第五話 教室の私
一月三十一日 午前八時二十分
新西京一区 聖エリュシオン学園中等部 Aルーム(エリカ)
高橋美幸が学校を去ったことで、教室の窓際、一番前に座っている私の隣の席は空いたままだった。賞味期限切れの商品を捨て、代わりが届くまで放置されている陳列棚。今日もまた、決まりきったレールをなぞるだけの退屈な一日が始まる。
私は紙の本……ソロモンの指輪……を独り読んでいた。本の中のアクアリウムの記述を見て、似たようなものだなと感じる。広大な水槽に一匹の魚が住み、他の生き物は藻が少し。これだけで完結する世界。私の世界も似たようなものかもしれない。違いがあるとしたら、藻が少し、ではなく、藻が沢山ありすぎることだけど。どちらにせよ互いに干渉はしない。
チャイムが鳴り、佐藤先生が教室に入ってくる。ヒューマンの中年の男性。黒いスーツを着用し、黒髪はオールバックだ。
先生の後から一人のハーフエルフの少年がついてきていた。
「――静かに。今日は我がクラスに、急遽編入することとなった転校生の紹介をします」
先生の事務的な声に促され、教壇の前に立った少年が、感情の起伏のない平坦な声で名乗った。
「斎藤リンクスです。よろしく」
整った顔立ち、まだ声変わりしきっていない少年特有の微かに高い声。黒髪を適当に切りそろえただけの髪。彼自身の持っている野生の獣のような雰囲気。能面のような表情。そして聖エリュシオン学園のブレザー。
それら全てが反発しあっている。まるでお上品に飼いならされた羊の群れに迷いこんだ野生の狼だった。
教室内が女子生徒のひそひそと声で満たされる。
「えーっ、細身でちょっとかわいいよね」「顔はタイプだけど雰囲気が怖くない?」「ハーフエルフのイケメンじゃん」「でも小さいしローシドだから私はパス」
逆にプライドだけは高いハイシドの男子生徒たちは、面白くなさそうな顔をして睨んでいた。
その両方の視線と明確な悪意に気づいているはずなのに、リンクスと名乗った少年は全く興味がなさそうだった。このふてぶてしい態度……思わず彼のCIDを確認する。彼のシドはローシド。私とは住んでいる世界が違う。天を飛ぶ鳥と水の中に棲む魚ほどに。だが、こんな堂々としたローシドを私は初めて見た。
「斎藤の席は……有栖川の隣だな」
佐藤先生の声に促され、リンクス君が私の隣の席に座る。彼は私の方を一瞥すらしない。ローシドの生徒はハイシドの生徒を見ると大抵驚き、展示ケースの外に置いてある芸術品を扱うような態度で接してくる。しかし、彼にとってハイシドの私は空気以下らしい。
そんなふうに無表情な彼は、席につくと興味深そうに机と椅子の動作確認を始めた。小学校から公的な学習機関にある標準的な机と椅子なのに、何がそんなに珍しいのか。ハイシドの生徒よりも、机や椅子に興味があるなんて。逆に私の方が彼を珍しく思えてきた。
一時限目の歴史の授業が始まる。
英才教育を受けてきた私は、既に何度も家庭教師と行った内容であり、退屈極まりない。いつものように机の端末で先の単元の予習を勝手に行う。ふと隣を見ると、リンクス君は至極真面目に授業を聞いている。……。ローシドの奨学生は真面目に授業を聞くのだろうか? よくよく考えると、私は自分以外の生徒がどんな風に授業を聞いているのか気にしたことも無かった。教室を見回すと、半分の生徒が興味無さそうに寝ており、半分の生徒は真面目に聞いている。リンクス君はその中でも一際真面目に聞いていた。私は自分の勉強に興味を戻した。
休憩時間になると、物珍しさに駆られた生徒たちが、一斉にリンクス君の周りへと群がって質問を始める。
「ねぇねぇ斎藤君! どこに住んでるの?」
「父親が甲斐性無しの私立探偵でそこの事務所に――」
「えっ!? お父さんが探偵!?」
「でもローシドでしょ? 生活大変じゃない?」
「いや、別に大変なことは特に……」
「ねぇ、卒業したら私の専属執事になってよ」
「か、考えておく」
「ちょっと! 抜け駆け早すぎでしょ!」
盛り上がる生徒達にたいしてリンクス君はぎこちなく返事をしていた。皆は緊張してて可愛いと言っていたが、私にはわかる。あれは緊張ではなく、自分とは異なる言語と生態を持つ、違う世界の生き物と接する時のとまどいだと。どうせ三日もすれば飽きるのに、人間というのはなんでこう同じことを繰り返すのだろうか。
お昼休みになった。聖エリシュシオン学園の昼食はお弁当か学食、もしくは売店だ。また、一部の生徒は学食や売店を出店する権利を持っている。当然私もだ。隣のリンクス君は――お弁当? ローシドの奨学生はハイカロリーメイトが定番なのに。珍しいこともあるものだ。
あまり見るのも無礼だし、彼に興味があるなんて誤解されたくないから敢えて私は見ないようにする。同級生の子たちがリンクス君のお弁当を興味深そうに観察していた。
「えっ……これ、今時手作り?」「嘘ー! 自動調理器使ってないの?」「いやいや、冗談だろリンクス」「誰が作ったんだ?」
「俺とか。親父」
「えっ?! 料理できるの?」「まじかよ……料理できるローシド?」「お父さんコック?」「いや、探偵って言ってただろ」
そのリンクス君の返事に、大いにクラスメイトは盛り上がる。馬鹿らしい。私のお弁当だってうちの出入りのシェフが手作りしたものだ。……。お父さんと自分で、と言っていた。どんなお弁当なんだろう。しかし、私には彼のお弁当をのぞき込むはしたない真似はできなかった。
『本日の特売情報です。今日の特売は売店『ナインムーン』の焼きそばパンが三十パーセントオフ! いつもは生徒同士の決闘にまで発展する伝説の焼きそばパンですが、本日は品切れ対策でふだんより多め、当社比二倍用意しているとのことです。また、食堂『ゼウス』ではデラックス幕の内定食が限定販――』
「おい清水! 焼きそばパン買ってきてくれよ!」
「う、うん……」
「早くいけよ!」
クラスの後ろでのいつものやり取りと、放送部のコマーシャルを聞き流しながら、私は自分のお弁当に集中する。
――そして、放課後のチャイムが鳴った。
今日一日、彼は私にただの一言も話しかけてこなかった。
住む世界が違うとはいえ、いくらなんでも隣席の人間と全く会話をしないというのは、集団生活を送るうえで問題があるのではないだろうか。
もっとも、私の方からローシドの少年にわざわざ話しかけるのも妙な話だ。両親が見れば、止めなさいと眉をひそめるに違いない。
だから、私は決して話しかけなかった。
そして、彼もまた、私に話しかけてこなかった。
結果として私達は朝礼が始まり終礼が終わるまでの一日の間、隣同士の席に座っていながら一言も会話をしなかった。
これが、彼と私の突然の出会いの始まりだった。




