第十四話 歩き出した私
二月二日 夕刻
新西京一区 有栖川邸(有栖川エリカ)
帰宅した私は自室へと駆けこんだ。
照明を点ける気にもならず、真っ暗闇の中。
真っ白い壁紙の華やかな部屋は今、闇に包まれている。私は自分のベッドの上で三角座りをして膝を抱えていた。
「お嬢様、今日の家庭教師の講義のスケジュールですが――」
手首のホロリンクが淡く点滅し、プライベート回線から年配の執事である丸井の落ち着いた声が室内を満たした。
「……全部、キャンセルしてください」
私は膝の上で固く手を握りしめ、声が震えないように気を付けて声を出した。今日は、もう誰にも会いたくはなかった。
「しかしお嬢様――」
「キャンセルしてください、と言っているのです!」
気が付けば、思わず大きな声を出していた。
「はっ――」
丸井の困惑と驚きを含んだ応答の後、通信が切れた。
……。生まれて初めてかもしれない。誰かに怒鳴ったのは。
静寂が戻った暗闇の中で、私は自分の激しい呼吸に胸を上下させた。今になって時間差で身体がガタガタと震えてくる。怖かった……涙が滲む。いやだ、あんな程度のことで泣くなんて、有栖川の人間としてみっともない。でも、どれだけそう言い聞かせても自分の意志とは無関係に身体は震え、涙が溢れ出す。
暗闇の底で、私を最悪の窮地から助けてくれたリンクスに思いを馳せる。
そしてあの時のことを思い出す。
下交中の生徒たちで賑わう校門。
「なぜ逃げる? やはり何かやましいことがあるのか?」
私を屋上から追いかけてきたであろう、彼が私に刺々しく問いかける。
今思い出してみると、その冷徹な瞳は山猫ではなく、猟犬がふさわしかった。
「逃げ……えっ、屋上で私を助けてくれたのは……?」
その言葉で私は、あの修二を包み込んだ闇が彼だったと、クラスで隣の席なのに一言も口を聞こうともしなかった彼だったと、気が付いた。
それを知った瞬間、思わず心が跳ねた気がする。こんな気持ちは初めてだった。
お礼を言おうと私は口を開く。
「えっと、あの、リンクス君――」
私が言葉を言い終えるより前に、リンクスは私の耳元で私の芽生えたばかりの想いも、言葉も、断ち切った。
「勘違いするなよ。俺はお前をぶちのめす」
いったいなんだというのか?
私はなぜ彼に嫌われている?
私は彼に何もしていないはずなのに。むしろ、一言も話しかけてもくれなかったのに。いや……嫌っていたのなら、話しかけてくれなかったのも当たり前の話だ。
彼への恐怖と、それでも残った彼へのよくわからない想いが、私の中で消化されないまま漂うのを感じる。
彼の事はとりあえず置いておこう。少しずつだったが、身体の震えは収まってきた。
修二の――あのような低俗な下衆のことなんて考えたくもないけれど、考える必要がある。また絡まれたらどうしよう? 二度と人のいない場所で会うべきではない。
『イーシドは数が少ない。助け合わなくてはね』
お父様の言葉。その助け合うはずのイーシドが――私を襲ったのですよお父様。そして私を救ったのはローシドの少年でした。その時、私は気づいた。気づいてしまった。
『お前の父親だってな、形を変えてやっていることだろうが! つまり、結局はお前もまた、多くのローシドやゼロシドを搾取して今のいい生活を堪能しているってことなんだよ!』
リンクスは――扉越しに、あの言葉を聞いていたのだ、きっと。
……私が……彼の立場なら……当然、いい気はしないだろう。
ローシドやゼロシドの人間なら、あの言葉を聞けば不愉快に思うのは当然だ。
もちろん、それで『ぶちのめす』までいくのは別の話だと思う。
いけない、修二のことを考えないと。修二は多分、自分が誰に、何にやられたかもよくわかっていないはずだ。つまり――あの闇は、私のボディガードということにしてしまえばいいのではないか?
これは名案な気がしてきた。えっと、私は確かあの時……
「だれか! だれか助けてー!」
と叫んだ。……。普通ならボディガードの名前を呼ぶはずだけど……修二はお世辞にも頭が回るとは思えない。多分気がつかないはずだ。
次にリンクス君、じゃない、私をぶちのめすなんていう乱暴な男子に君を付ける必要は無い。リンクスの件だ。
彼と一度きちんと話をしなくてはいけない気がする。もちろん人目のある場所で。なんならオンラインで会うという手もある。そうだ、彼が修二から私を助けてくれたのは事実だけど、私がその場に残り続けていたとして……その後、彼が私を襲ったかもしれない。私は自分の体を両手で抱きしめた。
彼の台詞を思い出すと、その可能性は低そうだけど……修二の豹変で、私は男性というものがいざとなれば暴力で襲ってくる可能性がある危険な存在だと、理解してしまっていた。
……。使えるものは使おう。私はホロリンクを操作した。
音声モードで通話をかける。
「はい、お嬢様」
先ほど、私に怒鳴られたのを気にするふうでもなく、丸井は落ち着いた返事をした。
「先ほどは取り乱してすみません、丸井。……折り入って頼みがあるのですが……私のクラスの生徒の緊急連絡先を至急調べて、私に教えて下さい」
「それは……学園の個人情報保護コードに抵触いたします。いくら有栖川の権限とはいえ少々――」
丸井の声が躊躇を示して迷う。
「丸井」
私は一押しするために、お父様が人に命じるときの、低い落ち着いたトーンの声を真似た。
「はい」
「これは、トップオブトップスにかかわる件です」
「……! なんと……左様でございましたか。失礼いたしました。すぐに手配いたします」
――生まれて初めて、他人に対して明白な嘘をついてしまった。
でも、なんだろう。思ったほどたいしたことじゃなかった。
自分に嘘をつき続けてきたせいだろうか。嘘をつくことに免疫ができているのかもしれない。それはそれでぞっとする感覚だけど、今は必要なことだ。
もちろん、今日合った出来事を全て話せばいいのかもしれない。でも、なぜかそうしたくなかった。いや――恐らくお父様は激怒するだろう。でも、イーシド同士の諍いはどちらかがつぶれるか、もしくはなあなあですまされるのが通例だ。外部機関が働かないから。そうお父様に教わった。有栖川家に迷惑をかけたくはなかったし……お父様が私の話を聞いて尚、なあなあで済ませてしまったら、私はきっと深く傷つくだろう。
もう色々なことがうんざりだった。間修二の事件は、私が色んなことに疲れ果てているということを、私の眼前に突きつけたのだ。それは、突きつけられていた鞘付きのナイフから、鞘が取り払われただけなのかもしれない。
しかし、たいていの人にとってそれは、遠いどこかの危機が、今そこにある危機に変わるような、劇的なもののはずだ。
いいだろう。私なりの方法で――例え勝てなかったとしても、納得がいくまで戦ってみよう。もちろん、やる以上は勝つつもりだ。
数分後、送られてきたリストから目当ての連絡先を選び、私はメッセージを送った。




