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第9話 兄ちゃん、名前は?

「……お兄ちゃん。何してるの?」


「家計簿だよ。今後の生活に、いくら必要になるか計算しているんだ」


 食卓には、家賃の契約書と買い物の控え、それから俺の学費に関する書類が並んでいる。


 クリスタが公爵家から受け取る仕送りは毎月一万ゴルド。家賃が五千、食費や日用品がおよそ三千。


 差し引き二千ゴルドが残るし、妹の貯金もある。生活するだけなら、しばらく困ることはないだろう。


 実にありがたい話だ。妹の金で屋根のある家に住み、毎日温かい飯を食べられるのだから。


 問題は、俺の学費が半年分しか納付されていないことと、これから必要になる装備や訓練費である。


「……足りない?」


「今すぐではないんだが、このまま使い続けるわけにもいかないからな」


「……私が、出すよ?」


「ありがとう。だが、お前の金はなるべくお前のために使いたい。俺も少しは稼ぐことにするよ」


 クリスタの才能を伸ばし、仲間を集め、最終的には災厄竜《アポカリス》を倒す。そのために用意しておきたい魔道具や装備は山ほどある。


  妹の貯金を俺の学費で減らしている場合ではない。


「……お仕事?」


「あぁ、アルバイトだ。学校が終わってから、週に何日か働こうと思う」


「……私も行く」


「お前は授業と魔法の訓練があるだろう。夕方には帰るし、晩飯は俺が作るから」


「……毎日?」


「もちろん。仕事のない日は、いつもどおり一緒に過ごそう」


 しばらく俺の顔を見つめていたクリスタは、ようやく納得したように頷いた。どうやら、兄が働くことよりも、一緒に夕食を食べられなくなることのほうが心配だったらしい。


◇


 働き先については、すでに目星をつけている。


 俺に必要なのは給料だけじゃない。キリオス・マクレインという男は、魔法にも武術にも恵まれた才能を持っていないのだ。


 先日の決闘でも、クリスタがいなければ最初の一撃で倒されていただろう。


 だからこそ、限られた時間で何を身につけるかが重要になる。


 料理、木工、鉄工。この三つを同時に磨けて、しかも生活費を稼げる場所が、学園都市には一軒だけある。


 食堂『鍋底亭』。


 ゲームをやり込んだ人間なら、あの店の価値を知らないはずがない。序盤では安くて性能のいい料理を買えるし、店主バルドから受ける修繕依頼は、生産系の技術を習得するための定番だった。


 店の家具を直し、厨房の金具を交換し、最後には裏の作業場を借りられるようになる。俺も何度あそこで道具を作ったことか。


 もっとも、今の世界にクエストの受注画面はない。椅子を一脚直したからといって、突然木工が上達するわけでもないだろう。


 だから、働きながらバルドに教えてもらう。金を払って職人に弟子入りするより、よほど合理的じゃないか。


「クリスタ。今日はちょっと外で飯を食おう」


「……お兄ちゃんの料理じゃない?」


「あぁ。美味い店を知っているんだ。仕事の相談もしたいし、一緒に来てくれるか?」


「……うん」


◇


 商店街を一本外れた路地に、目当ての店はあった。


『鍋底亭』


 傾いた看板、油汚れのこびり付いた壁、歪んだ入口の扉。ゲームで見慣れた建物そのものだが、実物は想像以上に年季が入っている。


「……汚い」


「ははっ、見た目はな。でも、料理は保証するぞ」


 扉を開けると、肉を焼く香りと客たちの笑い声が飛び込んできた。


 席数は多くないが、仕事帰りらしい男たちがテーブルを囲み、酒を片手に料理を頬張っている。


 常連ばかりなのだろう。注文を告げる声にも、店主との遠慮がない。


「おう、親父! 煮込みをもう一皿!」


「食いすぎだ! あとでちゃんと払えよ!」


 厨房から返事をしたのは、大きな腹に髭面、油染みのある前掛けを身につけた男だった。


 バルドだ。


 五年間、画面越しに何度も会ってきた料理人が、目の前で大鍋をかき混ぜている。


 知っている人物ではあるが、実際に働く姿を見るのは妙に新鮮だった。


「いらっしゃい! 二人かい?」


「あぁ。肉の煮込みを二つ頼むよ」


「おう、任せとけ!」


 席につこうとすると、クリスタが椅子の脚を指差した。


「……これ、揺れる」


 確かに、腰を下ろすたびにガタガタと音がする。脚の接合部分が緩んでいるようだ。


 ゲームでも最初の修繕対象になっていた椅子だな。厨房の棚も傾いているし、扉の蝶番も怪しい。


 仕事の候補が、店中に転がっているじゃないか。


「ほらよ、お待ちどう!」


 運ばれてきた煮込み料理を一口食べると、思わず頬が緩んだ。


 角猪《ホーンボア》の肉はほろほろと崩れるほど柔らかく、香草と野菜の風味が濃厚なソースに溶け込んでいる。


 ゲームでは何百回も買った料理だが、味まではわからなかった。


「……おいしい」


「だろう? 俺もこの味は気に入ったよ」


 クリスタは夢中になってスプーンを運んでいる。その様子を見ているだけでも、連れてきた甲斐があったな。


◇


「親父、少しいいか?」


「おう。追加注文か?」


「いや、仕事の相談だ。夕方に働ける学生を探していないか?」


 バルドは俺とクリスタを見比べ、厨房へ目をやった。


「皿洗いも仕込みもできるなら助かるが、うちは忙しいぞ。お上品なお坊ちゃんに務まるかね?」


「そこは働きぶりで判断してくれ。料理は普段から作っているし、掃除や簡単な修理もできる」


「修理?」


「あそこの椅子、脚の接合部が緩んでいるだろう。あれくらいなら直せると思う」


 バルドは椅子を見たあと、にやりと笑った。


「言うねえ。だったら試しに直してみな。裏の物置に工具がある」


 よし。ここまでは予定どおりだ。


 物置には鋸や鑿《のみ》、金槌に鑢《やすり》、さらに小さな火床と金床まで揃っていた。


 ゲームではひとまとめの設備として扱われていたが、現物を見ると使い方のわからない工具も少なくない。


 椅子を裏返して接合部を調べ、緩んだ部分に合う木の楔《くさび》を削る。


 簡単な工作なら前世でもやったことはあるが、手元に適当な木片があるからといって、すぐに寸法が合うわけではない。


 一度削り直して、ようやく脚のぐらつきが収まった。


「親父、確認してくれないか?」


「どれどれ……おお、座れるじゃねえか。こいつは助かった!」


「応急処置だよ。ほかの接合部も傷んでいるから、時間をかけて直したほうがいい」


「そこまで見てくれたのか。兄ちゃん、名前は?」


「キリオス・マクレインだ」


 バルドは少しだけ眉を上げた。どうやら例の不正事件は、裏通りの食堂にまで届いているらしい。


「マクレインって、あの公爵家のか?」


「今は絶縁されている。だから自分で学費を稼ごうと思ってな」


「ふん。うちじゃ貴族かどうかなんて関係ねえよ。皿をちゃんと洗って、客に飯を出せりゃそれでいい」


 バルドは椅子をもう一度揺らし、満足そうに頷いた。


「時給は九十ゴルド。週に四日、夕方から三時間。最初は掃除と皿洗いだが、それでよけりゃ来な」


「あぁ、よろしく頼む」


「裏の道具も、壊さねえなら使っていい。ただし、火床を使うときは必ず声をかけろよ」


 願ってもない条件だ。時給九十ゴルドなら月に四千ゴルド余りになるし、訓練に必要な設備も確保できる。


 もっとも、ここでの本当の収穫は給料よりも、バルドから学べる技術のほうだろう。


◇


 アルバイトを始めて一週間が経った。


「キリオス! その皿を片付けたら肉を切ってくれ!」


「あぁ、任せろ!」


 最初は掃除と皿洗いばかりだったが、最近は食材の下処理も任されるようになってきた。


 バルドの仕事は早く、鍋を見ながら客の注文を聞き、俺の手元まで確認している。


「おい、そこは繊維を断つように切れ。煮込んだときの柔らかさが違うんだ」


「なるほど。じゃあ、この向きか?」


「そうだ。いいぞ!」


 ゲームでは完成品に能力補正が付くだけだった料理にも、こうして一つひとつ理由のある手順が存在している。


 しかも、この店は調理器具も厨房設備も古い。仕事の合間に緩んだ棚を直し、休みの日にはバルドに金具の加工を教わっている。


「親父、この蝶番《ちょうつがい》はそのまま叩いても直らないんじゃないか?」


「よく見ろ。こっちの穴が広がってるだろ。まずは金具を外して、固定する場所を変えるんだよ」


「おぉ、なるほど!」


 知識のある場所を選んだつもりだったが、実際に手を動かしてみると知らないことばかりだ。


 ゲームでは製作ボタン一つで済んだ作業も、木目や金属の厚さを見誤れば簡単に失敗する。


 それでも、一度直した棚がきちんと使われているのを見るのは、なかなか気分がいい。


「おう、キリオス! 今日もありがとな。まかない食って帰れよ!」


「あぁ。いただくよ」


 バルドが差し出したのは、余った食材で作った肉と野菜の炒め物だった。


 これがまた、美味い。厨房で毎日味を確かめられるのも、俺にとっては大きな勉強だ。


 ただ、まかないはありがたいが、家ではクリスタが待っている。腹いっぱい食べて帰って、妹の夕食に付き合えなくなるのも困るな。


◇


「……お兄ちゃん。おかえり」


「ただいま、クリスタ。遅くなってすまなかったな」


 帰宅すると、クリスタが玄関で待っていた。俺を見るなり袖を掴み、そのまま台所までついてくる。


「……お仕事、どうだった?」


「あぁ、楽しかったよ。今日は棚の金具を直したんだ。バルドに教えてもらったおかげで、少しだけ加工のコツがわかってきた」


「……すごい」


「いやいや、まだまだだよ。今度は簡単な道具くらい、自分で作ってみたいものだな」


 手を洗い、夕食の準備を始める。店で料理を習っているおかげで、包丁の使い方も以前より少し上達した気がする。


「……お兄ちゃん。明日も、お仕事?」


「あぁ。でも明後日は休みだから、一緒に買い物に行こうか」


「……うん!」


 クリスタが嬉しそうに頷いた。


 料理に木工、鉄工。今の俺に必要な技術を学べるうえに、学費の足しになる給料までもらえる。『鍋底亭』は、やはり理想的なアルバイト先だった。


 ゲームの知識を使って選んだ場所だが、実際に働き、失敗しながら覚えることまでは攻略サイトには載っていない。まあ、それも含めて楽しめばいいだろう。


「クリスタ。今日は何が食べたい?」


「……お肉」


「よし。バルドに教わった焼き方を試してみるか」


「……楽しみ」


 嬉しそうに微笑む妹を見て、俺も自然と笑ってしまった。


 妹の仕送りで暮らす生活も悪くはないが、自分の稼ぎで食材を買って、妹に美味い飯を作ってやるというのも、なかなかいいものだな。

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