第1話 田鎖有紗
凍てつくような北風が、ひっつめた髪を揺らした。
ズレたマスクを直した有紗は、手袋をはめた手をすり合わせる。
二月の中旬。ここは、雪深い田舎町の片隅にある、とある特別養護老人ホームだ。
夏の頃にはまだ明るかった十八時。施設裏にある駐車場は、もうすっかり暗闇に沈んでいる。
駐車場の中心に立つ街灯が、またたく。
灯りの輪から外れた隅に立っていた有紗は、あたりをキョロキョロと見渡して待ち人が来るのを待っていた。
(本当に十八時で良かったの? というか、本当に来るの?)
手に持った紙袋をちらりと見やる。群青色の背景に、月や星の描かれた紙袋だ。
持ち手に銀メッキのチャームが付けられたその中に入っていたのは、綺麗にラッピングされた小箱と、差出人のない手紙だった。
『お話したいことがあります。十八時に駐車場で待ち合わせしましょう』
香水だろうか。ふわりとシトラスの香る一筆箋に綴られていたのは、シンプルな文句だった。
紙袋は、有紗のロッカーの中にひっそりと置かれていた。彼女がそれに気づいたのは、昼休憩が終わった後のことだ。
人から贈り物をされる心当たりなど、有紗にはまるでなかった。誰かと間違えているのではないかと、思うほどに――
ギュ、ギュ、と雪を踏み固める音が近づいてきて、彼女は顔を上げる。
「田鎖さん、お疲れ様です!」
明るい声。有紗に駆け寄ってきたのは、生活相談員の虫壁 早苗だった。
「お疲れ様。手紙くれたのって、虫壁さんですか?」
意外だった。こんなに今どきの子がメールやSNSではなく、人に手紙を書いたということが。そして、その相手が自分だということが。意外で、ますます理由が分からなかった。
「私です! よかった、来てくれて」
茶色く染めたきれいなボブが、街灯の明かりに透けて艶めいている。
確か今年で二四歳と言っていただろうか。白いマフラーに埋もれる小さな顎、赤くなった頬、くりくりとした人懐っこい目。小動物のように可愛らしい女の子だ。
こんな子が一体自分に何の用があるというのだろうか。有紗はメガネ越しに疑念の目を向ける。
「これも、もしかして……?」
紙袋から小箱を取り出して見せる。
「ですです。受け取ってもらえたらと思って」
屈託のない笑顔で言った早苗は、風に遊ばれる髪を耳にかけた。
耳たぶのピアス、小粒のストーンがきらりと光る。あれは、何の形だろうか。よく、見えない。
「ありがとうございます。どこか、旅行でも行かれたんですか?」
息でメガネが曇るのが気になる。
有紗の言葉にむっとした表情を浮かべた早苗は、有紗をギッと睨みつけた。
「田鎖さん。今月はバレンタインじゃないですか」
「……そうでしたね。でも、今までいただいたことありまし――」
「にっぶー! 田鎖さんにっぶー!」
言いかけた言葉は、怒ったような声に遮られた。
「チョコもらって呼び出しまでされてたらさぁ、気付きません?」
どうやら、お土産というわけではないようだ。
日が沈む寸前の空から、チラチラと雪が降ってくる。
「よく……分からないんですが……」
彼女の表情がよく見えなくて、有紗は曇ったメガネを外した。
ポケットから取り出したメガネ拭きで、レンズを拭う。
「田鎖さん、私と付き合ってください」
「は……え……?」
有紗の手から、メガネが滑り落ちる。
「あたし、田鎖さんが好きなんです。だから、付き合ってください」
何も言えなかった。
落ちたメガネを拾うことすらできず、有紗はこわばった体で頭を巡らせた。
どうして、どこから、どうすれば――
考えても考えても、今すべき正解が分からなかった。
ただ、メガネを外していても、彼女が自分をまっすぐ見ていることくらいは分かる。
「からかってます?」
逡巡の末、口から出たのはあまりにも最低な一言だった。
「え……」とこぼれた早苗の声を聞かないように、有紗は言葉を続ける。
「そういう冗談、やめた方がいいと思います。本気にされて変なことになるってこともありますし」
紙袋を、彼女の手に押し付ける。
「い、いや、本気ですよ?」
焦ったような早苗に、背を向ける。
「今回は見逃します。誰にも言いませんから。他の人にもしないでくださいね。では」
早口でそれだけ言って、有紗は歩き出した。
もっとマシな言い方はあったはずだった。けれど、想定外のことが続きすぎて、頭の中が混乱していた。
何をどう伝えるべきかすら、分からなかった。
「ああ、待ってください!」
早苗の声が追いかけてくる。
「これ! これも、返したくて! 田鎖さんのですよね! 手帳!」
『手帳』という言葉に、有紗は反射的に振り向く。
駐車場内のライトに照らされたそれは、見慣れた青いカバーのかかった手帳だった。
「それ……え!?」
「ロッカー室で拾って。ごめんなさいけど、誰のか分かんないから中見ちゃいました」
「返してください!」
慌てて早苗に詰め寄る。頭の中がカッと熱くなり、考える前に体が動いていた。
「返しますよ。でも――」
早苗は手帳を持った手を、有紗から遠ざけるように上に掲げる。
「その前に告白の返事が欲しいです」
「やめてくださいって言いましたよ?」
「だから、本気ですから!」
揉み合いが続く。
だが、どう頑張っても早苗から手帳を取り戻すことは出来なかった。
有紗は早苗を睨みつけ、静かに言葉を投げつける。
「それ、私の持ち物です。返さないのは泥棒ですよ」
「花萌あざみさん」
帰ってきた言葉に、背筋が凍る。
くすりと笑った早苗は、さっきと同じ屈託のない笑顔を浮かべていた。
「やっぱり。わー、嬉しい。こんなに近くで会えるなんて思わなかったです」
マスクの中で、おかしな汗が噴き出す。
「何の……話ですか」
『花萌あざみ』それは、有紗が投稿サイトに小説を公開する時に使っているペンネームだった。
「ふふ、何の話だと思います?」
早苗の可愛らしい微笑みが、ひどく恐ろしかった。
「書いてあるの、今までの作品についてのメモと、新作のアイデアですか? 嬉しいなぁ。他の読者さんより先に読んじゃった」
有紗は貼り付くような喉を無理やり震わせ、「返してください」と小さな声で告げた。
「はい、お返ししますよ。大事な手帳ですもんね」
やけに、あっさりとしている。しかし有紗にそんなことを気にしている余裕はなかった。
差し出された手帳を奪い取ろうとした手が、掴まれる。
「ねえ、返事、聞きたいです」
「だから、そういう冗談は……」
「まだ言います?」
いつの間にか背中に回っていた手が、有紗の体をがっちりと拘束していた。
早苗の髪から、コートから香るシトラスが、やけに生々しい。
「大丈夫。手帳は返しますよ。でも、答えくれなきゃダメです」
彼女の声が、耳をくすぐる。
早苗に抱きすくめられる格好になった有紗は、暑いのか寒いのかよく分からない体温であたりを見渡す。
こんなところを誰かに見られでもしたら――
「あたしミーハーだから。好きな作家さんがこんな近くにいたって、みんなに自慢したくなっちゃうかも」
有紗の動揺など、早苗には一ミリも関係ないようだ。余裕のある口調で告げた彼女に、敵意を込めた視線を向ける。
「脅迫ですか……」
「そこまで言うことなくないですかぁ?」
ケラケラ笑った声には、悪意なんて感じられなかった。
「てか、田鎖さんが花萌あざみなのは否定しないんですね」
言葉に詰まってしまった。だってそれは紛れもない事実なのだから。
早苗の手が、有紗の腰に降りる。
「嘘つけないタイプなんですね。大丈夫ですよ。あたし、好きな人の秘密を言いふらしたりしないです」
ねぶるような、慰めるような声が降ってくる。
「でも、嫌われちゃってたら、しょうがないですよね……」
「……さっきから変なことばっかり」
有紗は早苗の体を押しのけて声を上げた。
「誰にも言わない代わりに付き合えってことですか? 最低ですね……」
にこり、早苗の口元が笑みの形に持ち上がる。
「そういうふうに取っちゃいます?」
いつの間にか有紗のメガネを拾っていた早苗は、ハンカチで丁寧に水気を拭う。
「でも、そう言ったら付き合ってくれますか?」
差し出された交渉に、有紗は黙り込んでしまった。
別に断る理由はなかった。ただ、受け入れる理由もなかった。さっきまでは。
それが今はどうだ。弱みを握られて、Yes以外の選択肢を奪われている。
職場の人々に自分の正体がバレてしまうのは、できれば避けたかった。
アマチュア小説家と言えばまだ聞こえはいいが、花萌あざみとしての有紗が書いているのは、性の絡むロマンスばかりなのだから――
「……分かりました」
苦渋の思いで言葉を紡ぐ。
「付き合えばいいんですね? 虫壁さんが飽きるまで」
自分の意思と関係なく関係を結ぶことに抵抗がないわけではなかった。しかし、保身のためだ。仕方ない。
この子は若さで舞い上がっているだけで、どうせすぐに別の相手なり執着の対象なりを見つけて離れていくはずだ。
有紗の頭の中には、そんな算段があった。
早苗は「やった!」と子供のような声を上げ、白い息を弾ませる。そして
「飽きるなんてことないですから、そこは安心してください!」
有紗の鼻先数センチのところから、その目を覗き込んで言った。
その距離にびくりと体がこわばり、有紗は咄嗟に顔を背けてしまった。だが早苗は気にする様子もなく、固まった有紗にゆっくりとメガネをかけさせる。
「とりあえず、ホテル行きます?」
「はぁ!?」
――――
「ここの煮込み美味しいですね! よく来るんですか?」
半個室のボックス席。モツ煮込みの椀を抱えた早苗が、上機嫌に声を上げる。
「……あの、虫壁さん……」
「早苗って呼んでください。サナとかサナちゃんだともっといいです。あたしも有紗さんって呼びますから」
「虫壁さん……いくら人気がないって言っても、ああいう場で、その……」
どう伝えたらいいものか、言葉がつっかえて出てこない。
有紗は、マスクの隙間からハイボールをすする。
あの後、駐車場でいきなりホテルに誘ってきた早苗を引っ張るようにして、有紗は近くの居酒屋に転がり込んだ。
日勤帯の職員は大体退勤した後だ。駐車場を通るのは出勤してくる夜勤職員くらいなものだったが、人に聞かれていたらというプレッシャーに耐えきれなかったのだ。
「ごめんなさい! いきなりホテルは早かったですよね! まだ手も繋いでないのに!」
勢いのまま大声で頭を下げた早苗に、隣のボックスの客が驚いたように視線を向ける。
「虫壁さん!」
この子は……本当に――
「有紗さん、有紗さん? 起きてます? 大丈夫ですか?」
「お酒結構弱いんですね。新しい一面」
「そんなベロベロで帰るんですか? 明日は日曜日じゃないですか。もっと一緒にいたいです。小説の話とか、聞かせて欲しいです」




