第3話 虫壁早苗
早苗は早足で廊下を歩いていた。
十八時。いつもならまだ残業している時間だ。
早々に相談室を出た彼女は、すれ違う職員たちに軽やかに退勤の挨拶をし、ロッカー室に向かう。
カバンの中にちらりと覗く青い手帳に、笑みをこぼす。
――やっと、やっと、今日だ。
こみ上げるときめきに、ひとつ、深呼吸。
私服に着替えた早苗は、職員通用口を開けて日が落ちた外へ飛び出した。
だだっ広い駐車場には、誰もいない。いや、いた。
街灯から少し離れた暗隅の中に、その人は立っていた。
「田鎖さん、お疲れ様です!」
緊張で心臓が飛び出そうなのをこらえて、早苗は声をかけた。
「お疲れ……様。え、あの、手紙くれたのって……」
少し戸惑った様子の有紗は、不審そうな眼差しで早苗のことを見ている。
「私です! よかった、来てくれて」
「これも、もしかして……」
有紗が、手紙とチョコが入っていた小さな紙袋を持ち上げる。
「ですです。受け取ってもらえたらと思って」
持ち手に下げた猫のチャームが揺れる。背伸びをした銀色の猫は、有紗をイメージしたラッピングペーパーで作った紙袋によく合っている。
「どこか、旅行でも行かれたんですか?」
マスクから漏れる呼気でメガネを曇らせた有紗は、トンチンカンなことを言って鼻をすする。
腰に手を当てた早苗は、声に少しの拗ねを滲ませて言った。
「田鎖さん。今月はバレンタインじゃないですか」
「……そうでしたね。でも、今までいただいたことありましたか?」
淡々とした声音には、『そうでしたね』という言葉以上の感情など、含まれていないように感じた。
「にっぶー。田鎖さんにっぶー」
早苗は大げさに声を上げて見せる。
「チョコもらって呼び出しまでされてたらさぁ、気付きません?」
日が沈む寸前の空から、チラチラと雪が降ってくる。
「よく……分からないんですが……」
温度のない声音。
メガネを外した有紗は、ポケットから取り出したメガネ拭きで、曇ったレンズを拭く。
「田鎖さん、私と付き合ってください」
「は……え……?」
有紗の手から、メガネが滑り落ちる。
「あたし、田鎖さんが好きなんです」
ぽかんとした様子の彼女をまっすぐ見つめて、早苗は言葉を重ねた。
「だから、付き合ってください」
有紗は、しばらく何も言わなかった。雪の上に落ちたメガネを拾うこともせず、ただ、静かに早苗のことを見つめていた。まるでその内面を推し量ろうとでもしているかのように。
「からかってます?」
沈黙の後に出てきたのは、あまりにも事務的な言葉だった。
「そういう冗談、やめた方がいいと思います。本気にされて変なことになるってこともありますし」
突き返された紙袋を、早苗は反射的に受け取ってしまった。
「い、いや、本気ですよ?」
「今回は見逃します。誰にも言いませんから。他の人にもしないでくださいね」
早苗の言葉を切り捨てた有紗は、落としたメガネを雪の中に置き去りに、さっさと歩き去ろうとしていた。
「ああ、待ってください!」
メガネを拾って彼女の背中を追いかけた早苗は、カバンの中から一冊の手帳を取り出す。
「これ! これも返したくて! 田鎖さんの手帳ですよね!」
『手帳』という言葉に反応したように、有紗は振り向いた。
「それ……え!?」
今までに聞いたことのない大声を上げた有紗は、肩にかけたカバンの中をゴソゴソと中を探る。あるわけがない。手帳は早苗の手の中にあるのだから。
「ロッカー室で拾って。ごめんなさいけど、誰のか分かんないから中見ちゃいました」
早苗は何の悪気も含まない声音で告げる。
「返してください!」
ライトの薄明りの中でも、有紗の顔が青ざめているのが分かる。
いつもの冷静な顔が、初めて崩れた。早苗は、手帳を取り返そうと詰め寄ってくる有紗をいなしながら言葉を続けた。
「返しますよ。でもその前に告白の返事が欲しいです」
有紗の目が、苛立たしげに細められる。
「やめてくださいって言いましたよ?」
「だから、本気ですから!」
怒って、いるのだろう。
「それ、私の持ち物です。返さないのは泥棒ですよ」
刺々しく言った彼女に、早苗は笑いかける。
「花萌あざみさん」
ぴくり、有紗の時間が、止まったように見えた。
「やっぱり。わー、嬉しい。こんなに近くで会えるなんて思わなかったです」
目を見開いた有紗は「何の……話ですか」と誤魔化そうとしていたが、その一瞬の沈黙が真実を雄弁に語ってしまっていた。
「ふふ、何の話だと思います?」
手帳をパラパラと繰る。
「書いてあるの、今までの作品についてのメモと、新作のアイデアですか? 嬉しいなぁ。他の読者さんより先に読んじゃった」
パタリと閉じた手帳を、差し出す。
「はい、お返ししますよ。大事な手帳ですもんね」
奪い取るように手帳を掴もうとした有紗の手を、捕らえる。
「ねえ、返事、聞きたいです」
「だから、そういう冗談は……」
「まだ言います?」
隙あらば自分から距離を取ろうとする有紗を逃がすまいとしているうちに、早苗はその背に手を回してしまっていた。
「大丈夫。手帳は返しますよ。でも、答えくれなきゃダメです」
冷静に考えると、他部署とはいえ有紗は先輩職員だ。
それを抱きすくめて、口説くようなことをして、結構まずいことをしているのではないかと頭をよぎる。
しかし、きっとこうでもしないと有紗は当たり障りのない返事しか返してはくれない。早苗にはそんな確信があった。
「あたしミーハーだから。好きな作家さんがこんな近くにいたって、みんなに自慢したくなっちゃうかも」
敵意の込もった視線が刺さる。
「脅迫ですか……」
「そこまで言うことなくないですかぁ?」
明るく、ケラケラ笑って見せる。
「てか、田鎖さんが花萌あざみなのは否定しないんですね」
有紗の無言を、早苗は答えと受け取った。
ゆっくり、安心させるように背中を撫でる。
「嘘つけないタイプなんですね。大丈夫ですよ。あたし、好きな人の秘密を言いふらしたりしないです」
怖がらせないよう、出来るだけ優しく言葉をかける。
「でも、嫌われちゃってたら、しょうがないですよね……」
少し切ない表情で、俯いて見せる。
「……さっきから変なことばっかり」
有紗は早苗の体を押しのけて声を上げた。
「誰にも言わない代わりに付き合えってことですか? 最低ですね……」
「そういうふうに取っちゃいます?」
早苗は、雪で濡れた有紗のメガネをハンカチで丁寧に拭う。
「でも、そう言ったら付き合ってくれますか?」
卑怯なことは、分かっていた。
これを出せば有紗はノーと言えない。たまたま握った弱みを、自分は最悪な形で使おうとしている。
「……分かりました。付き合えばいいんですね? 虫壁さんが飽きるまで」
絞り出すように言った彼女の言葉に、胸が躍った。
「飽きるなんてことないですから、そこは安心してください!」
にこりと笑って有紗の目を覗き込むと、彼女はびくりと顔を背けてしまった。
背けられた顔を追いかけた早苗は、つるが目に刺さらないよう、丁寧にメガネをかけさせる。
「とりあえず、ホテル行きます?」
「はぁ!?」
帰ってきたのは、過去一大きな声だった。
――――
「ここの煮込み美味しいですね! よく来るんですか?」
半個室のボックス席。モツ煮込みを頬張った早苗はにっこりと微笑む。
「……あの、虫壁さん……」
テーブルの向かい側についた有紗は、割り箸でだし巻き卵をつつき回すだけで一向に口に運ぼうとしない。
あまり食が進まないようだ。
「早苗って呼んでください。サナとかサナちゃんだともっといいです。あたしも有紗さんって呼びますから」
こってりと油の浮いた煮込みを、レモンサワーで流し込む。
「虫壁さん……いくら人気がないって言っても、ああいう場で、その……」
歯切れ悪く言った有紗は、ずらしたマスクの隙間からハイボールのグラスを傾ける。
(外せばいいのに……)
あの後、有紗は早苗を引っ張るようにこの居酒屋に連れて来た。
道中彼女は何も言わなかったが、自分が地雷を踏んでしまったのであろうことは早苗にも何となくわかった。
「ごめんなさい! いきなりホテルは早かったですよね! まだ手も繋いでないのに!」
「虫壁さん!」
頭を下げた早苗に、咎めるような声が降ってくる。
――どうしてそんなに焦っているんだろう。
「有紗さん、有紗さん? 起きてます? 大丈夫ですか?」
テーブルに突っ伏してしまった有紗の肩を、早苗はパシパシと叩く。
「……起きてます。大丈夫です」
ハエでも払うように、有紗の手が空中をかく。
やけにハイペースで飲んでいると思ったが、もしかしたら動揺を隠すために酒に逃げていたのだろうか。紛いなりにも一度ホテルに誘ってきた相手の前で、随分と無防備だ。早苗はぼんやりと考える。
「お酒結構弱いんですね。新しい一面」
「うるさいです……。もう、帰りますね」
ふらふらと立ち上がろうとして、有紗は座席にドスンと腰を落としてしまった。
「そんなベロベロで帰るんですか? 明日は日曜日じゃないですか。もっと一緒にいたいです。小説の話とか、聞かせて欲しいです」
「その話は……やめてくださいよ……」




