第三話 有栖川家の私
一月二十八日 午後五時
新西京一区 有栖川邸(有栖川エリカ)
私は聖エリュシオン学園から帰る。新西京一区、高いフェンスに守られた富裕層街のさらに奥にある豪邸。それが私の居場所だ。最新の環境管理システムにより、常に完璧な温度・湿度に管理された邸内は私にとってはガラスの温室。寒い外とは区切られた別世界。
私はその温室で大人の都合で大切に育てられる一輪の希少な花なのだろう。けれど、自分がどんな色で、どんな形で、どんな香りのする花なのか、私にはわからない。恐らく、水をやる大人たち――私の両親でさえ、わかっていないのではないか。
どんな花を咲かすかもわからないまま、温室の無機質で清潔な大気の中、手塩にかけて育てられている。
宿題をし、家庭教師と予習を行う。私は中学一年生にして、高校一年生の学習内容に進んでいた。それ以外にも企業マナー、経済学、群衆心理学、経営学……。私が社会に出て、企業に就職してからトップを走り続けるために学ばなければならないことは、星座の数よりも多いらしい。
夕食の席。
「エリカ、今日のテストはどうだったの?」
お母様のいつもの質問。テストの点数、習い事、勉強、今の経済について――私達に共通の話題はそれしか存在していない。
「はい、全教科満点でした」
「当然だな」
スープに口を付けながら、満足げに頷くお父様。
満点を取るのが当然になった今、これはただの確認作業に過ぎなかった。
「トップオブトップスはどうなの?」
お母様から一番聞かれたくない質問が飛び出してきた。
「すみません……最下位のままです」
私はうつむいて空になったスープ皿を見つめた。
「エリカ、必要な手助けがあれば言いなさい。お前は優秀なんだから、本気を出せばすぐに一位になれるさ」
お父様がいつもの厳格な顔に、気遣わしげな表情を浮かべて言う。
「はい……」
そうなのだろうか?
トップオブトップスはテストで満点を取るのとはわけが違う。でも、それを口にすることは私にはできなかった。
お母様が溜息をついた。
「エリカ……私達はエクセレントシドなのよ? ハイシドの中でも選ばれた者たち。社会に出たら下々の者たちを管理する義務があるの」
「その実地訓練がトップオブトップス……ですよね」
何度も言われている内容だ。次に何を言われるのか、私にはわかりきっていた。
「えぇ。だからきちんと順位を上げて行かないと、ね」
お母様は満足げに頷いた。
「そうだぞエリカ。聖エリュシオン学園でしかできない体験だからな。まずは部下を作る事だ。自分一人で得られる稼ぎは多くは無い」
「はい……」
私は机に目を落とす。私のことを思って言ってくれているであろう。それはわかる。でも、友達ですらなく、部下。どちらも私には縁の無い言葉だった。しかし、イーシドはそもそも数が少ない。聖エリュシオン学園でも全校生徒の一パーセント以下だ。これでも多い方だろう。私には友達というものは生涯できないのかもしれない。
お父様とお母様との夕食を終える。通いのドワーフのシェフの作る手料理は美味しい。けれど、なぜ空虚な味しかしないのだろう。この後の三十分ほどが、一日のうちで私が真に自由になれる時間。
「エリカ、いつもの珈琲を淹れてもらえるかい?」
「はい、お父様」
私はお父様に言われ、静かに席を立つ。
キッチンに向かい、私はお気に入りのマンデリンの豆、二十グラムを中粗挽きにする。二百ミリリットルのお湯の温度は八十二度ぴったりに。この時だけは、珈琲を入れる作業にのみ私の心は集中できる。
フィルターに収まった珈琲豆の中心に、お湯を少量注いで三十秒ほど待つ。ガスが抜けたら中心から円を描くように、細く、静かにお湯を注ぐ。目標の量に達したらそこで終了。
立ち上るマンデリン特有の大地を思わせる香りが、私の空っぽの心をゆっくりと静かに満たしていく。
「お父様、お待たせしました」
私はお父様に珈琲を持っていく。
一口すすったお父様は満足げな笑みを漏らす。
「良い香りだ……そして、えぐみも一切なく、実に深い」
私の心が温まる。嬉しいという感情。いや、感情そのものをあまり感じなくなってどれだけ経つのだろう。でも、この時だけは珈琲の豊かな香りに導かれ、私の摩耗した感性も息を吹き返す。
「そういえば、この間のスティールセキュリティとアルゴスセキュリティの件だが――」
「えぇ、次の企業連合の役員会、荒れそうですね」
お父様とお母様の『会議』が始まる。他の家庭での家族の会話はどんな内容なのだろう。友達のいない私には知る由もないことだ。そして、自由時間が終わり、私の心はいつもの自動人形としての仮面を被った。
***
一月二十九日 午後二時
新西京三区 大黒天通り 斎藤誠二探偵事務所
その日、特に用もなかった俺は探偵事務所のこたつで荘子を読んでいた。手元には誠二が用意しておいてくれた、おやつ代わりの激辛ハンバーガー。
外から吹き付けてくる寒風が、ボクシングのヘビー級チャンピオン並みのパンチで窓ガラスを震わせる。
こたつの反対側に座った誠二――流石に事務所内ではトレードマークの赤いコートは着ておらず、ネイビーブルーの長袖のシャツに、黒いジーンズを履き、猫目のやや茶色がかった髪のヒューマンの男――はこたつの上で銃を分解して何やらパーツを組み替えている。
その隣に無理やり入っているのは五十嵐結衣――ヒューマンの女性。大学生。茶色の髪をポニーテールにし、鮮やかな黄色のワンピースを着ている――が興味深々でその様子を眺めていた。
「せーちゃん! これは何のパーツ? こっちのバネは?」
結衣がこたつの上のパーツを指さす。
「おい! 結衣! 離れろ! 邪魔だ!」
さっきからイライラが噴火しそうな誠二が結衣を押しのけて文句を垂れ流し始めた。
「誠二。私の大切な演算チップですよ? もっと大切に扱ってください」
そして雪風はいつものように小姑だ。今は誠二のホロリンクから声を出している。なるほど、雪風のグレードアップか何かか。
「結衣。一口どうだ」
俺は溜息をつくと、口をつけていない激辛バーガーの部分を千切り、小皿に載せて結衣に押し出した。
「おぉ! リンクスちゃんまじあり~」
警戒心という概念を実家に置き去りにしてきた彼女は、それを何も考えずに口に放り込んだ。
「〇✕△%◆!?」
彼女は人間界に存在せず、発音も不可能なはずの言語を発する。結衣は立ち上がり、台所に百メートル金メダリストも敵わない速度で駆けていく。
「ナイスだリンクス」
作業スペースを確保できた誠二が、俺に下手糞なウインクを飛ばす。
俺は黙って頷くと荘子に視線を戻した。
「結衣! 辛い物にやられた口を洗うなら水は止めとけよ! 牛乳にしとくほうがいい! 水を飲むとより辛いぞ!」
誠二は台所に大声でアドバイスを飛ばす。
「もっと早くいってよおおおおおおおお!! もおおおおおおおおお!!」
奥から結衣が怒りながら牛乳を取り出す音が聞こえてきた。
それから数時間後――
「リンクス。何か飯食うか?」
銃の整備が終わったらしい誠二が、俺に声をかけてきた。
「今日は三時のおやつまで貰ったし、俺が作るよ」
借りを作りっぱなしだと借金で首が回らなくなってしまう。その前に返済しておくのが俺のポリシーだ。
「せーちゃん! 酷かったからせーちゃんが作って!」
なぜか結衣が誠二に怒っている。
「待て。激辛バーガーはリンクスがお前に渡したのであって俺の責任では――」
「止めなかったし!!」
「無茶苦茶言うんじゃない」
「許せんし!」
肩を怒らせて結衣が誠二に食って掛かる。
まぁ、これも雛鳥が親鳥に甘えているのだろう。
「何でもいいが、我は腹が減ったのだが?」
こたつで惰眠を貪っていたリーナス師匠が、こたつからひよっこり頭を出すと、いつもの調子でご神託をこき始める。
「まぁどちらにせよ俺が作るよリンクス」
「そうか。わかった」
何かがおかしい、俺はこの時に気づいておくべきだった。
誠二の作った濃厚なチーズタッカルビと、だしの効いた味噌汁、タラモサラータという無国籍な食事を綺麗に平らげた時。誠二が突然、口を開いた。
その口調は軽やかな一流のダンサーの刻む社交ダンスのステップそのものだったが、内容は場末のバーの裏路地に設置されたゴミ箱の中身でしかなかった。




