第十三話 世界の掟
二月二日 午後四時
新西京三区 布袋通り カフェ『アビシニアン』(斎藤誠二)
アビシニアンの今日の内装はスタンダードな落ち着いた茶色だった。
BGMはクラシック――これは、ムソルグスキーの展覧会の絵か。
プロムナードを挟んで割と曲調がアレコレ変わって忙しい、落ち着くのか落ち着かないのかはっきりしない曲が流れている。店内には奥のボックス席でくつろぐ俺しかいない。
窓からなんとなしに午後のストリートを眺める。
外では新西京のビルの谷間を縫って吹き抜ける寒風が、道行く人々を凍死させようと全力を振り絞っていた。
いかん、見ているだけで寒くなる。俺は視線を外し、手元の紅茶――温かいアールグレイ――に意識を集中した。こんな時は本だ。物語の世界に没頭するべきだ。
俺はコートの内ポケットからスペンサーのスクールデイズを取り出して読み始めた。
しばらくして、扉が開いたことを知らせるベルの音が軽やかに踊った。
カフェの床を静かに踏みしめる、軽快な足取りの重い足音が、こちらに向かってくる。
「斎藤。待たせたな」
「いや、助かるよ。番田」
本から目を上げると、目の前には身長百三十センチくらいのドワーフの男が立っていた。
がっしりとした筋肉質な体格。無精ひげがぼうぼうに生えており、黒髪黒目のスポーツ刈り。火をつけてない葉巻を口に咥えてにやりと笑った。
黒いアルゴスセキュリティの制服が示している通り、彼は殺人課の刑事だ。更に制服の上に黒いトレンチコートを着ている。番田はコートを脱ぎもせず、俺の真向かいの席に滑り込んだ。
「お前が送りつけてきたずっこけ三人組の件だが」
手元のホロリンクで注文をしつつ番田が話を切り出した。
「あれは時を越えて語り継がれるべき名作だよ」
かつて読んだ古き良き時代の児童書の名作を、俺は懐かしみながら頷いた。
「俺もそう思う。だが、あっちの三人組はよくいる新西京商業高校の落ちこぼれだ。何度か補導されている。ただ……ここ一年くらいは大人しいな」
「ほう。あのごろつきどもが、急に改心したと? アショカ王か何かかな?」
俺はわざとらしく眉をあげてみせた。
「改心したコンスタンティヌス大帝が、お前のところの狂犬に路地裏で噛みつかれて、ドクソルダートサービスを呼んだんだったよな?」
「あぁ、あいつら……ちゃんと狂犬病のワクチンを打っていたのか俺は心配だよ」
「あいつらも馬鹿じゃない。いちいちリンクスみたいな見ればわかるストリートギャングに絡まないだろうに。なんでまたそんなことをしたんだろうな?」
「あぁ、そのことだが――」
俺はリンクスが今、聖エリュシオン学園に通っていることを説明した。
「おいおい、どこのプリティウーマンだよ」
番田は腹を抱えて笑い始めた。笑いすぎて口の端に加えた葉巻が落ちそうだ。
「まぁ、俺がリチャード・ギア顔負けの甘いマスクと洗練された紳士のユーモアを持っていることには同意するが」
俺は頷いて紅茶を一口飲むと、机に戻した。
「お前が最近鏡を見ていないことがよくわかったよ」
「素晴らしい推理力だな」
俺がそう言った時、番田の注文した珈琲が机に置かれた。
マスターはそのまま静かに立ち去っていく。
「それなら話は早い」
番田は短く頷いて珈琲をすする。満足げな溜息をつくと話を続けた。
「名探偵様にお褒め頂いた推理力を活用するに……恐らく、お坊ちゃまやお嬢様をカツアゲするビジネスに路線変更したんだろうな。問題は、ガワがおぼっちゃまでも中身が凶暴な山猫を襲ってしまった事だが」
「そこまではいい。だが、ドクソルダートサービスを呼んだというのが解せん」
俺が疑問を呈する。
「それは俺にもわからん。いや――そうか」
番田が何かを思い出したかのように口ごもった。
「どうした? 珈琲を飲むとトイレが近くなる体質か?」
「ご心配ありがとう。超強力正露丸は常備している」
番田は懐から何かを取り出そうとする。
「おい! ここで開けるなよ! ありゃよく効くが臭いはバイオテロそのものだからな!」
「冗談だ。つまり、あの三人組はパトロンでもついたんじゃないのか?」
「パトロンだ~?」
俺は眉根を寄せ、本当かよ? という雰囲気を思いっきり演出した声を上げた。高校生の落ちこぼれチンピラに、ドクソルダートを動かせるほどのスポンサーだと?
「まぁ聞けよ。聖エリュシオン学園といえば、イーシドの子弟が通っているという噂だ」
「なっ――!?」
俺の全身から血の気が引いていく音が聞こえた。
「流石に知っているか」
番田が苦虫をかみつぶしたような顔をして火のついてない葉巻を灰皿に押し付ける。
「そりゃあな。元刑事だぞ。イーシド絡みと思われる事件に出くわすたびに――何度も捜査妨害されてきた」
番田の歯が鳴る音がかすかに聞こえた。
まともな刑事なら誰もが憎むであろう、存在しないはずのCID、E-CID。
「手を引いた方が良いかもしれんぞ斎藤。イーシドには手を出すな。この世界の掟だ」
珍しく、番田が疲れ切った声を出した。
「悪いな」
「お前の頭が悪いのは、最初から知っている」
番田が失礼な返事をする。
「違う」
俺は首を振った。
「性格のほうか?」
「もっと違う」
「じゃあ何だ?」
「俺は奴らをぶちのめせるようになるために、アルゴスセキュリティのキラキラしたバッジを捨てたんだよ」
それを聞いた番田は、一瞬呆気にとられたような顔をしたあと、おかしそうに笑った。
「はっ――警察署で入れる珈琲がどうやったって泥水みたいに不味いから辞めたんじゃなかったのか?」
「勿論それが主な理由だ」
「だろうな」
番田は口の右端を上げた。そしてまた珈琲を手に取り飲み干した。
そして訳の分からないことを言い出す。
「やれやれ、もう署の珈琲メーカーをぶち壊して珈琲は全部出前か何かにするべきだな」
とりあえず俺はお礼を言うことにした。
「まぁ、ありがとう。つまり――結局あいつらの財源は謎ってことだな」
「そうなるな」
番田は頷く。
「だが、イーシドが通う中高一貫校か……そりゃそうか。あいつら、自分達だけで特権階級クラブを作ってやがるからな」
「良い処に目をつけるじゃないか」
番田が人差し指で俺を指した。
「忘れているようだが――俺は私立探偵なんだ」
「なんだ。俺に珈琲を奢ってくれる親切なおっさんだと思ってたよ」
「それは世を忍ぶ仮の姿だ」
「成程ね。ま、イーシド相手だと俺達も――お前と仲の良い新西京トラストニュースも、動けないことが多い。今度ばかりは独りでやることになるかもしれんぞ」
「あんたらにばれないよう気を付けるよ」
「そうしてくれ。イーシドが絡むとなると……最悪の場合、証拠を捏造して連続猟奇殺人犯にされる可能性だってある。お前は檻の中にいるより外にいる方がギリギリ世の為に人の為になるし――お前に死刑執行するまでの間、食わせる食費がもったいない」
「相変わらず無茶苦茶言うな。葬式は派手にしてくれ。とりあえず最低でもスペンサーシリーズ全巻の朗読会は必須で頼む」
やれやれと頭を振りながら番田が言う。
「残業代は出るんだろうな?」
まったく、何でも金だなこの街は。
「これは友情の話だよ」
俺はウインクを飛ばした。
「珈琲一杯分の友情じゃあ……葬式会場の前をパトカーで通過するくらいだな」
「高級取りすぎるだろう」
「サイレン鳴らすのはサービスしといてやるよ。じゃあまたな」
番田は席を立つと、アビシニアンを後にした。
その背中を見送った俺は、残されたアールグレイをちびりちびりと飲みつつ考えた。
やれやれ、リンクスの奴、暴走してイーシドを殴り倒したりしてなければいいが。




