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見て、見ないで  作者: 彩︎華じゅん


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第4話 虫壁早苗

 翌朝。

「ちょっと、起きてください。ここどこですか?」

 まどろみの中、早苗は有紗の声で目を覚ました。

「ん? おはようございます……早起きですね」

「もう九時です。私、どうしてここに……?」

 枕もとのメガネをかけた有紗は、焦った様子で部屋の中をキョロキョロと見回している。

「覚えてませんか? も~、有紗さん寝かしてくれなくて……」

 あくび混じりに言った言葉は、「はぁ!?」という声にかき消される。

「へ、変なこと言わないでください!」

 別に変なことを言っているつもりはなかった。

 もしかしたら有紗は何かよからぬ誤解をしているのかもしれない。そう思った早苗は、ベッド上に身を起こして諭すように話し始めた。

「思い出してくださいよ。あの後田鎖さん酔っ払っちゃって、お家分かんないから仕方なくうちに……」

「な、何かしましたか? 私……」

 口元を手で隠すようにした有紗が、青ざめた顔で問うてくる。

「何かって……ほんとに覚えてないんです?」

「う、嘘……そんな……」

 よっぽどショックだったのだろう。言葉を失った有紗に早苗はその先を説明しようと口を開くが、ベッドから跳ね起きた有紗はさっさと帰り支度を始めた。

「帰ります」

 貸していたお気に入りのパーカーが乱暴に脱ぎ捨てられる。

 ベッドサイドに置いていたコートを身につけた有紗は、カバンをひっ掴んで玄関に歩き出した。

「ええ!? せっかくの休みじゃないですか。デートしましょうよ」

 呼び止める早苗の声にキッと鋭い目を向けた有紗は、苛立ちを隠そうともせずに言い放った。

「どうして……あなたは!」

 ――怒られてしまった。



 ――――



 翌日。眠気をこらえて出勤した早苗は、事務所で出勤簿を手に取った。

 自分の印鑑を押し、いつものように看護師の頁を開く。有紗の判があるのを確認した彼女は、まっすぐ医務室へ向かった。

 昨日はせっかく有紗と一緒に朝を迎えたというのに、ろくに話も出来ないまま帰られてしまった。

 せめて朝食でも共にできれば距離も縮まるかもしれなかったのに、本当に残念だ。

 いつも通り、髪を整えて医務室の引き戸を開ける。

 中では、ちょうど出勤したところらしい有紗と、小柄な白髪頭のパート看護師、瑞恵が何か話しているところだった。

「おはようございま~す。今日もよろしくお願いします!」

 各部署へのあいさつ回り、という名目で医務室を訪れるのが彼女の日課だった。

 脱力した笑み、芯を『抜いた』ゆるい声、少し馬鹿っぽい語尾。自分より上の大多数が喜ぶ、計算したキャラクターに身を入り込ませる。

 早苗の姿を見た瑞恵は、嬉しそうな顔で手を上げた。

「おはよう早苗ちゃん。いつも明るくていいわね。こっちまで元気もらえるわ!」

「あは、元気娘で売り出し中なんで!」

 大して面白くはないが、声を出して笑う。そうした方が相手の気が緩むというのを、早苗は経験上知っていた。

「田鎖さんも、おはようございます!」

 瑞恵の隣で固まるように立っている有紗は、「おはよう……ございます」とぎこちない挨拶を返してきた。

「なんだか顔色悪いです。お疲れですか? 無理しないでくださいね?」

 得意の脱力した笑顔で声をかける。有紗相手にこれが通用しないことは、分かっている。

 ただ、自分を前にした彼女の反応が見てみたかった。

「早苗ちゃ~ん、ケアマネの工藤さん見えてるけど、対応出来る?」

 廊下から聞こえてきた事務員の声に「は~い」と返事を返す。

「じゃあ、また後でね。有紗さん」

 有紗の肩が、微かに震えた気がした。気のせいだろうか。

「いい子よねぇ。あたしみたいなパートにもちゃんと挨拶してくれて。ああいう子が一人いると職場が明るくなるわ」

 医務室を出た廊下。扉越しに瑞恵の声が聞こえてくる。

 あの人は本当に扱いやすい。

(有紗さんもあれくらい分かりやすかったらな)

 上履きサンダルをキュッと翻した早苗は、密かな思惑だけを置き去りに、玄関へと歩き出した。



 ――――



「有紗さん。待ってました」

 その日の夕方である。職員通用口を出た有紗に、早苗は声をかけた。

「田鎖でいいです。別に待たなくてもいいですよ。忙しいでしょう? 相談員は」

 有紗は振り向きもせず、小股でさっさと歩きながら言葉を投げる。

「も~。恋人が待ってたら普通は喜びません?」

「そういうソレでは……ないでしょう」

 ――どういうどれなのだろうか。

「ちょっと話したくて。今からうち、来ませんか?」

「嫌です」

「じゃあ有紗さんのうちに……」

「無理です」

 完全拒否だ。

「ごめんなさい……。人と話す気になれなくて」

 早苗の姿を視界に入れないようだろうか、下を向いた有紗は、苦しそうだった。

「あの後、何もありませんでしたよ?」

 立ち止まった早苗は、ほどかれた黒髪に声をぶつけた。

「え?」

「あ、そういうことじゃなかったですか? 気にしてるかなって……思ってたんですけど……」

 一瞬こちらを振り向いた有紗は、マスクで覆った顔の半分を更にマフラーに埋もれさせた。

「別に……私は……」

 メガネに街灯が反射して、表情が良く見えない。

 早苗は言葉を続ける。

「有紗さんが言ってたこと、気になって。ちゃんと話聞かせて欲しいんです」

「何の話です?」

「酔っぱらって言ってたことですよ。心配で……」

「脅迫してきた人がよく言いますね」

 皮肉めいた、嘲笑にも似た声音。

 つかず離れずの距離で施設の敷地を抜け、商店街に通じる人気のない路地裏に差し掛かった時。早苗は有紗の手を捕まえた。

「脅迫ついでにまた脅します。有紗さんがこのまま帰るっていうなら、今からだって施設に戻って自慢しちゃいますよ?」

 有紗の目が、信じられないものを見たかのように見開かれる。

 が、彼女はすぐに諦めたように目を伏せた。白いため息が一つ、漏れる。

「……分かりましたよ」



――――



 早苗の部屋で、有紗は居心地悪そうに座っていた。

 来客に備えてきちんと片付けたテーブルに、お気に入りのマグが二つ並ぶ。

「ル〇ンドとホワ〇トロリータ、どっちが好きです? あたしどっちも好きなんでどっちも出しますね」

 キッチンから適当な皿を見繕い、お菓子を山盛りにした早苗は、有紗の隣にゆったりと座る。

 有紗は何にも手を付けようとせず、至近距離の早苗から距離を取るように座り直した。

 早苗は、ル〇ンドのビニール包装を破る。

「それで……私が何を言ったんですか?」

 突き立てた歯が、幾重にも重なったクレープ生地をほろほろと崩す。

 こぼれそうなのを手で受け止めた早苗は、淡々と話し出した。

「あの後、有紗さんが潰れちゃって、ワンチャンいこうとしたんですよね」

「は?」

「でも、有紗さん泣いちゃったから、何も出来ませんでした」

 あの夜の記憶がよみがえる。

 早苗は、泥酔した有紗を支えて部屋に帰ってきた。

 彼女をベッドに横たえようと前かがみになった時、急に脱力した体に引っ張られるようにベッドに倒れ込んだ。

 夢うつつで早苗の背に腕を回した有紗は、「離れないで」と声を震わせて――

「待ってください。虫壁さんが言うようにお付き合いしてるとしても、いきなりそういう行為は……どうなんですか?」

 今目の前にいる有紗に、あの時の脆さなど微塵もない。その引いたような表情に、早苗は首をかしげる。

「別に普通ですよ。あたし、付き合ったらまずしたいタイプなんで」

「それは……それはおかしいです。ちゃんと自分を大事にしないと……」

「大事にしてるから、じゃないですか」

 すすったカフェオレの甘さが、口の中に広がる。

「あたし、ショートケーキのいちご、真っ先に食べちゃいます。好きだから」

 ル〇ンドを、口に放り込む。

「好きな人のこともすぐに食べたい。だって好きなんだもん」

「分からない……」

 頭を抱えた有紗を、早苗は不思議な心地で見ていた。

 ――欲しいものをすぐ手に入れようとするのは、自分を大切にしていることにはならないのだろうか。

 有紗は、目にかかる前髪を払う。

「どうして私なんですか? あなたはまだ若いし、相手なんかいくらでも見つけられるでしょ? 何も、こんな汚いおばさんじゃなくたって……」

「そこですよ。その自己肯定感低いとこ」

 手に、触れる。

「あたし、花萌あざみの小説がすごく好きです。世界の素敵なとこを言葉で切り取ってるみたいで。読んだ後、や~な現実もなんかエモく見えて」

 指先で、有紗の指をすくう。

「小説だけじゃないですよ。SNSの投稿も毎日チェックしてます。読んでて分かりました。この人は自分が嫌いなんだろうなって。でも、だからこそこの人の世界はきれいなんだなって」

 SNSであざみは同性愛者であることを隠していなかった。

 だから、同性だからという理由で断られることはないだろう、と踏んで告白した。

 手の甲に、爪を這わせる。

「何で分かるかって、あたしも自分が嫌いだから。でも、あたしはあざみさんみたいに出来ないから、憧れて、そうなりたくて、近付きたくて」

「何、言ってるんですか」

 震えた声が、早苗の声を遮った。 

「あなたが、あなたが、私の何を知ってるって言うんですか」

 肩と肩が触れ合う距離。逸れる、視線。

「好きだとか何とか言いながら、こんな脅すみたいなことして……ふざけるのもいい加減にしてください。そんなに人のことからかって楽しいですか? ほんと最低」

 普段の冷静さからは想像もできない、まくしたてるような口調だ。

 なのに、そんなことを言っているのに、早苗の手を振り払うことはしない。

 ――それが、余計に愛おしい。

「何にも見てない、何も分かってない、あなたみたいな人の言うことなんて……」

 信じられない、とでも続ける気だったのだろうか。彼女の語尾は、中途半端に溶けていった。

「本気、なんだけどな……」

 しょげたような顔をして見せた早苗に、有紗は鋭い目を向けてきた。

「本気っていうなら、この顔見てもう一度言ってみなさい」

 マスクを外した有紗から、挑むような言葉が投げられる。

「この顔見ながらさぁ。ほら、好きなんでしょ? 本気なんでしょ?」

 早苗の手の中で、彼女の手が猛烈に震えているのが伝わってくる。

 その震えはあの夜と同じだった。

『私のこと……見て。見ないで。お願い、助けて……』

 言葉の強さの割にひどく怯えたような表情が、弱弱しく早苗にしがみついていたあの姿と被って見える。

「バカにしないでもらえます?」

 そのちぐはぐさが、早苗の心をかき乱した。

「あたしは何も見てないし、何も分かってません」

 ――あなた以外は。

 グレーのカーディガンに包まれた彼女を、ラグに押し付けた。

「だからつまり、あなたがいいんです」


 体温、とろり、ざらり――


 有紗が短く息を飲む音と、骨の髄に響くざわめきが混じって聞こえた。


『ねぇ、離さないで。私を抱きしめて、髪を撫でていて。そうしたら、私あなたにキスをするわ』


 体を離し、ゆっくり、歌を歌うように、早苗は言葉を紡ぐ。

「そ……それ……」

 有紗の顔が真っ赤に染まった。


『何度でも、愛してるって言って。それ以上に返すから』


 花萌あざみの作品『水の羽音』で主人公が言っていた言葉。

 何度も何度も読み込んで、噛み締めた一説だ。

「やめて……」

 拒絶の声には涙が絡まって、弱弱しく耳に届いた。

「私のキス、『甘かった』ですか?」

 有紗の力の入る手を、柔らかく絡め取る。

「こんな風にされるの、好きですか?」

 味わうように、すくい取るように。

「見てください。私、『儚い蝶のように』きれいですか?」

 そんな風にいつか言われてみたいと、憧れた言葉。

 ぷちり、開いて、見せつける。

「お願いします、やめて、やめてください……」

 懇願する有紗を無視して、その防壁をこじ開ける。

「『名前のない涙が零れてしまう』くらい、いいですか?」

「違う」

 短く切り捨てる、声。いつも冷静な目が蕩けたように呆けて、落ち着いた低い声が、今だけ少しだけ高い。

「その顔、もっと見せてください」

 汗で貼り付く髪を、耳にかける。

 有紗のことを意識しだしたのは、早苗が相談員として入職した数年前の夏のことだった。

 熱中症警戒アラートが発令されていた猛暑日。

 新規入居者の事前調査で病院に出向いていた早苗は、軽い熱中症を起こしてしまった。

 静養室で休憩していた早苗に氷嚢をあて、経口補水液を差し出してくれたのが有紗だった。

 入居者のことで何度か話すことはあったが、無口で、何を考えているのかよく分からない有紗のことが当時の早苗は苦手だった。

『若いからって体調管理を適当にしてたら、死にますよ』

 だが、静かに言ったその目元は、澄んでいて――

『主任には適当に話しておきますから、今日は帰りなさい。体、お大事に』

「有紗さん、あざみさん、好きですよ」


 あの時から、早苗の心はずっと有紗の方を向いていた。


「全部、ください」


 言葉が止まらない。

 あざみの小説に出会ったのも、相談員として働き始めてすぐの頃だった。

 上司からの期待に応えなければ。入居者によりよくあってもらうために、勉強しなければ。

 そんなプレッシャーで行き詰っていた早苗の癒しは、友人が教えてくれた小説投稿サイトだった。

 数多の小説の中に、彼女の、花萌あざみの作品はあった。

 誰もが不完全な部分を抱えながら、それでも誰かを愛さずにはいられない。

 不完全な人間同士が、どうしようもなく焦がれて、必然のように結び合う。


「好きです」


 早苗はあざみの書くそんな話に救われていた。彼女の世界に浸っている時は、自分も不完全なままで許されるような気がしていた。

 だからあの青い手帳を拾って、あざみの正体が有紗だと知った時、これは運命だと思った。

 信じてもいないどこかの神様が、許可をくれたのだと思った。


「あなただけ、欲しいんです」


 不完全な自分が『花萌あざみ』を、『田鎖有紗』を、不完全のまま愛する許可を。

 欲しいと焦がれ、手に入れたいと憧れ、独占したいと拗らせ、早苗がたどり着いたのは、そんな歪な、執着にも似た愛だった。


 ひきつれる、呼吸。


 閉じられた有紗の目から、一粒だけ涙が零れ落ちた。



――――



「有紗さん、言ってたんですよ。私を見て欲しい、見ないで欲しいって。あれって、どういう意味なんですか?」

 部屋着に着替えた早苗は、熱の余韻を肺に閉じ込めるように煙草をふかす。

「煙草……吸うんですね」

 ブラウス一枚で膝を抱えた有紗から返ってきたのは、それだけだった。

 いつもまとめてある髪が、ゆるり、落ちている。

「ダメです?」

「ちゃんと健康に気を使ってください。若いんだから」

 そう言った舌の根も乾かないうちに、有紗は早苗の煙草を勝手に取り出して火をつけた。

「自分だって」

「私はいいんです」

 しれっとした表情で言う有紗に、早苗は「自己中」と毒づく。

「あ、そうだ」

 ぐしゃぐしゃになった髪を整える。

 四つん這いになった早苗は、部屋の隅にある棚に手を伸ばす。

「これ、また渡しておきます。この間返されちゃったから」

 取り出したのは、この間の小さな紙袋だった。

「私、やっぱり有紗さんのことが好きです。脅しとか関係なく、受け取ってくれますか?」

 差し出した紙袋を見つめた有紗は、一筋の煙を吐き出す。

「オランジェットには……赤ワインを合わせるのが好きです。安いので構わないので、買ってきてください。コンビニ、近くにありましたよね?」

 差し出された五千円札を、早苗はぽかんと受け取る。

「お酒が飲みたい気分なんです。買ってきてくれないと、虫壁さんに脅されて無理やりされたって言いふらします」

「何ですかそれ!」

「事実でしょ」

「……そうですけど」

 小馬鹿にしたような目で自分を睨む有紗に、ぼそぼそと言葉を返す。

「まずは、話すことから始めたいです。それくらい、待てるでしょう?」

 メガネもマスクもない顔。その顔は、少しだけ笑ったように見えた。

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