35. アオラトス新聞社のシモン
ぺらりと、フレイヤは紙を光に透かす。
何の変哲もない、ただの紙。
だが、その紙はとても重要な手紙だった。
マクネア伯爵家当主テオバルトからの、嘆願書──に見せかけた、その実は命令だ。
怪盗令嬢に対して、要求額は飲むが支払いは少し待って欲しいという意図。
「これだから貴族って嫌だわ。自分が命令できる立場だと思い込んでいるのが、いっそ滑稽」
今、ここにヴィオレはいない。だから、辛辣な突っ込みもない。
もし彼の黒猫が居たならば、フィオレもその貴族だっただろうと、誰よりも貴族らしいくせになにを言っているのかと、呆れ顔の指摘が入ったはずだ。
ヴィオレには、少しばかり、仕事に出て貰っている。
フレイヤは家から出ないで欲しいとラルスに頼まれているから、仕事以外では外に出ない。
もちろん、仕事をしているとラルスは知らないが──フレイヤにとっては大事な、大事な仕事だ。
「ユーディアライトの身代金。金の出所は、マクネア伯爵家と王家でしょうね」
他に、あれだけの大金を支払える余力がある家はない。
魔法に造詣が深いオーランの実家、カウマンス公爵家も裕福だが、カウマンス公爵モージズは慎重派だ。
いかに王太子ケンドリックが優秀だと言っても、モージズが本気になれば情報を秘匿することも容易い。
公爵家の財力は、実際のそれより随分と低く認識されているだろう。
「ヤフェスも、オーランに借りは作りたくないでしょうし?」
二人はライバルだ。
オーランはそれほどヤフェスを意識していないようだが、ヤフェスはオーランを意識せざるを得ない。
ケンドリックの側近として、武に秀でているのがニッキー・シーマンなら、知に秀でているとされるのがヤフェスとオーランである。
それぞれの特技は全く別のところにあるのだが、伯爵家出身のヤフェスは公爵家のオーランに引け目があるのだろう。
オーランに借りるくらいなら、ケンドリックに頼る。
その思考回路は、ヤフェスだけでなく、彼の父テオバルトも同じだ。
フレイヤは小さく笑った。
指先に摘まんだ紙が、一瞬にして火に包まれる。
全属性の魔法を使えるフレイヤにとって、紙きれ一枚を燃やすことなど訳はない。
「間違いなく、時間稼ぎね。その間に、新聞社に手を回して怪盗令嬢の捕縛に本腰を入れる──ラルスに発破をかけて、ついでにニッキーに手柄を立てさせる。そういうシナリオかしらね」
あっさりと、フレイヤはケンドリックの計画を看破した。
彼の考えそうなことは、すぐに分かる。
人々はケンドリックを優秀な王太子だと褒め称え、その能力の高さを十年に一度の逸材だと評価する。
だが、フレイヤから見れば彼ほど分かりやすい人間はいない。
底の浅い人間だと、フレイヤはずっと思っていた。
傍に居ても、全く面白みがない。意外性もない。
対して、ラルスは意外性の塊だ。
いつだって、フレイヤの期待を越えて来る。
──ラルスは、ホンモノだ。
彼なら自分の傍に居ても良い。
初めてそう思えた相手が、ラルス・タンザナイトだった。
そして、その気持ちは今でも変わらない。
「ラルスを王立憲兵騎士団の座から引き剥がして、ニッキーを団長にしたいのでしょうけれど──残念ね」
フレイヤは、蠱惑的な笑みを浮かべる。
「怪盗令嬢は、捕まらないわ」
それよりも先に、マクネア伯爵家が貴族年鑑から消える。
フレイヤが、そう決めた。
コンスタンツェ・ルベラティスが浮かべていたのとそっくり同じ表情で、フレイヤは目を眇める。
「私の迷宮へ、ようこそ」
美しく飾った虚構の迷宮。
そこで彼らが踊る日を、フレイヤは楽しみに待っていた。
◇◆◇◆◇
この国の新聞社はいくつかある。
大衆紙に、高級紙。
本社が国内にある新聞社もあれば、国外の新聞社もある。
王家や貴族が関与できる新聞社は、高級紙が基本だ。
社交界のことを主に扱う、貴族御用達の新聞。
とはいえ、大衆紙に全く手も足も出ないというわけではない。
何らかの理由をつけて資産を凍結するなり、営業停止命令を出すなり、社長や編集長を捕縛したり事情聴取の名目で長期勾留したりするなり、手段は幾らでもある。
国外の新聞社は少し手間だが、方法がないわけでもない。
その日、国内の高級紙を扱う新聞社には、次々と王宮から派遣された使者が立ち寄った。
なんの前触れもなく社長と編集長に話があると、威丈高に告げる。
断られるなど、全く思ってもいない様子だった。
次に手が伸びたのは、大衆紙だ。
大衆紙の新聞社は、どちらかと言えば反体制派の気がある。
その方が大衆受けが良い、ということでもあるだろう。
使者の言葉に、素直に頷いた大衆紙は、およそ三分の一。
残りの三分の一は渋った挙句に違法行為の疑いをチラつかされ、渋々頷いた。
そして最後の三分の一は、実際に社長や編集長が連行されたり、営業停止処分が下されたりした。
──ただし、ほんの数社。
国外を拠点とする大衆紙のオフィス。
そこは、もぬけの殻だった。
使者が扉を叩いても、当然反応がない。
時間をおいて訪れたところで、状況が変わるわけもない。
隠れているのかと判断した使者が扉をぶち破れば、ゴミや意味のない書類が散乱しているだけで、全く人がいた気配もなかった。
「逃げたか」
使者の一人が苦々しく吐き捨てる。
同僚が面倒臭そうに答えた。
「そうかもしれないな。先に高級紙の方に行ったのが不味かったか」
「連中は耳が早い。自分のところに来られちゃ堪らないってんで、逃げ出したんじゃないのか」
だが、それは明らかに悪手だ。
使者二人は、首をすくめた。
「逃げたところで、営業許可が取り消されるだけだ。いずれにせよ、ヤフェスさまからは、接触できなかった新聞社の名前は一覧にして提出するように言われているからな」
「ああ。それで、ここの新聞社は?」
使者は手元の帳面を確認する。
そして、該当の名前を見つけた。
「これだ。アオラトス新聞社。隣国に本社があるらしい。この国での責任者は、シモンズっていう男だ」
「分かった」
同僚は、帳面に書かれた社名と代表者名を書類に写し取る。
アオラトス新聞社が、彼らの最後の仕事場だった。
さっさと帰って酒でも飲もうと、二人はオフィスを出る。
そして、来る時よりも軽い足取りで、二人は王宮へと帰って行った。
──その後ろ姿を眺める、一人の男がいた。
アオラトス新聞社のオフィスの、道路を挟んだ反対側にあるカフェ。
歩道に面したオープンテラスの椅子に腰掛け、サングラスをかけた男はコーヒーを飲んでいた。
「ふーん。営業停止命令ねえ」
言いながら、男は小さな黒い球体を、耳から取り外した。
高価だが、男の仕事ではとても有用だ。
魔法式情報収集用送信機──通称、盗聴器。
「単なる紙切れ一枚だってのに、守るものがあるお偉いさんってのは、大仰だねえ」
ニヤリと、不敵な笑みを浮かべる。
男は、その名をシモンと言った。
他ならぬアオラトス新聞社の代表としてこの国に登録されている男だ。
この国で、大衆紙を広めた男でもある。
もっとも、その時の名前も、売り出した大衆紙の名前も、新聞社の名前も、今とは違ったが。
それまでは、新聞といえば貴族が読むものだった。
高級紙は社交界のことばかりを取り沙汰す。
購買層が貴族なのだから、当然だ。
だから、シモンは大衆紙を作った。
大衆紙の基盤は、この国よりも隣国で先に生まれた。
シモンはそのノウハウを持って来国し、大衆紙文化を花開かせたのだ。
「庶民の底力を舐めちゃあ、いけねえよ」
愉快そうに呟いて、シモンは立ち上がる。
帽子を目深に被って、店を出た。
彼には、これからするべきことがあった。




