29. 宿敵騎士の誘い
王宮を飛び出したラルスは、まず魔法薬局に向かった。
フレイヤが働いている魔法薬局には、これまでも何度か訪れたことがある。
裏手の家には魔法薬局の店主ブリギッタが住んでいて、フレイヤは魔法薬局の二階で暮らしていたはずだ。
身寄りのない娘だと、ラルスはかつて聞いたことがある。
だが、魔法薬局には誰もいないようだった。
「──まさか、留守にしているのか?」
嫌な予感が、ラルスの胸を過る。
仕事の一貫で夜警のため近くを通ることはあるが、たいていの夜、二階の窓からは明かりが漏れていた。
だが、今日は真っ暗だ。
念のため、ラルスは呼び鈴を押す。
誰も出て来ない。
嫌な予感が、ひしひしと強くなる。
「どこに行った?」
ラルスは苛々としながら、周囲を見回した。
この時間に開いている店は、ほとんどない。飲み屋は別だが、フレイヤは飲み屋に行くような娘ではない。
それなら、フレイヤは何かが足りないと気が付いて、閉店間際の店に駆け込んだのだろう。
夜であっても買いに出かけなければ、困るもの。
「薬の材料、それとも──朝食か?」
フレイヤ一人だけなら、朝食が足りなくても気にしないだろう。
だが、フレイヤは優しい。
もしブリギッタの分の朝食すらないと気が付けば、買いに出る可能性は高い。
「薬でも朝食でも、同じか」
ラルスは踵を返した。
フレイヤが訪れる店は、庶民向けの所ばかりだ。
それならば、商店街がある地区の方に出かけたはずだ。
手ごろな価格で質が良いものを、彼女は好む。
「目利きだからな」
無意識に、ラルスは笑みを浮かべた。
いつも、フレイヤは質の良いものを身に着けている。
高くもなく、安くもない。
自分に似合っているものを、よくわかっている。
品の良さは金では買えないと、ラルスはフレイヤを見る度に思うのだ。
王宮では、金ばかりかけて品のない貴族が山のようにいる。
フレイヤは、社交界の対局にあるような存在だった。
「急ごう」
ラルスは走り始める。
次から次へと、建物が背後に流れていく。
疾風のような速さで、彼はフレイヤを探した。
高い確率でフレイヤに危機が迫っていると、ラルスは確信していた。
聖女ミアが、フレイヤの存在を知っていた──それが、理由だ。
名前は知らずとも、王太子ケンドリックや側近の誰かが、フレイヤをラルスの協力者だと判断したのだ。
ラルスが摘発した店『ミスティコ』は、高位貴族の資金源だ。
摘発されて困る人間は必ず出て来る。そういう時に奴らが狙うのは、王立憲兵騎士団の団長であり男爵家の養子でもあるラルスではない。
もっと、立場が弱く肉体的にも弱い人間──今回はフレイヤだ。
もしかしたら、そうなる可能性があるかもしれないとは思っていた。
だが、ここまで早くフレイヤの存在がと特定されるとは想像していなかった。
実際の協力者ではないのに、相手は完全に思い違いをしている。
それでも、勘違いするだけの土壌は確かにできあがっていた。
フレイヤは、王立憲兵騎士団と距離が近すぎるのだ。
「本当なら、遠ざけるべきだったんだ」
でも、それはできなかった。
確かに、ラルスはフレイヤの存在に居心地の良さを見出していた。
気が付けば、フレイヤはラルスの傍に居た。
最初からそれが当然だというように、ラルスはフレイヤの存在を受け入れていた。
悔恨の念と共に、ラルスは溜息を吐く。
だが、既に遅い。敵はフレイヤの存在を見定めた。
遠ざけて守ることは、できない。
それならば──そこまで考えたところで、ラルスは見知った気配に立ち止まる。
その気配は、路地裏から漂っていた。
──殺気。
王立憲兵騎士団として長らく戦ってきたから、ラルスには身に馴染んだ空気だった。
「まさか、ここか?」
信じたくないが、可能性は大きい。
ラルスは身を翻して、路地裏に駆け込んだ。
途端に、消音装置で鈍くなった銃声が鼓膜をゆする。
ラルスは、反射的に剣を抜いた。
目に映ったのは、茶色のふわふわな髪の毛。
彼が探していたフレイヤが、銃を持った男の一人に角材を振り下ろそうとしている。
無意識に、ラルスは笑った。
控えめで、大人しく優しいフレイヤ。
その彼女が、凛とした姿を見せるその瞬間が、好きだった。
角材が一瞬、虹色の光を纏ったように見える。
それを視界の端に捉えながら、咄嗟の判断で、ラルスはもう一人の男を斬る。
ラルスの魔法剣は、人を殺すことも生かすこともできる剣だ。
後から話を聞かねばならぬと、殺してはいない。
静寂が、路地裏に広がる。
ラルスは息を整えながら、呆然として自分を見つめるフレイヤに尋ねた。
「大丈夫か?」
いつも表情豊かながら、落ち着いているフレイヤ。
その彼女が呆気に取られている様が面白くて可愛くて、ラルスは顔を緩めた。
◆◇◆◇◆
フレイヤは唖然としていたが、やがて我に返った。
まさか、ラルス・タンザナイトが駆けつけて来るとは思っていなかった。
もちろん、ラルスは王立憲兵騎士団の団長だ。
遅かれ早かれ、フレイヤを襲ったごろつきの仕業は彼の知るところになる。
だが、フレイヤの予想では、ラルスとフレイヤが対面するのは、夜闇に紛れてフレイヤを襲った二人組の取り調べをする時だった。
それなのに、ラルスは今、フレイヤの目の前にいる。
「なんで──」
ここに居るの、と言いたげにフレイヤは目を瞬かせる。
どさりと手から角材が落ちた。そこで、フレイヤは我に返る。
そして、目を瞬かせ──フレイヤの仮面を、被った。
「団長さま、なぜここに?」
ラルスは目を瞬かせる。何事かを考えていたが、笑みを唇に佩いて剣を腰に戻した。
上着の下から紐を取り出し、地面に倒れている男二人を手際よく縛る。
「少し気になって、魔法薬局に行ったら留守だったから──もしかして、出かけているのかもしれないと思ったんだ」
「私を、探していらしたんですか?」
フレイヤは首を傾げた。
ラルスが突然姿を見せることも、彼がフレイヤを探していたことも、予想外だった。
不思議に思って首を傾げる。
だが、ラルスはすぐには答えない。
あっという間に男二人を縛ったラルスは、呼び笛を鳴らした。
近くで夜警に回っている王立憲兵騎士団の騎士を呼んだのだ。
そして、ラルスはフレイヤを見つめる。
ゆっくりと、彼は言った。
「そうだ。だが、その理由を説明すると少し込み入ってしまう。だから──良ければ、俺の家に来ないか」
真摯な、ラルスの瞳。
そこには何の嘘偽りもない。
隠された思惑も、何一つとして感じられない。
フレイヤは、言葉を失う。
これまで、全てはフレイヤの計画通りだった。
彼女が意図したとおりに、大勢は進んでいった。
だが、これは予想外だ。
いつかはラルスを手に入れる──そう思っていた。それでも、ラルスが今、このタイミングでフレイヤを家に誘うなど、想定していなかった。
「どうして」
いつも動じず、最適な言葉を選ぶ。
最も効果的な態度を、発言を、違うことなく選び出す。
そうして生きて来たフレイヤは、この時初めて、正解を見失っていた。
ラルスは少し困ったように笑う。
「俺のような粗野な男の家に来るのは嫌かもしれないが──君が嫌なことは何もしないと誓う。だから、来てくれないか」
そして、彼は控えめに付け加えた。
「君の──安全のためなんだ」
──ああ、彼が、とうとう。
フレイヤの胸が震える。それは、歓喜だった。
驚きで麻痺していた頭が、本来の回転を取り戻す。
まだ、完全ではない。
それでも、間違いなくラルスの中で、フレイヤは守るべき相手に収まった。
彼が守るべきだと考えている人間の中でも、特別枠。
これで、次の駒を進められる。
「──分かったわ」
だから、フレイヤは頷いた。
差し出したラルスの手を、取る。
迷いはなかった。
唇を、自然と笑みが彩る。
二人の耳には、駆けつけて来た夜警の足音が届いていた。




