第2話 田鎖有紗
翌朝。夢うつつで目を開けた有紗の視界に入ったのは、知らない部屋の光景だった。
「あれ……? 私……」
自分の家とは違う柔軟剤の匂いがする。
ぬくぬくとした布団に包まれながら、有紗はぼんやりと頭を回す。
夕べは早苗と居酒屋に行って、軽く食事して、それから――
「……どこ?」
ギシ……ベッドがきしむ。
彼女が起き上がって辺りを見渡すと、化粧品が満載のローテーブルや、服やバッグがたくさんかけられているラックが目に入る。
窓にはレトロなカーテンがかかっていて、同じくレトロな壁掛け時計が九時を指している。ここはどうやら女性の部屋らしい。
――なんだか、苦しい。気がする。
胸に持っていこうとした手に目を落とすと、見覚えのないモコモコのパーカーが着せられているのに気づいた。
そして、いつも顔を覆っているマスクの感触が、ない。
「やだ……なんで……」
咄嗟に口元を押さえた時、隣でもそもそと布団が動いた。ハッと横を見ると、ピンク色の掛布団から茶色いボブの頭が覗いているのが見えた。
「虫壁……さん?」
布団を引っぺがして肩をゆする。だるだるのジャージに身を包んだ彼女は、「ん~」と不満げな声を上げながら寒そうに身を縮めた。
「ちょっと、起きてください。ここどこですか?」
「ん? おはようございます……早起きですね」
「もう九時です。私、どうしてここに……?」
「覚えてませんか? も~、有紗さん寝かしてくれなくて……」
けだるげに言った早苗に、有紗は「はぁ!?」と声を上げる。
「へ、変なこと言わないでください!」
「思い出してくださいよ。あの後田鎖さん酔っ払っちゃって、お家分かんないから仕方なくうちに……」
「な、何かしましたか? 私……」
口元を押さえたまま、早苗の言葉を遮るように詰め寄る。
「何かって……ほんとに覚えてないんです? 」
「う、嘘……そんな……」
早苗の態度に、最悪の想像が有紗の頭をよぎった。
見られた? 触れられた? 侵食、された?
「帰ります」
パーカーを脱ぎ捨てる。
ベッドサイドに畳まれていたコートを身につけた有紗は、カバンを雑に掴んで正面に見える玄関に歩き出した。
「ええ!? せっかくの休みじゃないですか。デートしましょうよ」
「どうして……あなたは!」
これ以上ここにいたら、頭がおかしくなりそうだった。
――――
翌日。出勤した有紗は、胸にもやを抱えたまま医務室の扉を開けた。
「おはようございます……」
早苗の部屋から逃げるように飛び出した後。家に帰った有紗は、混乱と動揺を鎮めようとひたすらPCの前で物語を紡ごうとしていた。職場の後輩に告白されてしまった主人公の話を。
自分の身に起きたことを物語に起こすのは、有紗のいつもの癖だ。どんなに嫌な記憶でも、物語の中に固定して閉じ込めてしまえばそれはもう自分とは関係のない話になる。彼女はそうして自分の心を守ってきた。
想いを通わせ合ってハッピーエンドにするのか、それとも、最後まで気持ちを通わせきれないビターエンドにするのか――
しかし、どれだけ考えても、どれだけ花萌あざみに入り込んでも、画面は真っ白なまま。キーボードに乗せた指は少しも動くことはなかった。
早苗との間に起きたことを、自分は物語の素材としてすら飲み下すことが出来ない。それをただ思い知らされただけだった。
「おはよう。なんかいつにも増して辛気臭い顔してんね。ちょっとシャキッとしなさいよ」
声を返してきたのは、パート看護師の瑞恵だ。チャキチャキとした姉御気質で、良くも悪くも昔ながらの肝っ玉ナースといった性格の彼女が有紗は苦手だった。
「……そう、ですね」
余計な詮索をされないよう、曖昧な笑みを返す。
有紗にさらに言葉を投げようと口を開いた瑞恵の背後から、声がした。
「おはようございま~す。今日もよろしくお願いします!」
顔出したのは、制服のポロシャツに身を包んだ早苗だった。
「おはよう早苗ちゃん。いつも明るくていいわね。こっちまで元気もらえるわ!」
「あは、元気娘で売り出し中なんで!」
おどけた調子で言った早苗は、爽やかな笑みを有紗に向けてくる。
「田鎖さんも、おはようございます!」
その顔が本当にいつも通りで、とても自分を脅迫してきた人と同じとは思えなくて、有紗はただ「おはよう……ございます」とだけ返す。
「なんだか顔色悪いです。お疲れですか? 無理しないでくださいね?」
覗き込んできた顔からは、本当に、本当に悪意が感じ取れない。
いつもなら「ありがとうございます」くらいは返しているところだが、今日はダメだった。
返す言葉を見つけられずに、有紗はただ目をそらした。
「早苗ちゃ~ん、ケアマネの工藤さん見えてるけど、対応出来る?」
廊下から事務員の声が聞こえてくる。「は~い」と返事をした早苗は、軽やかにその身をひるがえした。
「じゃあ、また後でね。有紗さん」
すれ違い様の囁きは、有紗の耳に静かなざわめきを残していった。
「いい子よねぇ。あたしみたいなパートにもちゃんと挨拶してくれて。ああいう子が一人いると職場が明るくなるわ」
早苗が去った後の医務室で、瑞恵がしみじみとひとりごちる。
「入所者さんからも、ウチのひ孫に嫁に来てくれ~なんてしょっちゅう言われてんのよ。二十五だっけ? ちょうどいいとこだもんねぇ~。いい人の一人二人いないとよね」
瑞恵は、有紗の肩にポンと触れる。
「アンタは? 今年三十四? 今更恋愛しろとは言わないけどさ、それなりに身ぃ固めるとか考えないとよ? あの子の爪の垢でももらっといたら?」
「……です、ね」
パーマのかかった白髪頭を見つめ、有紗はそれだけ言った。それだけが、精いっぱいだった。
――――
「有紗さん。待ってました」
勤務を終えた有紗が職員通用口を出た時、人懐っこい声がした。
「田鎖でいいです。別に待たなくてもいいですよ。忙しいでしょう? 相談員は」
振り向きもせずに、言葉を投げる。
早苗は子犬のように有紗の後を歩きながら、楽しそうに続けた。
「も~。恋人が待ってたら普通は喜びません?」
「そういうソレでは……ないでしょう」
『恋人』という一言に、有紗は打ちのめされる思いだった。
「ちょっと話したくて。今からうち、来ませんか?」
「嫌です」
「じゃあ有紗さんのうちに……」
「無理です」
あんまりだ。いくら脅しをかけてきた相手とは言え、年若い子に取る態度ではない。
頭では理解しているのに、感情が追い付かなかった。マスクの下で、有紗は乾いた唇を噛み締める。
「ごめんなさい……。人と話す気になれなくて」
「あの後、何もありませんでしたよ?」
「え?」
「あ、そういうことじゃなかったですか? 」
早苗は、何でもないような顔をして言った。
「気にしてるかなって……思ってたんですけど……」
見透かされている。自分が頭の中で何を考えていたのか。
それを認識した有紗は、猛烈な羞恥に苛まれた。
「別に……私は……」
いやな汗が、滲む。
「有紗さんが言ってたこと、気になって。ちゃんと話聞かせて欲しいんです」
「何の話です?」
「酔っぱらって言ってたことですよ。心配で……」
「脅迫してきた人がよく言いますね」
また、やってしまった。有紗は後悔した。
紛いなりにも自分を心配していると言う人への物言いを。そして、あの夜、居心地の悪さをごまかすために深酒した自分の浅慮を。
だが、有紗の言葉など早苗にはまるで響いていないようだった。
施設の敷地を抜け、商店街に通じる人気のない路地裏に差し掛かった時。彼女は有紗の手をがっしりと掴んできた。
「脅迫ついでにまた脅します。有紗さんがこのまま帰るっていうなら、今からだって施設に戻って自慢しちゃいますよ?」
驚きに耳を疑う。この子は、人を脅すことに抵抗がない。
有紗は、自分の心臓に既に彼女の爪が食い込んでいることを自覚した。
「……分かりましたよ」
――――
一日ぶりに訪れる早苗の部屋で、有紗は居心地悪く座っていた。
化粧品が満載だったローテーブルの上はきちんと片付けられ、カフェオレの入った派手なマグが二人分、置かれている。
「ル〇ンドとホワイ〇ロリータ、どっちが好きです? あたしどっちも好きなんでどっちも出しますね」
一〇〇円均一で見たことのある白い皿の上。山盛りのお菓子を出してきた早苗は、有紗の隣にゆったりと座る。
湯気の立つマグを横目で見た有紗は、ル〇ンドの包装を破る早苗に問いを投げた。
「それで……私が何を言ったんですか?」
ミルフィーユ生地をこぼさないよう手皿をした早苗は、いつも通りの声音で話し出した。
「あの後、有紗さんが潰れちゃって、ワンチャンいこうとしたんですよね」
「は?」
「でも、有紗さん泣いちゃったから、何も出来ませんでした」
何でもないことのように告げられる言葉に、頭が混乱した。
「待ってください。虫壁さんが言うようにお付き合いしてるとしても、いきなりそういう行為は……どうなんですか?」
「別に普通ですよ。あたし、付き合ったらまずしたいタイプなんで」
めちゃくちゃなことを言っているのに、早苗はまるで当然のような顔をしている。
「それは……それはおかしいです。ちゃんと自分を大事にしないと……」
「大事にしてるから、じゃないですか」
有紗の言葉が、遮られる。
「あたし、ショートケーキのいちご、真っ先に食べちゃいます。好きだから」
ル〇ンドの最後のひとかけらが、早苗の口の中に消える。
「好きな人のこともすぐに食べたい。だって好きなんだもん」
「分からない……」
有紗は頭を抱える。
「どうして私なんですか? あなたはまだ若いし、相手なんかいくらでも見つけられるでしょ?」
胸がずきりと痛んだ。
「何も、こんな汚いおばさんじゃなくたって……」
「そこですよ。その自己肯定感低いとこ」
手と手が、触れる。
「あたし、花萌あざみの小説がすごく好きです。世界の素敵なとこを言葉で切り取ってるみたいで。読んだ後、や~な現実もなんかエモく見えて」
早苗の指先が、逃げようとする有紗の指を絡め取る。
「小説だけじゃないですよ。SNSの投稿も毎日チェックしてます。読んでて分かりました。この人は自分が嫌いなんだろうなって。でも、だからこそこの人の世界はきれいなんだなって」
ぞくりとした。手の甲を、爪が滑る。
「何で分かるかって、あたしも自分が嫌いだから。でも、あたしはあざみさんみたいに出来ないから、憧れて、そうなりたくて、近付きたくて……」
「……何、言ってるんですか」
吐き出すように、言った。
「あなたが、あなたが、私の何を知ってるって言うんですか」
指先の体温に、有紗は苛立ちの棘を刺す。
「好きだとか何とか言いながら、こんな脅すみたいなことして……ふざけるのもいい加減にしてください。そんなに人のことからかって楽しいですか? ほんと最低」
言葉とは裏腹に、絡まった指をほどくことは出来なかった。
「何にも見てない、何も分かってない、あなたみたいな人の言うことなんて……」
言葉尻を噛んだ有紗に、早苗が自嘲のようにひとりごちる。
「本気、なんだけどな……」
その態度がどうにもいけなかった。つかみどころなく人を弄ぶような言動をしておいて、自分の本気だけは信じて欲しいなどと――虫の良すぎる話だと有紗は思った。
「本気っていうなら」
震える手で、マスクをはぎ取る。
「この顔見てもう一度言ってみなさい」
もはや、早苗に対する気遣いなどは消え失せていた。
どうにかしてこのふざけた女を傷つけてやりたい。間違っていたと思い知らせてやりたい。有紗の内面にあったのは、それだけだ。
「この顔見ながらさぁ。ほら、好きなんでしょ? 本気なんでしょ?」
凍り付くような沈黙。
どこまでも冷たい刹那、有紗の脳裏によぎるのは、一片の光景だった。
『俺、有紗のことが好きなんだ。付き合ってほしい』
満開の桜、詰襟の学生服、まだ、マスクを着けていない自分。
『お前のことなんか誰も好きになんねえよ! このブス!』
地面に投げられ、踏みつけられたレースのハンカチ――
手の震えは、制御不能なほど強い。
「バカにしないでもらえます?」
地の底のような、声音。
早苗の顔からは、いつもの人懐っこさが、消え去っていた。
衝撃。有紗の顔を、彼女が真上から見下ろしている。
「あたしは何も見てないし、何も分かってません」
カーディガン越しの背中に、カーペットの短い毛足が刺さる。
「だからつまり、あなたがいいんです」
何が起きたのか、一瞬理解が遅れた。
体温、とろり、ざらり――
口の中に甘いカフェオレの味を残し、早苗の唇が離れる。
『ねぇ、離さないで。私を抱きしめて、髪を撫でていて。そうしたら、私あなたにキスをするわ』
鼻が触れ合う距離で、彼女が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「そ……それ……」
有紗の顔がカッと熱を持つ。
『何度でも、愛してるって言って。それ以上に返すから』
耳を塞ぐ。早苗の言葉は、有紗が、花萌あざみが書いた小説の一片だった。
「やめて……」
何度も書き直して、推敲に推敲を重ねた、自信の一片だ。
それを、こんな風に、こんな形で――聞きたくない。掘り起こされたくない。
「私のキス、『甘かった』ですか?」
指が、滑る。
「こんな風にされるの、好きですか?」
潰されて、引き寄せられて、形を変えて。
頭の中が、霞の中に沈む。
「見てください。私、『儚い蝶のように』きれいですか?」
衣擦れ、紅潮――
輪郭が、境界が、なぞり上げられる。
「お願いします、やめて、やめてください……」
――私の言葉を犯すのは。
うわごとのような声は、エアコンの稼働音にかき消された。
「『名前のない涙が零れてしまう』くらい、いいですか?」
「違う」
早苗に抗う言葉も、力も、出てはこなかった。
屈辱と羞恥に支配された有紗は、惨めに這いつくばって、呻きを上げて、情けなく涙を流すほか出来なかった。
「その顔、もっと見せてください」
一〇〇メートル走の後のような様相の早苗が、髪を耳にかける。
「有紗さん、あざみさん、好きですよ」
「全部、ください」
「好きです」
「あなただけ、欲しいんです」
欲を孕んだ視線が、まっすぐ有紗を射抜いていた。
そんな、そんな目で見ないで欲しい。
そんなに、宝物のように触れないで欲しい。
うまく、しないで欲しい。
足を、踏み外してしまう。
頼むから、お願いだから――
喉が、ひくりと、動く。
――――
「有紗さん、言ってたんですよ。私を見て欲しい、見ないで欲しいって。あれ、どういう意味ったんですか?」
だるだるのジャージに着替え、甘ったるい煙をくゆらせた早苗が、静かに言葉を紡いだ。
「煙草……吸うんですね」
肌着の上にブラウスを羽織った有紗は、感情のこもらない声で返す。
「ダメです?」
「ちゃんと健康に気を使ってください。若いんだから」
テーブルの上に置きっぱなしの箱から、勝手に一本取り出して火をつける。
「自分だって」
「私はいいんです」
「自己中」
体に残るシトラスの香りに上書きするように、紫煙を吐き捨てる。
「あ、そうだ」
乱れた髪を直した早苗が、四つん這いになって棚に手を伸ばす。
ずり下がったズボンのウエストから下着が見えてしまっているが、気にしている様子はない。
一応、気遣いとして目をそらす。
「これ、また渡しておきます。この間返されちゃったから」
彼女が取り出したのは、この間の小さな紙袋だった。
「私、やっぱり有紗さんのことが好きです。脅しとか抜きに、受け取ってくれますか?」
銀メッキの猫チャームが、蛍光灯の光を跳ね返して、揺れた。
有紗は、箱に書かれていたチョコレート専門店のロゴを思い出す。
「オランジェットには……赤ワインを合わせるのが好きです。安いので構わないので、買ってきてください。コンビニ、近くにありましたよね?」
有紗は、財布から取り出した五千円を、早苗の手に握らせる。
「お酒が飲みたい気分なんです。買ってきてくれないと、虫壁さんに脅されて無理やりされたって言いふらします」
「何ですかそれ!」
「事実でしょ」
「……そうですけど」
頬を膨らませる早苗の姿が腹立たしく、少しだけおかしかった。
「まずは、話すことから始めたいです。それくらい、待てるでしょう?」




