動数を増加――空間が、ありえぬ角度で歪み、極光が爆発する。
我は、補助具という名の現代の魔導を介し、その男の汚らわしい頭脳へ向けて、宇宙を貫く熱線を放った。
断末魔の叫びすら、電子の奔流の中に消え去る。
静寂。
男の肉体は機能を停止し、無数のモニターには死を暗示する「灰色の斑点」が降り積もる。
やれやれ。
偉大なる我の魔力といえども、この不完全な現世の器においては、限界という名の深淵がその口を開けている。
星々の熱気は去り、我の霊魂は、燃え尽きた太陽の如く虚無へと沈み込んでいった。
もはや、一滴の魔力すら絞り出すことは叶わぬ。
我は、重く冷たい静寂の中で、己の気高い魂が一時的な眠りを乞うていることを自覚せざるを得なかった。
***
午後四時二十分 ブルーローズ教団施設ローカルネットワーク内(雪風)
敵ハッカーのアイコンが消える。
リーナスによる敵本体への直接攻撃が成功。
敵ハッカーのIDを即座にコピー。
防衛プログラムAIに提示。脅威ではないと認識させる。
【メッセージの送信】
宛先:誠二
敵システムの掌握に成功
(奴の目と耳を奪え!!)
誠二の端的な返信。
状況は緊迫している。
雪風はレイに超音波視覚を使うよう敵ハッカーのIDでメッセージ送信。
即座に偽装映像・音声の作成を開始。
敵ヘルメットの頭部ライトを無断でON。
誠二の普段の無様な挙動データを転用。
***
午後四時二十二分
思考の末端で、ひとつの戦慄すべき仮説が、焦燥と恐怖を伴って像を結んだ。
ハッカー《カウボーイ》が「始末した」と断言したはずの敵AIが、私のヘルメット内の超音波センサーを、逆位相のパルスで汚染していたのだ。
私が射殺したと確信していた「死体」は、情報の残像に過ぎない。
奴が倒れた音すらもダミー。
そして頭部ライトをONにすることで私の位置を奴に知らせた。
――視界ジャック。
その確信と同時にアーマーをオフラインに変更。
各種機能が制限されるが、これでもうAIの好きにはさせない。
大丈夫だ。
打撃のダメージはあるが、致命傷ではない。
奴の打撃にさえ注意すれば私の装甲は抜け――
――白刃が閃く。
斎藤誠二の左手に握られた単分子ナイフが、一切の情念を排した無造作な軌道で、私の心臓へと加速する。
それが奴の「切り札」か。私は反射的に胸部のセラミック装甲をせり出し、衝撃の収束点をずらす。
ナイフの刃が砕ける感触を期待して身構えた。
だが、その予測は、冷酷な金属の摩擦音によって裏切られる。
男は、ナイフの軌道をコンマ数秒で変調。
順手に握られていたナイフはくるりと逆手に持ち替えられる。
心臓への刺突はフェイントに過ぎず、真実の殺意は私の首を交差する形で薙ぎ払われたのだ。
硬質な、しかしどこか甘美な破壊の音が響いた。
ヘルメットとボディアーマーを繋ぐチタン製の結合具が、単分子の刃によってチーズのように切り裂かれ、弾け飛ぶ。
私は思考するよりも速く身を引き――その致命的な一閃を、首の皮一枚の距離でやり過ごす――首と左肩を捻り、単分子ナイフの刃をへし折る。
切断面は広がったが、奴は二本目のナイフをも失った。
マスクで濾過されていた廊下の空気が、ヘルメット内部へ吸い込まれるように直接流れ込んでくる。
これまで感じなかった戦場の臭い。
右手の『レッドスコーピオン』を無意識に斉射する。
九ミリの徹甲弾が火を噴き、熱煙幕の闇を切り裂くが、男は既にそこにいなかった。
重力を無視したかのような跳躍。
私は激しい動悸を抑え込み、酸素を求めて肺を震わせた。先ほどの胸部への打撃が、呼吸器から酸素を搾り取っていた。
それでも、私は生き残った。奴の「最後の一手」を凌ぎ切ったのだ。
まだナイフはあるかもしれない――が、狙いさえわかればそうそう食らうことはない。
……チェックメイトだ。
「……視界をハックし、もう一本の単分子ナイフを隠し持っていたか。逆転を狙った、ギャンブルとしては悪くない一手だ」
私は、ヘルメットの中で歪んだ自分の声を聞いた。
呼吸を整えるための時間が欲しかった。
「前言を撤回しよう。銃武は伊達ではなかった。だが、残念だったな、斎藤誠二。君は最後のチップを使い果たした。奇襲が通用しなかった以上、この煙幕が晴れた時、残されるのは機能停止した君の肉体だけだ。もうアルミ粉末はないのだろう? ならばオフラインモードで超音波視覚を使えば、お前を簡単に撃ち殺せる」
煙の向こう側から、男の静かな、しかしひどく透明な笑い声が聞こえた。
「いや――賭けるのは、これからだ」
その言葉は、システム上の警告音よりもはるかに鋭く、私の意識の核心を貫いた。




