8.未来
私が王妃になってから数年が経ちました。
幸いに、この数年は天候にも恵まれ、革命の傷跡は年を追うごとに癒えていっています。民も、王に不満を持ってはいないようです。革命を経験したせいでしょう、中には声の大きい騒がしい者もいるので、幾らか平民に譲歩しなければならない点はありましたが。でも、王権を完全に排そうなどという者は――少なくとも公には――現れていないので、私たちの治世はとりあえず成功していると言って良いでしょう。
多くの民は満足して家畜に甘んじています。あれだけ自由だ権利だとうるさかったのに他愛のないもの。やはり彼らは日々の生活のことしか頭にないようです。
そんな中、私は公務の合間を縫ってある場所を訪れていました。オーギュスト様とセシルの、お墓、です。
新王は快く迎えられたとはいえ、混乱を救ったという功績があってこそのこと。長きに渡る貴族の悪政と、凶作と。全ての責を負わされたふたりへの民の悪感情は、まだ和らいではいないのです。だから、本当に心苦しいことなのですが、ふたりが眠るのは王家の墓所ではなく、王都近郊の森の一角の、寂しい場所です。静かなところで、せめて安らかに休んでいてくれれば良いのですが。
お墓にほど近い空き地まで馬車で乗り付けると、私は伴の者たちと別れました。私にとってふたりがどういう存在なのか、彼らは分かってくれていますから。だから、心配そうな顔をしつつも私を一人で送り出してくれるのです。
深く積もった落ち葉などに足を取られないよう、ゆっくりと慎重に歩きながら、私は人の気配がないかを探り――いつもの静謐な空気を確かめて安心します。
暗君と浪費夫人に意趣返ししてやろうと、ふたりが眠る場所を荒らそうとした不届き者が出たこともあるのです。私の身が危ないかどうかということ以上に、そのようなことを許してはふたりのために申し訳が立ちません。
「オーギュスト様。セシル……」
やっとふたりが眠る場所にたどり着いた私は、墓石に携えてきた花を捧げました。
「久しぶりになってしまって、ごめんなさいね」
以前に訪れたのはもう何ヶ月も前のことでした。大切な人たちのお墓に詣でるのもままならないなんて、王妃の身はなんと不自由なことでしょう。
「国は……やっと落ち着いてきたわ。全ての人が豊かに、とはいかないけれど……でも、理不尽に虐げられたりする人はいなくなっている」
革命は、支配する側の貴族に確かな恐怖を植えつけました。かつて民を冷酷に扱った人たちも、またあのようなことが起きるかもしれないと思うと躊躇うのでしょう。惨い統治が行われることはだいぶ減ったということです。
「貴方たちの望んだ国が実現しようとしています。だから、どうか安らかに――」
地面に座り込み、苔むし始めた墓石を撫でようとした瞬間でした。茂みをかき分ける音を耳が拾い、私ははっと顔を上げました。
音が聞こえたのは私が来た方向からではありませんでした。森の中をかき分けて、この墓所に至った者がいるのです。
「誰!?」
ひとりで森の奥まで来たことを悔やみながら、誰何します。オーギュスト様とセシルの眠りを妨げようという不埒者と鉢合わせてしまったのでしょうか。私ひとりで退けることができるかどうか――そもそも、私も無事でいられるでしょうか。
「えっと……ごめんなさい?」
緊張して見つめる中現れたのは、幼い――十歳にもならないような女の子でした。でも、安心することはできません。服装からして平民の子、親に何を吹き込まれているか分かりません。明らかに身なりの良い私に敵意を持つかもしれないのです。子供とはいえ怪我をさせられてしまうかも。悲鳴を上げたとしても、伴の者は間に合ってくれないでしょう。
私は自力でこの場を切り抜けなくてはならないのです。
「貴女は誰です? 何をしに来たの!?」
高く鋭く、私は問いました。この対応で正しいかどうか、鼓動が早まり背を汗が伝うのを感じながら。座ったままの体勢で、子供よりも低い目線なのが不安でした。引き下がってくれれば良いのですが、反発させて刺激してしまったらどうしましょう。でも、王妃として、平民に対して下手に出ることなどできないのです。
「ごめんなさい、奥様……。お花を、置きに来ただけなの……」
女の子がぎこちなくスカートをつまんでお辞儀らしきものをしたので、私は少しだけ体の力を抜きました。身分の高い相手には礼儀を守るものと、その程度の躾はされていると分かったからです。
けれど、彼女が言ったことは依然として訳の分からないことでした。確かにその子は小さな手に摘み取ったばかりらしい野の花の束を持っていたのですが――
「このお墓がどなたのものか知っているの? なのに花を捧げるというの?」
オーギュスト様もセシルも、民の反感を買ったままのはずなのです。この子自身は革命のことなど覚えていないかもしれませんが、この子の親は、世間一般が言うのと違うことを娘に教えているということなのでしょうか。
平民に対して油断してはならない。特に、普通と違う考えの者――群れからはみ出ようとする者には。
知らない大人に睨まれたからか、女の子は泣きそうに顔を歪めて一歩下がりましたが、それでも細い声で答えました。
「はい、奥様……亡くなった王様と王妃様です」
亡くなった、という表現に私は無性に苛立ちました。ふたりは単にこの世を去ったのではありません。無惨に殺されたのです。愛し、守ろうとした民の手で。この子供もそんな民のひとりだというのに。
「知っているならどうしてお花を? 貴女には関係のない方でしょう? 周りの人は何も言わないの?」
「父さんや母さんはダメだって言います……」
「それならなおさら、なぜ? 何を企んでいるの?」
少女の声はますます細く、私の声はますます高くなっていきます。親の目を盗んでまですることにろくなことはない、と。得体の知れない者を、大切な人たちのお墓に近づけたくないと思ってしまうのです。
恐る恐る、といった面持ちで私の顔色を窺いながら、女の子は答えました。
「亡くなるのは知らない人でも悲しいから……。誰もお花もあげないなんて」
「何ということを……!」
その言葉に、私は口を半ば開き、喘ぎを漏らしたまま絶句してしまいました。
まず感じたのは、怒りです。私がオーギュスト様とセシルのお墓を放っておいていると、非難されたように思ったのです。よりにもよって平民の子供に、無礼にも。
でも、次いで襲ったのは罪悪感です。公務が忙しいから、というのは自分自身に向けた言い訳にすぎませんでした。本当はもっと頻繁にこの場を訪ねることもできたはずなのです。そうしなかったのは、ふたりに国のことを報告する気にならなかったのは。
今の私の考えは、ふたりが命を懸けても曲げなかった信念に背くものだと分かっているから。
確かにルイはよく国を治めています。革命の痛手から、愛する祖国は立ち直りつつあります。でも、私がしようとしていることは、単に傷を癒すだけではありません。革命そのものが民の記憶から消えるように。まるで何もなかったかのように王と貴族による支配を続けようと、必死に民を押さえつけ、家畜に貶め続けているのです。
今の私をふたりが見たら、きっと眉を顰めるでしょう。ここに来て、その姿を思い浮かべてしまうのが怖かった。
でも、私は民も怖いのです。何かきっかけがあれば、彼らはまた牙を剥くのでしょう。そして私の大切な人たちを襲うのでしょう。だから、他にしようがないのです。
自分の内側と向き合っていたので、私は少女が近づいていることに気が付きませんでした。視界が陰ったのを不審に思って顔を上げ――間近に覗き込んでくる大きな瞳に、悲鳴を上げてしまいます。
「奥様、大丈夫? 赤ちゃん、痛いの……?」
女の子がお腹に言及したのも恐ろしくて、私は地を這うようにして逃げようとしました。けれど墓石に背があたってそれ以上は下がれなくて。せめて、と思って、膨らんだお腹を両腕で抱えて守ろうとします。
「来ないで……!」
私のお腹には確かに赤ちゃんが宿っています。体調も安定してきたので、オーギュスト様たちに報告しようと思っての墓参だったのです。大事な報告だからこそ、信念を曲げた後ろめたさを押してやって来ることができたのです。
私はまだ生まれてもいない我が子が愛しい。この子が殺される未来は見たくない。だから、民に心を閉ざし、彼らを権利から遠ざけるのも仕方ない。顔も知らない民のためではなく、愛しい人たちのために。きっとふたりも分かってくれるはず。
なのに、よりによってこんなところで平民と出くわすことになるなんて。
「でも、奥様……」
恐怖に喘ぎながら、私は女の子が手を伸ばしてくるのを見つめました。小さな子供の、でも処刑人のそれのように忌まわしい手。お母様を引き裂いたのと同じ平民の手が私に触れます。
けれど――
「赤ちゃんがびっくりしちゃう……」
お腹をそっと撫でる手の感触は、とても柔らかくて優しいものでした。あまりに優しくて、叱りつけるのも怯えるのも忘れてしまうほど。
「どこか、痛いですか? お医者様は――」
「いいえ、大丈夫……」
気遣うように尋ねる少女に、私は呆然と答えました。
どうして平民なのにこんなに優しい手をしているのかしら、と不思議に思っていたのです。そして不意に気付きます。
私は、民を漠然とした群れとしてしか見ていませんでした。初めは守るべきもの、哀れむべきものとして。革命が起きてからは愚かで貪欲で恐ろしいものとして。祖国に帰ってからは、家畜の群れとして考えるだけで。ひとりひとりの顔を見ようとはしていなかったのです。
私は目の前の女の子の顔をまじまじと眺めました。着ているものはと全く違うけれど、ただの子供です。獣のような残酷さも獰猛さもない、人間の子です。私や――お腹の子と、同じ。
見分けのつかない家畜などではない、ひとりひとり違う人間。
私は、初めて民の顔を認めたのです。
「ああ……」
目の奥が熱くなるのを感じて、私は顔を手のひらで覆いました。涸れるほどに流した悲しみや怒りの涙ではなく、魂を引き裂くような悔恨の涙が頬を濡らします。
今、私は自身の本当の過ちを悟りました。
平等を謳いながら、私は民を人間として見たことはありませんでした。改革によって権利を与えるのも、まるで施しをするかのように。当たり前のように感謝されるだろうと思っていました。民が獣となって牙を剥いたのではありません。私たちが、先に彼らを家畜のように扱ってしまったのです。
革命を引き起こした原因の一端は、間違いなく私たちにありました。オーギュスト様やお父様たちは、ご自身の命を持ってその罪を償われました。死に臨んでの言葉は、過ちに気付いたからこその真摯な――上辺だけだったかつての私と違って――ものだったのかもしれません。
でも、それなら私はどうすれば良いのでしょう。自身の非にも気付かずに民を憎み、彼らを無知に貶め続けたこの私は。一体どうすれば罪を償うことができるのでしょう。
「あの、奥様?」
無言で涙を流す私を案じたのでしょう、女の子がおずおずと声を出しました。
「やっぱり、どこか……?」
「いいえ。何でもないの」
先ほどまできつくあたってしまったのに、この子はとても優しい子でした。そんなことも分からないほど、私は恐怖と憎しみに目を塞がれていたのです。
「本当に大丈夫。……さっきは怒鳴ったりしてごめんなさい。お花をありがとう。この方たちも喜ぶわ……」
早口に告げると、私は立ち上がりました。もうオーギュスト様たちに合わせる顔がないと、ここから逃げたいと思ったのです。でも、そんな私のドレスの裾を、女の子が掴んで引き止めました。
「でも、あの……一緒にお祈りしましょう? お花はたくさんの方が綺麗よ……」
「一緒……」
それはとても不思議な提案でした。貴族に生まれた私と平民の子供が、革命に殺された王と王妃のために祈るなんて。
「そうね……そうしましょうか」
けれど同時に素敵だわ、とも思えました。やり方は間違えてしまったけれど、貴族と民が手を取り合うことを夢見ていた人たちなのです。花よりも涙よりも。この光景こそが何よりの鎮魂になるのかもしれません。
長い長いお祈りに、女の子は付き合ってくれました。ふたりと――革命で亡くなった人たちに詫びて、また立ち上がっても良いと思えるまでに、とても時間が掛かってしまったのです。
「おうちは、遠いの?」
「近いです、奥様」
「そう。でも気をつけて」
「ありがとうございます」
別れ際に、女の子はおずおずと手を振りました。身分の違う者に対する別れの挨拶を知らないのでしょう。私が手を振り返すと、安心したように笑ってくれました。
「元気な赤ちゃんが、生まれますように」
女の子はそう言うと踵を返して駆け出しました。気をつけてと言ったのに、あれでは転んでしまうのではないでしょうか。
心配しながら――私の頬を、また涙が伝います。私は平民にこの子を殺されるかもしれないと恐れていたのに。いえ、そう思っている者もいるのでしょうけれど、ちゃんと祝福してくれる人もいるのです。悲しいこと嬉しいことに身分など関係ない、と。あの子が私に教えてくれました。
「……ありがとう」
聞こえないと分かっていても、感謝の言葉が自然と唇から溢れました。
一人で来た道を戻りながら、私の心は穏やかでした。
革命の一報を聞いて以来、このような気持ちになったのは初めてではないでしょうか。私はずっと怯え――不安を抱えて生きてきたのです。暴徒に襲われて殺されるという悪夢に追われ続けた恐怖は、罪を自覚した時のそれよりも遥かに大きく重いものだったのです。
でも、だからといって明日から私のやることが変わるということはありません。
今までだって民を虐げていた訳ではないのです。貴族との間に諍いがあれば調停するし、訴えを聞いた上で平民の方に利する裁定を下すこともありました。
涙の跡も、オーギュスト様たちを偲んで流したものと思われるだけでしょう。
人から見れば、私は何も変わらないはず。国を想う慈悲深い王妃。人が求める姿を演じ続けるだけです。
変わるのは、私の心の中。それもほんの少しだけ。
私の行いの全ては、ただ貴族の義務だからというわけではなく。僅かな身近な人を守るためのものでも、漠として顔の見えない民に怯えながらすることでもなく。
以前のように慈悲をかけるだけというのも違います。
過ちを償う気持ちも、もちろんあるけれどそれだけではなくて。
今度はもっとちゃんと――共に、歩いて行けるようにしたい。
祖国のため、とは形だけを考えることではありませんでした。権利を施すのも奪い取るのも。民を押さえつけるのも民に媚びるのも違います。
私たちは民のひとりひとりと向き合わなければならなかった。与えるだけで終わるのではなく、彼らが新たに手にした権利に奢らないように導くことが必要でした。共に祖国を担うことができるように。
それこそが貴族の務めでした。
気付くのがとても遅くなってしまいましたが、今度こそそれを見失ってはいけません。いいえ、きっと忘れないはず。民も貴族も、等しく同じ人間なのだと気づくことができたから。子供たちに渡す祖国の未来が、もう少し明るいものであるように手を携えることを学んでいかなければなりません。
お腹の中で赤ちゃんが動くのを感じました。そう、殺されないように、なんて寂しすぎる願いです。この子にはもっと世界を楽しいものだと思ってほしい。例えばさっきの女の子と共に遊び、学べるような。
しばらく歩いてからふと振り向くと、愛する人たちのお墓にふたつの花束が並んでいました。私が携えてきた絹のリボンで束ねたものと、女の子が捧げた野の花のものと。
それはまるで、異なる身分の者たちが共に過去を悼むかのような光景で。現在も――そして未来も。そのようにできるかもしれないと思わせるものでした。