全知全能と泥沼の底
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落ちていく。落ちて行け。堕ちて行け、泥の沼の底の底に。
「誰も、彼も」
罪を持つ物は皆、泥の沼に沈んでしまえば良い。
「これは裁きだ。お前達への、罰だ」
あぁ、どうしようもない。誰にも、どうしようもない。悪はそれには逆らえないのだ。自分の中に在る罪、そのどうしようもない事実には、逆らえない。否定のしようも無いから、心の中に在るそれは、既に己が認めてしまっているものだから。
「沈め、沈め。堕ちろ、堕ちろ」
だから、抗えない。当然の罰を、必然の報いを受けているだけなのだ。誰もがそう思っているからこそ、罪を罪だと知ってしまっているからこそ、己の悪を認めてしまっているからこそ、その罰はすんなりと深くまで浸透してしまうのだ。黒く濁った泥が心の隅へと入り込んでしまうのだ。
「いやはや、驚きましたよ」
だが、それはただの人に限っての話だ。魔術という超常の力を会得しても尚、人は人でしかない。それを否定出来るような自信と、実力を持ち合わせている……人を外れたものにとっては意味が無い。
「いやぁ、魔術士で本当に良かった! 私が!」
老人。そうとしか形容できない容姿の男は、だがしかし誰よりも若々しい感情を露わにしていた。
「ここで貴方に出会えたことは、望外の喜び……! 魔術の徒に堕ちて正解だった……堕ちて堕ちて堕ちて、沈みに沈んだことが正しかったと証明された……!」
白髪を揺らし、狂喜に表情を歪ませる。人外。
「人の如く、物を語り……だが、どう足掻いても人では無い人外! そう、貴方はキメラ……いや、生命の域と認めることすら怪しい。そう、そうでしょう。貴方は、正にそう……」
老人の身を覆う、黒い服が風に揺らぐ。
「土の傀儡。泥の人形……ゴーレムだ!」
黙って、ただ睨み付けるようにして老人を見ていた黒泥の、ディーの目が僅かに揺れた。
「ククッ、図星と言ったところでしょうな。いえ、何も語らず結構。貴方の反応を見て確信したという訳でも無く、元より確信を持って放った言葉。私の渾身の考察……否定せずに結構。何を言われても揺らぎはしませんのでね」
「……なんだ、お前は」
ディーの言葉に、老人は何も返さず。ただ、無視したまま何度も頷いた。
「ということは、やはり……貴方は、復讐者でも何でも無かった訳でしょう」
そして紡がれた老人の言葉に、態度に、ディーは怒りの気配を僅かに滲ませた。
「結局は、誰かの走狗であったと。まぁ、そういう訳ですね」
「なんだ、お前は」
泥を自らの周囲に生み出し、そして老人へ向かわせようとするディーだったが、老人は手を出してそれを止めた。
「あ、そう。聞かれておりました。私も齢七十にはなれど、未だ耳まで枯れておるわけではありませんので……忘れぬ内にお答えいたしましょうか」
「……」
老人が口を開く。瞬間、ディーの足元から半径五メートル程が纏めて吹き飛ばされた。
「――――私、京の都より参りました。魔術士でございます。通り名は、閃影と」
しかし、黒泥の影は土煙の中より現れた。その程度の威力では、ディーを滅ぼすことなどは出来ない。
「そう、かつては呼ばれておりましたな。ま、今となっては名前負けどころかその要素すら片隅に残る程度となってしまった訳でございますが」
それに動揺も覚えた様子も無く、さも当然のように動き出す人影を目で捉えながら、懲りずに滔々としゃべり続ける老人。
「あぁ、それに、京の都より参って言いましても、実は生まれは滋賀にございまして。そこから広島、山口と転々として今は京の都に腰を据えているという次第で――――」
「いい加減に、その減らない口を、閉じろ。老人」
迸った泥の刃が、老人の肩を貫いて行った。
かに、思えた。
老人はその身と年齢にそぐわぬ動きで、紙一重泥の刃を躱していた。
「おっと、老体には優しくしろと習いませんでしたかな? 貴方の主人には」
「それよりも、私は悪人に優しくない、だけだ」
一瞬で距離を詰めたディーの腕が伸びるのを、老人は躱し、そしてどこからともなく取り出していた杖をディーに振るう。それは、魔術用の杖というよりもただの老人用の補助杖にしか見えなかったが、先端に閃く刃にディーは気付いていた。
「おっと、本来なら土を被せてもう少しは分かりにくいようにするんですが、忘れておりました。失敬」
「関係、ない。当たった、ところで……」
続けて突き出される杖の刃に、ディーは自ら飛び込んで……泥の肉体を変形させて避けながら、老人へと襲い掛かる。
「それは、どうですかな?」
「ッ!?」
突き出された杖は、そのまま横に薙がれる。刃は泥をかき分け、弾き飛ばし……ディーは目を見開いた。
「ッ……!」
己の身に走った、電撃の如き麻痺……眩暈、ふらつき。その正体は、魔力の撹拌。魔術によって作られた生物であるディーには、その力が深く響いていた。




