第九十二話 宇宙は今も我を見下ろしている
近い、地面が。なんだこれは木樹かあ
疑問の原因は簡単だ、気がつけば甲板に這いつくばっている。
そこは、まるで胃液と何かが混じり合った黒い粘液の海でもできたようで、それに顔を突っ伏していた。
甘ったるく腐った蜜のような臭いが、鼻の奥から脳天まで突き刺さり、肺の隅々まで染み渡る。
(な、なんだこれは...?虫か..?)
目の前には、いや、目に刺さるこの針はきっと、吐き出した蜂の死骸に違いない。
銀色の羽が溶けたようにべっとりと崩れ落ちてはまだ微かに痙攣を繰り返している。ならば眼窩に広がるこの暗闇あるいは、このどんよりした色はその体液か。
(ああ、違いない。)
その体液はどろどろと床板に広がり、薄汚れた黄色と漆黒が渦を巻いて混ざり合い、まるで腐りきった果実を踏み潰した後の惨状のようだった。
「う……ぐえっ……はあ……」
今更ではあるが臭いは執拗だった。
単なる吐瀉物と違い甘くねっとりと舌に絡みつき、酸っぱい腐敗の後味が喉を焼き、鉄錆のような血の気配さえ混じる。
「ふぅ、うぇ」
息を吸うたび、吐瀉物が鼻腔を灼熱させ、目が痛く涙を誘う。顔先ばどが死骸に触れると、ぬるぬるとした冷たい粘膜の感触が這い上がり、再び胃が捩れた。そうすれば黒い塊が口から溢れ、床に飛び散る。
その飛び散った吐瀉物、ゲロのせいで死んだ蜂の羽が唇に張り付き、半透明に溶けた翅が息で微かに震えるのを常に感じさせる。気色悪い。
だが同時に喜びべきか、やっと消える。そのはずだ。
いい方向へと考えれば俺は自由になれるかもしれない。例え、死を迎えるとして。
(死か、死、死の何処が良くない?)
衣服の胸元もべったりと濡れ、重く生温かい感触が肌に張り付いて離れない。生きるならばこんな感触までするならば、死んでも構わないじゃないか。
視界が揺らめく中、俺は必死に起きあがろうとしてもただ、只々そこへとへたり込んだ。
バシャ バシャ 羽の音だ。
カァカァと叫ぶあの鳥の怪物らが飛んでいるに違いない。けど今は、そんな怪物たちより、この甘腐った悪臭と、床にへばりつく粘液の不気味な輝きに意識が囚われてしまう。(さっさと起き上がれ...)
蜂の死骸は点々と散らばり、吐くたびに口が開閉するからまたのように流れ出しては地べたに落ちて蠢き、泡立つ粘液がゆっくりと床板の木目を汚していく。
その時、鈍く輝く鉄の篭手が視界の端に現れた。俺の腕を掴んだ鉄の手。
「ここより近しい場所に故に、伝えるぞ。我が知る老姥や、その血縁なるし、ダマンゲルか、奴等をこう言う」
言葉の終わりが見えず、長々と話をしそうな男の声だった。
「誰だ...何をいう...」
「其れは、巫毒と呼ばれる忌まわしき呪術に他ならぬ。遥か南方の蛮地より古の時代に伝わりし、魂を蝕み、肉体を傀儡と化す闇の秘儀なり。魔法などという言葉にて括るべきもので……貴公のから流れし蜂の残骸はきっと、貴公よ巣食いし蜂の群れにあるぞ。同じくそれは残滓の成れの果てであったろうよ。貴公みたく...いや」
「お前は普通に喋るんだ!!?」
少し遠い先の方からか。誰かの驚く声がする。
でももう良くわからない。体が揺れるように気持ち悪い。
(違うか、いやそうか。そもそも...み...ず、水の上だ)
俺が揺れているんじゃない、けどなんで否定する、揺れているから弱っていると想像したからか。まるで昔にそうなのを見てきたような気がする。
「あ...」
彼は、騎士はゆっくりと俺の腕を掴んでいない右手を差し伸べた。汚れてる、血と油なのか、少し赤みかかった滑りに汚れた篭手の指先は、俺に向けられた。
俺は震える腕を必死に伸ばした。指が絡み合い、冷たい金属の硬さが伝わる。けど、不思議と安心して行く。硬さを感じる、揺るぎなき硬さを。まるでそれが俺を、俺の揺らめきを止めてくれるような感覚だ。
「もう一度言おうぞ、我が名は、吾はセオリクとでも呼称しろ。」
そう言うとセオリクは俺を、こちらを、力強く引き上げてくれた。
「俺は、ラアンドリウス...」
足がふらつき、膝が笑う。立ち上がるだけで吐き気が再び込み上げ、鼻を押さえても甘く腐った蜜の臭いが風に乗って襲ってくる。靴底に蜂の残骸がべちゃりと潰れ、粘つく感触がさらに吐き気を煽る。
「う……まだ、この臭いが……この惨状が……憎い只々と憎い……」
俺の感情と真逆のようにセオリクは静かに頷き、俺の肩を支えた。
「耐えよ、耐えよ、ただと耐えよ。それを良しとせよ。巫毒の影は未だ貴公の魂を苛むも、手を差し伸べし今、貴公は己が足にて立つ第一歩を、確かに踏み出したのだ。黒き泥濘の如き苦難を、ただ前へ、前へと越えゆけ。」
(何言ってんだこいつ。)
思わずに悪態をついた、顔がぎくごくと動いた気がする。それもすぐに終わった。
遠くの方は酷いことを極めていたからだ。男たちに怪物たちが群がり、肉を啄む湿った音と羽音が混じり合うと、そこから甘酸っぱい血と腐肉の匂いが、伝わってくる。
(甘い...!?気色の悪い、俺は怪物か、違う、違う!!)
そんな思いが俺の吐瀉物の悪臭と重なり、船全体を覆う吐き気を催す回り続ける悪臭の渦となってしまう死
俺は思わずに腕からセオリクの腕に体重を預け、掠れた声で答えた。
「俺は……」
「時は来れば自ずと定まろう。」
「おいおい、気持ち悪く乳繰り合うお二人方よぉ、時間ねーんだよ、おい。」
「うむ、すまぬ」
「すまぬじゃねぇよ!おい!」
「...だれだ...?」
「俺か、俺はカロイアン、誇り高き帝国が法務部。」
苛立った声が響き、黒と赤みがかったやや高級そうな服を着た男が近づいてきた。
珍しくも綺麗に整えられた短髪の上に帽子を被っている。
(兜とかではないんだな...)
彼は舌打ちしながら片方の腕を掴み、三人は互いに肩を寄せ合って立った。
「ここから離れるべきだ。お前が不死身の怪物出ない限りはな。鳥の怪物どもがすぐ群がってくる。まずは逃げよう」
「……ああ。なぜ俺を助けて」
「くだらねぇよ、質問が多いやつは大抵無能...待て。」
言葉がポツリと止まるとカロイアンは帽子を軽く直し、周囲の空を素早く見上げた。遠くでカァカァという不気味な羽音が大きくなり、黒い影が複数旋回している。
「あの鳥ども……ただの怪物じゃねえかも知れねえ。動きが規則的だ。少し観察した方がいいか? いや、違う。先に逃げるぞ! ここにいたら囲まれる、近づいて来てやがる!!」
「ま...待て....待て、待て。まだだ、儀式の..いや、無闇やたらに動いては」
「貴公よ、何か思うことがあるか」
「儀式だのなんだの、後でゆっくり話せ。今は生き延びるのが先だ。あの鳥ども、さっきより数が増えてる、俺が言って悪いからさ、もう観察してる暇なんてねえよ。先に逃げるぞ、森の奥でもどこでもへ。ここいらにたくさんあったなんかの建築の残骸でも見つかれば隠れられるかも知れねえよ」
バサ、バシャ
その時、強い羽音が複数近づいてきた。
「来る! 此処よりは迎え撃つぞ!」
「ま、待て」
(俺に、戦うと言って来たのか、こんな怪物どもと...?!)
ラアンドリウスよ、仮に貴公の思いを知っては誰が笑わずして済むか、セオリクとて貴公の姿を見ては逸話の存在と、死より甦りし存在、食屍鬼と勘違いしたのだ。
「打つな!」
「何故ぞ?」
「見ろ、まだ誘導が効くはずだ。」
誘導、誘導とは、カロイアンが言うこととは。
して、見ると、彼が指した先を見る。
先ほどより回転をしている怪奇なる生物らは確かに近づいていた。
「見たか。だから言ったんだ時間がないと。」
「な、なぜ俺を助けた。」
「だから時間が」
「カロイアン」
「む」
「貴公よ、すまない。しかし今は一人でも多く力が必要だ。ここでもまたよからぬことが、我が対峙したかの存在が、魔物の石が」
━━━━━━━
「団長も人使いが酷いな、これで復活とか...こんな赤い石でか」
ドサ
「な、あんた、大丈夫か。ジョン」
「嗚呼、これ以上ないほどに、だ。」
「ッ」
違う、違う
男は違いに気がつく。
「誰だ。あんた...!」
「俺か、俺は軟体生物の神だ」
生物、人、違う、人じゃない
もっと古い。
きっと星々が天に綴られて、人々が生まれる以前から、暗黒の海の底で繰り返されてきた、理解を拒む何かの存在だった。
やつは溶けている。だから悲鳴が上がる
「うわああああ!」
いや、溶けているのではない。
今まで“人”だと思っていたものが、ただ人の脳が現実を理解するために貼り付けていた薄膜に過ぎなかったのだ。
その膜が、静かに剥がれていく。そして、その向こう側が現れた。何かが現れた、存在するはずのものはきっとある。けど彼が知る存在ではない。
そこには上下も距離も存在せず、狂った幾何学に従って造形がされていた。影も輪郭もなく、まるで光は闇を照らさず、闇が光を呑み込みながら輝いている。
形容できない存在。いや、言語では形容することすら冒涜となるもの。それらは遥か彼方にいるはずだった。しかし今はに、男の眼前にいた。瞳の中にいた。
その事実を理解した瞬間、男はさらなる悲鳴を上げた。
男は、自分が無限の深淵へ落下していることを理解した。
しかし。
どれほど落ちても、底は近づかない。
なぜなら、自分自身が底へと変わり始めていたからだ。
「生命は海で蠢く前から存在していた静かなる悪意として潜んでいた。」
何かを言っている、ジョンのはずの存在が
でもジョン・フォンではない、見る角度によって形が変わる。見ようとするたびに変化し、認識しようとすればするほど脳が拒否した。
男は叫びに枯れ果てた喉でまた大きく叫ぼうとした。だが、声という器官が何であったかすら思い出せない。
静かさが彼を包み込んでいく。
それは優しく。
それは慈悲深く。
だからこそ、絶望的だった。
人間が蟻の一生に無関心であるように。
海が沈んだ船員の名を知らぬように。
眼前にあるそれらは、彼を含めた存在らを憎んですらいなかった。
ただ、存在していた。
それだけで十分だった。
彼を絶望に迎えるのに。
やがて彼は理解した。
彼は何かを見ていたのではない。
最初からずっと。
その方が、人類を見下ろしていたのだ。
「宇宙だ、時間と空間そのものなんだあなたは!!あああ!」
宇宙、それは存在する現在と未来の全て。
だが、それは存在してはいなかった。
存在させていた。
「教えて、全てを理解し、宇宙は大陸を包むのです」
言葉から。
人類は宇宙を見上げていたのではない。
最初からずっと。
宇宙の方が、人類を見下ろしていたのだ。
誰にも知られることなく。男は生涯を終える。
彼の一部となったように。
彼もまたそれを好ましく思うのであった。




