第十八話 歌姫
午前十時二十分
新西京三区 大黒天通り 斎藤誠二探偵事務所
誠二が豪華客船グレートクイーン号の贅沢な空気を吸いに旅立って二日目が過ぎた。事務所の空気は、主の不在を歓迎するように、埃っぽくも平和な沈黙を守っていた。
俺は接客用の小洒落た机を片付け、事務所の真ん中に炬燵を据えた。一見、場違いな家具だが、今は俺がここの主だ。好き放題させてもらう。
どうせこの事務所に来客なんて滅多に来ないんだから、そもそも接客用の小洒落た机なんて不要なんだ。そしてそこでぬくぬくしながら孫子を読んでいた。
「兵は詭道なり……」
確かに誠二の奴はハッタリや嘘ばかりだな。
とんでもない奴だが、孫子の兵法的には正しいのか。
向かいに座っている五十嵐結衣はホロテレビの騒音をBGMにして、スペンサーを読んでいる。いや、観てないなら消せよ。
耳元で飛び回る蠅か? 読書の邪魔だぞ。勝手に消すか?
そんなことを思っていると、突然ホロテレビのバラエティ番組の能天気な笑い声が、鋭いナイフで切り裂かれた。
『新西京トラストニュースより、緊急放送です』
画面に現れたジェーンさんがニュースを読み上げる。いつもの淡いピンクのビジネススーツに身を包み、緑色の瞳を知性の輝きできらめかしている。
なんであんな洗練された人が、誠二のような『歩くトラブル』と知り合いなのだろうか。新西京七不思議の一つだ。
彼女の第一声は、俺の喉を通過しようとしていた紅茶を少しだけ逆流させた。
『グレートクイーン号が、今、沈没しようとしています』
げほっ! 何だって!?
誠二の乗ってる船だ。
『スティールセキュリティ社の陰謀により――』
ジェーンさんがとんでもないニュースを読み上げ始めた。
「えーっ! リンクス君、これってせーちゃんの乗ってる船だよね?」
結衣が本を置いて身を乗り出して騒ぎ始めた。
「あ、あぁ……そうだな。誠二のやつ、大丈夫なのか?」
「だよねー。また無茶してなければいいけど」
そんなことを言いながら湯飲みの緑茶を啜っている。
「いや、それについては心配するだけ無駄だろ。あいつは無茶しかしない男だぞ」
俺も対抗してアールグレイを飲む。
「確かにそうなんだけど……いや、うちとしてはね? また可哀そうな女の子を助けてフラグ構築してないか心配で~」
何だ、そんなことか。明日出かける予定もないのに翌日の降水確率を気にするくらいのレベルでどうでもよすぎる。
「そうだな。もう弟子をこれ以上増やす必要は無い。いや、でも妹弟子というのも悪くはないかもしれないな……」
宮下ケイとかいうあの糞生意気なエルフ女は妹弟子でも何でもないがな。
「そういう話じゃなくて!」
「誠二に惚れる女が何人増えようが俺にはどうでもよくて、誠二の押しかけ弟子がこれ以上増えるのは――」
「そっちこそどうでも良いし!」
肩を怒らせて何かほざいてくる。
「よくねーよ!」
『それではグレートクイーン号の船内から独占生中継をお届けします。新谷ナギさん』
ジェーンさんの言葉とともに、画面は、揺れる船内に切り替わった。
「えっ? 船内から生中継? やばくない?」
結衣がさっきまでの文句を、過剰包装の包み紙をゴミ箱にすてるくらい軽々と放り投げ、画面に目をやる。
「凄いな。シージャックされてる船からリアルタイムで報道とかめったにないだろう。これは世界中が見てるんじゃないか?」
中性的な整った顔立ちの、淡い金髪をボブカットにし、サイドテールをアクセントにしたエルフの女性が映し出された。
「むう」
結衣がポニーテールを不穏に揺らし、画面のレポーターを品定めするように睨んでいる。俺は少しだけ誠二に同情をする。誠二と彼女は何の関係もないだろうに。
『新西京トラストニュースの新谷ナギです。こちら、グレートクイーン号です。今まさに、スティールセキュリティの陰謀により、この船は沈もうとしています』
彼女の背後では悲鳴や怒号が聞こえている。
落ち着いてください! 避難誘導に――といった乗組員らしき人の叫びも漏れ聞こえてくるが、パニックはまったく収まりそうにない。
『沈没していっていますが、揺れはほとんどありません。オートバランサーが機能している証拠だと思われます。私は今、二階の三等客室フロアにいますが、避難は遅々として進んでいません。ゼロシド革命軍と名乗ったテロリストたちが、被害を最小限に食い止めようと今必死に――きゃっ』
『どけっ!」
乱暴な声とともに、オークの男性がナギと名乗ったレポーターにぶつかって通り過ぎて行った。
『このように、船内は今、大変混乱しています。これもまた、スティールセキュリティ社の陰謀だったのでしょうか』
画面がまた切り替わり、ジェーンさんが映し出された。
『今、アルゴスセキュリティから緊急発表が行われています。グレートクイーン号の警備主任だった倉田 恵子さんはスティールセキュリティ社からの産業スパイであり――』
「やばっ! どんどん大事になっていくじゃん! シーリーさんとせーちゃん、無事に帰ってきて欲しいね」
「まぁ誠二だからな。大丈夫だろう。雪風とリーナス師匠もいるし」
「そうだよねー」
うんうんと結衣はポニーテールを振り子のように揺らしながらうなずいていた。
俺は孫子を再び開く。
その前にみかんを食べよう。
俺はみかんを手に取り皮を剥き始めた。
***
午前十時二十分
四階 警備員詰所(斎藤誠二)
「駄目です斎藤さん。大イベントホールにいたハイ・シド達は、五階の自分達の部屋に行って部屋の避難装置で脱出していますが、二等客室と三等客室の顧客の方が問題です。もうパニックが暴動に――」
リーの悲鳴。
どうする?
威嚇射撃を許可するか?
二、三人殴り倒させるか?
結局暴力に頼らないといけないのか?
とりあえず隔壁を閉じて、暴れるやつを見せしめにぶちのめさせて……
だが、そうすると世論を味方につけ難くなる――くそっ、馬鹿野郎どもめ……落ち着いて避難すればいいだけなのにいちいちパニックになるとは……
ちらりとほぼ空になった大イベントホールを映しているカメラを見ると、まだ残っていたシーリーがステージに向かって歩いていた。
なんでまだ残っている?
まさか――俺が来るのを待っているのか?
そろそろシーリーの傍に行くべきだ。この大混乱、何が起きてもおかしくはない。
今更部屋に帰れと通信するのもアレだしな。
俺は廊下に飛び出しつつリーに通信を行う。
「リー、こうなったら非常手段だ――」
俺は覚悟を決めて口を開いた。その時だった。
『正義なんかいらないだろ? ゆずれないもののためにいつも 手を伸ばして 誰かがいる』
突然響き渡る美しい歌声。
シーリーが歌い始めた。
「雪風! シーリーの歌声を艦内放送で全区画に流せ! BGMもつけろ!」
「誠二、タイトルがわからないとBGMは……検索するので数秒――」
「あれはシーリーのデビューシングル、舞い込んだメッセージだ!」
「了解しました」
『特別な、力なんかいらない それでもこの手は離さないよ あすをうちぬいてくからー』
聞いたことがある。パニックになったとき、偉大な音楽家の演奏がパニックを鎮めることがあると。俺はまさに、それをリアルタイムで目撃していた。
シーリーの歌声の木霊する廊下を俺は走る。従業員用階段に入り、階段を駆け上がる。
『雨の高架下 影が揺れる〜 機械の街で 心が泣く〜 いつも平気な顔して歩く〜 ネオンの死角で叫びが聞こえる~』
「誠二さん! 皆が、パニックが収まりつつあります!」
リーの通信。
ったく、やってくれたなお転婆歌姫!
最高だよお前!
抱きしめてキスしたいくらいだ!
いや、実際にキスしたら殴られそうだからしないが。
俺は六階の扉を開く。
『引き金を 引くことでしか 救えない何かがあるなら 闇の中へ、飛び込んでいく』
廊下に飛び出し、大イベントホールへと向かう。
すると、黒いコートを着たダークエルフの女が突然俺に飛びついてきた。黒髪を腰までのセミロングにした、少しきつい感じの顔立ちの美女だ。
いや、なんだこれは……妖艶すぎる……|妲己や楊貴妃《国を亡ぼすレベルの美女》が現代に居たらこんな感じなのだろうか?
俺の強化された嗅覚は、銅のような匂いを感じとった。
「助けて下さい!」
縋るような湿り気を帯びた声。吸い込まれそうな金色の瞳。
彼女は俺の右腕に抱き着き、形のいい胸をぐいぐい押し付けてくる。大きすぎず小さすぎず実に良い塩梅……待て、何を考えている誠二。今はそれどころじゃあ……
「落ち着いて避難すれば大丈――」
俺がそう彼女に言った瞬間
――なんだ?
俺の中に猛烈な性欲が沸き上がる。今すぐこの女にキスをして――まどろっこしい、そこの部屋に連れ込んで――馬鹿な、この俺がいきなりであった女性にこんな不埒な妄想を?
ありえん。そもそも腕に抱き着かれた瞬間から何かおかしい。あんなのは俺らしくない。
『正義なんかいらないだろ? ゆずれないもののためにいつも 手を伸ばして 誰かがいる』
シーリーの歌声が遠のく。
――――高速圧縮思考を強制的に起動。
コンマ秒の世界に潜る。
世界がスローモーションになる。絶対に何かがおかしい。この女性はすこぶるつきの美女だが、生まれついての紳士の俺が――そんなことはどうでもいい。
自分の感情・心理状態を冷静に観察・分析する。こいつはフェロモンによる生理的操作か、あるいは魔術的な生理パルスによる強制的な感情の上書きだ。
そうに違いない。
そう決めた。
感情なんて所詮はホルモンによる生理現象、操る手段なんて今時いくらでもある。
なめるなよ!
俺の心をハッキングするんじゃない……!
世界の速度が元に戻る。
「離れろ!」
俺はダークエルフの美女を押しやる。
そして自分を一発殴る。
痛いんだが?
おかげで目が覚めた。
「あら、つれないわね。私、そんなに魅力ないのかしら?」
さっきとは違う、余裕に満ちた態度。
やはりこいつ――
「いや、十分に色っぽかった。是非百年後くらいに機会があればお手合わせ願いたい」
俺の言葉を聞いた彼女の金色の瞳が細められた。
「そんな――百年も待てないわ」
そう言うと同時、空気を切り裂く風切り音。彼女は俺に左の上段回し蹴りを飛ばしてきた。




