第十九話 私立探偵と私
二月三日 夕刻
新西京三区 カフェ『アビシニアン』(有栖川エリカ)
「おいリンクス。そのお嬢さんの言う通りだぞ。レディの言葉にはな、たとえそれがどれほど理不尽であっても、まずは『イエス。マイ・フェア・レディ』と返すのが、この新西京のストリートで長生きするための最低限の教養ってやつだ」
ボックス席の影から、ひどく耳に心地よい、それでいてどこか芯の通った大人の男の声が響いた。私がハッとして視線を向けると、そこには、仕立ての良い――けれど、くたびれた風合いの赤いコートを着た、琥珀色の紅茶を燻らせている男性が座っていた。
年齢は三十代後半か。やや茶色味のかかった黒髪を耳にかからないくらいの長さにしている。その顔立ちはそれなりに整っていた。何より、その茶色の瞳が印象的だった。深淵を見つめ続けてきた者にしか宿らない、全てを透かし見るような冷徹さと、それを包み込むような奇妙な温かさが同居しており、光の加減によって瞳孔が縦にすぼまる……まるで、猫のよう。
「おい! お前がそんなこと言ってるの聞いたことね―ぞ! そもそもお前はどっちの味方だよ」
リンクスが不満げに耳を押さえながら、ぶつぶつと文句を言って誠二と呼ばれた男性の対面に乱暴に腰を下ろした。
「俺は常に正しい方の味方だよリンクス。それとも……お前が一足す一を三と力説しているとして、えこひいきしてそう! それが正解! って俺に言ってほしいのか? 今度からそうしようか? 外で恥をかくのはお前だぞ」
誠二さんは唇の右端を皮肉げに上げることで、あえて変な顔をしてリンクスにそう答えた。せっかくの綺麗な顔を、自分から変な顔をするなんておかしな人だ。
「……そういう話じゃないんだよ」
リンクスはすねた口調でそんな事を言いだした。
「マスター、ストロベリーサンデーを二つ!」
誠二と呼ばれた男性は、悪戯っぽく笑いながらカウンターの初老の男性に注文をする。マスターはただ、静かに頷いた。
「えっと、有栖川エリカです。はじめまして、斎藤誠二さん」
私は礼儀正しく頭を下げると、リンクスの隣りに座ることにする。
「斎藤誠二です。うちのリンクスが世話になっています」
彼はそういうと頭を下げてきた。なんだろう。お父様やお母様と一緒によく出かける会合で多くの大人たちに会うのだけど、彼らとは何かが違う。彼の眼差しは――私が将来どの程度の値段がつく美術品なのか見定めているような目ではない。かといって、私をまったく値踏みしていないわけでもなさそうだった。
「へっ。助けて世話したのは俺なんだけどな」
リンクスが面白くなさそうに言いだした。
「脅したのもお前だろ」
誠二さんはそう言って笑った。
「いえ、えっと……リンクス君には助けてもらって大変助かりました。改めてお礼を言わさせてもらいます」
私は再び誠二さんとリンクスに頭を下げた。
「いや、リンクスが君を助けたのは、奴の人生で一番輝いている瞬間だった。お礼を言うのはリンクスの方だ」
「意味がわからん」
リンクスは明後日の方を向いたまま毒づいた。
「おいおい、こんな可愛いお嬢さんのピンチを格好よく救ったんだ。間違いなくお前の人生の頂点だ。むしろその瞬間のために生まれてきたのでは?」
「ふざけんな誠二」
リンクスは誠二さんに顔を向けると睨みつける。この二人のやり取りは――親子ではなく、なんだろう。私の目には、対等の悪友同士のように映った。思わず笑ってしまう。
「とまぁ、軽いジョークで場を和ませたところで、俺に何の用かな?」
誠二さんの発言で私は目的を思い出した。
「えぇ……実は、私の通っている学園である事業を立ち上げたくて。手伝っていただきたいのです」
「事業?」
誠二さんか眉を上げた。
「はい。一部の生徒は学園内での営業を許可されています。私は今までそれに参加していませんでしたが……参加しようかと考えたのです」
「ふむ。何の事業を?」
「食堂です」
「……俺は私立探偵であって料理人では――」
数秒の沈黙の後、誠二さんが話し始めた。
「『イエス。マイ・フェア・レディ』はどこにいったんだよ誠二?」
それを遮ってリンクスが口を挟む。
「も、もちろん、学園規定の料金はお支払いいたします!」
「しかし――いや――ありか?」
やはり難しいのだろうか? 誠二さんが悩み、思索にふけろうとしたその時、綺麗な女性の声が聞こえた。
「受けましょう」
えっと……どこから? 私は辺りを見回す。
「申し遅れました。私は斎藤探偵事務所の経理兼秘書を務めます、人工知能の雪風と申します」
誠二さんの腰のあたりからの声だ。人工知能を秘書にするのはよくある話だけど、勝手に引き受けたりするなんて聞いたことがない。まるで独立型人工知能みたい。
「あっ、はい。よろしくお願いします雪風さん。有栖川エリカと申します」
「実に礼儀正しいですね。人類があなたのような個体だらけならいいのですが。誠二、リンクス。彼女に礼儀作法を教わっては?」
「遠慮しておこう。これ以上俺が洗練されたら通りを歩くだけで求婚者だらけになっちまう。というか、勝手に受けるとか言ってるんじゃない」
そう言うと誠二さんは、雪風さんと何やらひそひそやりとりを始めた。
私の目の前にストロベリーサンデーが置かれる。私が横に目をやるとアビシニアンのマスターが軽く会釈して、立ち去った。私の前に一つ、もう一つ――リンクスの物だろう、机の上に二つ目のストロベリーサンデーが取り残されていた。
「えっと……頂きます」
誠二さんに頭を下げてストロベリーソースの乗った生クリームとバニラアイスを口に運ぶ。美味しい。リンクスがもう片方のストロベリーサンデーに手を伸ばすと誠二さんが「俺のだが?」と言って自分の手元に引き寄せる。
「おい!? 俺のは?」
リンクスが怒りだした。
「えっ……欲しいのかリンクス?」
誠二さんはぱくぱく食べながらそんな意地悪を言う。
「当たり前だろうが! ふざけんな!」
リンクスのその言葉を聞いて誠二さんは嬉しそうな顔をしてホロリンクで追加注文を行う。
「なんだよ、素直じゃないか」
「意味わからん。死ね!」
「おっと~? 奢ってもらいたいならそういう態度は控えた方がいいんじゃないか~?」
「……すまなかったな。ありがとうよ……ございます」
私は二人のやりとりを聞きながら――初めて感じる感情を感じていた。これは……多分、羨ましいのだろう。私はお父様やお母様と、こんな会話をしたことがなかった。
「待て。我のは?」
また違う声がした。男とも女とも取れない、聞くものを不安にさせるが、同時に温かい闇に包み込むような矛盾した声色。机の下から、緑色の瞳をし、赤い首輪をつけた黒猫が現れ、机の上に飛び乗った。
「お前……さっきピザを食べてたよな、リーナス」
誠二さんの最初の落ち着いた印象はどこにやら、リーナスと呼ばれた黒猫に文句を言い始めた。
「腹二十分まで食べる。それが生存の知恵よ」
溜息をついて誠二さんは更に追加で注文を始めた。何で猫がしゃべっているのだろうか……魔術師の使い魔? 猫又? 明らかにおかしい。この人達は変だ。普通の探偵とは思えない。
「あの……」
私は思い切って声を出した。
「あぁ、エリカさん。君の依頼、受けさせてもらおう」
誠二さんがそう言ってくれた。
「本当ですか!」
思わず声が大きくなった。
「えっ、あぁ……まぁ、こうみえても俺のPPMは世界でもトップレベルだしな」
「誠二。料理の味とPPMには何の関連性もありません」
「ある」
「ありません。非論理的です」
何やら言い争いを始めた誠二さんと雪風さん。お母様なら気品が無いと眉をひそめそうだけど、私は思わず笑っていた。
「誠二。笑われていますよ」
「あぁ、そうだった。エリカさん。ちょっと二時間ほどいいか? よろしければうちの事務所に来て欲しいんだが。もちろんあちらの運転手さんも一緒に事務所にきてくれてかまわない」
そう言って、彼は外で待っている丸井のことへ言及する。誠二さんのその話を聞いても、もう私に不安はない。
「はい……わかりました」
私は頷いた。
新西京三区 大黒天通り 斎藤誠二探偵事務所
探偵事務所の表札のかかった玄関をくぐると、こたつ、ホロテレビ、事務用のデスク、奥にはソファ、壁に立てかけられた机(冬がすぎればこたつと入れ替えるのだろう)、マジックミラーの仕切りなどが目に入った。
「なぁ誠二。お前まさか……」
リンクスの顔色がなぜか悪い。
「あぁ、エリカさんこたつにどうぞ。丸井さんもどうぞ」
誠二さんはリンクスに取り合わず、私と丸井に声をかけた。
「いえ、私はここで……」
丸井は遠慮して壁際から動こうとしない。
「ではこちらを」
誠二さんは椅子を持ってきて置いた。
「ありがとうございます。お言葉に甘えます」
丸井は椅子に腰かけた。
私は促されるままにこたつに入る。これもまた、生まれて初めての経験だった。温かい。ただ、正座するべきなのだろうか……あぐらをかくのははしたないし……
「あぁ、楽な姿勢でどうぞ」
誠二さんはそう言いながらホロテレビをつけ、何やら映画を再生し始めた。
――――二時間後
「そのときは――」
誠二さんが言った。
「良い――」
リーナスさんが尻尾を振りながらこたつの上で言った。
「考えだと――」
リンクスがそう言った。
二人と一匹(?)の視線が私に集中した。
「えっと……」
私は戸惑った。
「思った、だろ」
リンクスがひそひそと言ってきた。
えっ――恥ずかしい――しかし、首をかしげて私を見上げる黒猫の視線に、私は負けてしまった。
「思った……」
そう小声で私が口にすると三人は大喜びでハイタッチを始める。
「いぇーい! よくいった!」
誠二さんが喜んでいる。
「ナイスだエリカ!」
なぜかリンクスも大喜びだった。
「エリカ、何をしておる?」
リーナスさんに促されて、私もハイタッチに参加した。
バカバカしいと思う反面……とても楽しかった。
その日はこれで解散だった。果たしてあの西部劇(?)鑑賞会は何だったのだろう。誠二さんの意図がわからなくて、私は帰りの車内でずっと考えていた。すると、丸井がぽつりと口にした。
「よかったですね。お嬢様」
「何がですか丸井? 正直、あの時間に意味があったとは……」
「いえ……なんでもありません」
こんなに嬉しそうな丸井を見たのは初めてだった。そして――車のガラスに映った私の表情は――それ以上に嬉しそうだった。




