31. ヤフェス・マクネアという男
フレイヤは、ラルス・タンザナイトの家で、家の主の帰りを待つ。
王立憲兵騎士団用の薬を調剤し、余った時間で家の掃除をする。
食材は好きに使って良いと言われている。
だから、フレイヤは料理をする。
それほど凝った料理はできないが、ラルスはフレイヤの味付けが好きなようだ。
ほんのわずかに顔を綻ばせているのが分かる。
フレイヤが「美味しい?」と訊けば、ラルスは頷いてくれる。
「意外なところに、幸せって転がっているのね。ブリギッタさんの言うとおりだったわ」
その日も、フレイヤはラルスを仕事に送り出して、そんなことを呟いた。
もちろん、怪盗令嬢として宝石を盗み出すのもスリル満点で好きだ。
ラルスが王立憲兵騎士団団長の顔で、怪盗令嬢を捕まえようと迫って来るのも堪らない。
それでも、何の変哲もない日常でさえ、ラルスが居ると楽しいのだから、不思議なものである。
初対面の時から、ずっとフレイヤはラルスが気になっていた。
その時は既に王太子ケンドリックの婚約者だったが、そんなことはどうでも良かった。
滅多に会うことはないが、機会があればラルスを一目でも見ようとしていた。
コンスタンツェは、取り繕うのが上手だったから。
だから、王太子ケンドリックはもちろん、彼の側近も誰一人として、コンスタンツェの様子には気が付いていなかった。
あれほど、偉そうに色々と言っていたのに。
何かあるごとに、ケンドリックはもちろん、彼の側近たちも何を勘違いしたか、コンスタンツェにある事ない事を言っていたのに。
やはりニセモノは口ほどにもないと、フレイヤは──いや、コンスタンツェは、思ったのだ。
「そうねえ。それでも、ヤフェスは可愛いものだったわね」
フレイヤは目を細める。
──初めて会った日は、十三年前の春。
その後も色々とあったが、最初から印象は最悪だった。
ケンドリックと婚約した、翌年のことだった。
◆◇◆◇◆
ヤフェスは、その頃はまだ生意気な少年だった。
コンスタンツェ・ルベラティスよりも一つ年上で、王太子ケンドリックと同い年。
伯爵家ではあるものの、権勢を誇るマクネア伯爵家は王家の覚えもめでたかった。
「きみが、コンスタンツェ?」
初めてコンスタンツェを見たヤフェスは、目を瞬かせて率直に尋ねた。
正直なところ、コンスタンツェは不快だった。
相手がヤフェス・マクネアであることは知っている。
まだ七歳と幼かったが、コンスタンツェは実家で一流の教育を受けていた。
だから、王太子や彼と親しい令息たちの名前と顔は把握していた。
「まずはお前が名乗りなさい」
公爵家よりも、伯爵家の方が位が低い。
だから、コンスタンツェの発言は正しかった。
だが、ヤフェスはそのような物の言い方をされたことがなかったのだろう。
ケンドリックは王太子だから分かるとしても、相手は少女だ。
なにより、新しい友達が増えると思っていたヤフェスは、コンスタンツェの言い方にカチンと来た。
「おまえ、女のくせになまいきだぞ!」
そう言って、コンスタンツェの小さな体を突き飛ばしたのだ。
公爵家の令嬢として大切に扱われて来たコンスタンツェには、初めての体験だった。
小さな体は、軽く吹っ飛ばされた。
近くに居た侍女が反応することもできないほどだった。
「っ!」
全身を、地面に打ち付ける。
痛い。
顔を顰めたコンスタンツェを見て、ヤフェスは拙いと思ったのだろう。
慌てて踵を返して、ヤフェスはその場を走り去った。
馴れ馴れしく話しかけておいて、名乗りもせず、挙句の果てには突き飛ばす。
謝ることもなく、逃げるように走り去る。
──なるほど。
これが「ひきょうもの」なのかと、七歳のコンスタンツェは、前日に読んだ辞書の単語を思い出していた。
◇◆◇◆◇
王太子側近のヤフェス・マクネアは、隠しきれない焦燥をその顔に滲ませていた。
普段は何があっても動じず、落ち着いて、穏やかな微笑を浮かべる彼には珍しい。
急ぎ足で、彼は王宮の廊下を歩く。
向かう先は王太子の執務室だ。
最初の災難は、実家マクネア伯爵家の家宝であるユーディアライトが盗まれたことだった。
あれほど万全の警備を敷いていたにも拘わらず、怪盗令嬢はあっさりと金庫から宝石を盗み去ったのだ。
敵ながら天晴、と言う他ない。
父テオバルトは怒り狂い、悄然とし、立ち直ったかと思えば王立憲兵騎士団を罵っていた。それでもまだ、ユーディアライトさえ取り返せば良いのだと、ヤフェスは思っていたのだ。
だが、事はそう簡単ではなかったらしい。
「どうすれば良いんだ」
ヤフェスは唇を噛む。
そこに、通りすがりの貴族が一人、声を掛けて来た。
「これはこれは、ヤフェス殿ではないですか!」
王太子ケンドリックの側近の中で、これほどまで親密に話しかけられる者も珍しい。
長い間、彼は人当たりの良い自分を演じて来た。
本来はそこまで他人に気を遣う性格ではないが、王太子ケンドリックの側近の中で、一番対人関係が上手いのが自分だった。
根回しをするのも、それなりに得意な方だ。
だから、王太子ケンドリックの言葉少なな命令に反感を持つ貴族に対しては、言葉を尽くして理解を求めて来た。
何か不満があるようであれば、耳を傾けて来た。
ケンドリックの崇高な志を全く理解していない言い様には呆れることも多いが、地道な努力のお陰で、貴族たちはヤフェスに心を開いている。
何かあればヤフェスに言えば大丈夫だと、きちんと王太子の耳に届けてくれると信じている。
──そんなはずは、ないのに。
全てをケンドリックに伝えていたら、日が暮れる。
ケンドリックが望んでいるのは、全ての情報を取捨選択し、必要なものだけを自分に届ける有能な部下だ。
だから、ヤフェスは貴族から聞いた話の中から、有用そうな情報を選別する。
そしてケンドリックに伝えるのだ。
いずれにせよ、ヤフェスは気軽に貴族から話しかけられる。
文官や武官からも、ちょっとしたことで相談を持ち掛けられる。
普段なら、特に気にせず相手をしていただろう。
だが、この時のヤフェスは余裕が全くなかった。
頭は盗まれたユーディアライトと、今朝父から聞かされた問題で一杯だ。
そんな時に、他人の相談事など聞く余裕があるはずもない。
「急いでいるので、失礼」
これまでになく冷たい声で、ヤフェスはその場を立ち去る。
後には、呆気に取られた貴族が取り残された。
「──ヤフェス殿?」
もちろん、貴族のそんな呟きはヤフェスの耳に届かない。
ヤフェスは焦燥を抑えて、王太子の下へ向かう。
──王太子は、知っているのだろうか。
そんな疑問が、ずっと頭にこびりついて離れない。
そして、何よりも恐ろしいこと──それは。
「怪盗令嬢は、本当に知っているのか──?」
この国の、今の在り方に関わる、重要な国家機密。
もし彼女が把握しているのだとしたら。
それは、なぜ。
いつ。
どこで。
どうやって。
その国家機密に、辿り着いたというのか。
底知れぬ恐怖で、ヤフェスの背筋に冷たいものが走った。




