全知全能と悪道の先で
周囲を埋め尽くす、泥の人形……ディーの、複製体。一対一でさえ、強敵として立ち塞がっていたその黒泥を、今度は数え切れない程相手にしなければならなくなった。
「状況は、絶望……」
しかし、そうして追い込まれた老人は……笑みを、浮かべていた。
「という程ではありませんねぇ!?」
狂笑。杖を剣の如く振るった老人は、自身に迫っていた無数の泥の人形たちを一息に切り裂いた。舞い散る泥は、その身に宿っていた再生能力を以ってしても蘇ることは出来ない。
「やはり……見掛け倒し、というよりも劣化複製体といったところですな」
「だが、だとしても……数的な不利が生じていることに変わりはない、だろう」
ディーの言葉に、老人はやはり愉し気な笑みを返すだけだ。
「あぁ、しかし……本体に近い性能の複製体を作り上げていたことも事実か」
「早く、沈め……」
泥の濁流から、泥の人形が沸き上がる。次々に、次々に……湧き上がっては、飛び掛かる。襲い掛かる。
「劣化の複製と言えども、ただのゴーレム程度の力は持っていると思った方が良さそうですなッ!」
無限のように湧いて来る泥の人形。腕を掴まれれば、そのまま握り潰されるくらいには考えておいた方が良い、そう老人は結論付けて杖を振るい、油断なく泥の人形を処理し続ける。
「忘れて、いるか」
「ッ!!」
ディーの言葉が響くと同時に、泥の濁流が全方向から老人へと襲い掛かった。逃げ場は、最早上にしか存在しない。
「……これ、は」
罠。明らかな、罠だ。しかし、活路は。
「舐められたものですなぁッ!」
老人が杖を振るい、白い光の刃が泥の濁流を切り裂いていく。当然、そこに飛び込んで来る無数の泥の人形たちを、老人はしかし全て捌きながら、道を切り開いていき……足元の地面から、どろりと泥が溢れ出して老いた脚を捉えた。
「しかし、その程度……」
魔力を籠めて泥を蹴り付け、張り付く泥から逃れようと……してから、気付いた。
「な、ん……」
張り付いた泥が、どろりと手の形に変わって老人の足を掴んだ。
「気配を、泥の中に――――」
そして、ずぶりと老人の足の内側へと浸透した。
「が、ぁァ……ッ!?」
「終わり、だ。な」
終焉を確信し、老人の体内を侵蝕し、精神を蹂躙しようとする黒泥。老人は目を見開き、だがその目は絶望に染まってはいなかった。
「ま、だ……ですよォッ!!」
宙を舞う。黒泥が、鮮血が、老人の、片足が。
「うぉおおおおおおおおおおッッ!!!」
突き出された杖の刃。魔力の撹拌の効果を持つそれは、黒泥……ディーには致命的。まともに食らえば動きが麻痺し、鬼気迫る今の老人ならばその間に殺し切られてしまうだろう。
「残念、だった」
「な、ぁ……」
キィン、呆気なく音を立てて、杖の刃は弾かれた。老人は杖の先を呆然と見下ろし、それから貫けた筈のディーの胸を見た。
「あぁ。残念、だ。あまり、力は全て……見せないように、と」
鎧。いや、違う。鱗だ。黒い衣を貫いた先には、爬虫類を思わせるような、鱗が……いや、そんな矮小なものでは決してないだろう。
「その、つもりだったが」
あぁ、きっと。アレは竜だ。竜の鱗だ。それ以外に、有り得ないだろう。何故なら、老人はそんな鱗を長い人生の中で見たことも無かったから。
「泥の、竜……」
「竜でも、人でも無い」
ずぶり、と。下半身を既に泥の濁流に捕らえられていた老人の胸を、黒い泥の腕が貫いた。浸透した。
「私は泥だ。我は罰だ。あらゆる生命の、根源だ。竜も人も、その一面に、過ぎない」
「ぁ、ァ……」
泥が老人の体の中を満たしていく。罪が、罰が、老人の精神を満たしていく。蝕んでいく。侵していく。
「むく、ぃ……か……」
長く生きた人生だ。数え切れぬ罪を犯し、それを躊躇うことも次第に忘れ、そこかしこに蔓延る悪に慣れて、己も染まり、エゴを追い求めることを命題とした。
「あぁ、そうだ。報い、だ」
他者を顧みず、己の望みの為に悪を為してきた。その人生には、報いが与えられるべきなのだ。良きモノにも、悪しきモノにも報いは与えられるべきなのだ、と黒き泥は考える。ただ、この老人への報いは……罰であったというだけで。
「お前は、生きていられるか……私は、知らない。報いに耐えられないことも、また報いだ。耐えられたとて、心が砕けていないかも、知らん」
「……ぇェ」
「だが、まだ砕けずに居られたならば……必ず、善の道を歩めよ。悪の道の先には、私が立っている」
「」
目を見開いたままの老人の瞳孔から、光が失われた。ばたりと泥の中に倒れ、沈んでいく。未だ、命が失われた訳では無い。己の中の罪との戦いが、始まったのだ。




