全知全能と満ち足りる苦悶
泥が流れ込む。次々に、悪党の心の内側へと入り込む。
「あ、が……ッ!」
「ぅ、く……ッ」
「や、ゃめろぉ……!」
悶え、苦しめ。お前が苦しめた者の分まで、積み上げた罪の数だけ、罰を受けろ。煩悶の黒泥は、次々に悪を襲い、罰を与えては去って行く。二度と、悪事など働けなくなるように。
「次、だ」
次々に、次々に。裁いて行く。報いを与えていく。罰を下していく。穢れの塊とでも呼ぶべき泥のその身が持つ権能と使命、それが浄化であることは皮肉か、宿命か。
「次……」
一つ、二つ、三つ。腕利きの魔術士を揃えたと自負していた組織が、次々に葬られていく。たったの一人も死者は出せずに、ただ戦意だけを削がれていく。悪意だけが溶かされていく。
「次、は……」
ぎょろりと、半分が泥に溶けた目を向けた執行者は、それを見ることになった。
「――――そこまでだ」
真剣な表情で言い放った、黒い衣の男。彼は、泥と目を合わせるとにこりと笑みを浮かべた。
「怪物が出ただの、復讐者がどうだの、正義がなんだと喧しくて仕方なかったんだ。それが、まさか君のような……若い子だとは思わなかったよ。少年? 少女? そう呼ぶには、少し過ぎているか」
男は、その手を上向けに広げると闇に染まった魔力を蓮華の如く咲かせた。それは魔力操作の練度の高さを見せるものであり、つまりは脅迫であった。
「君は、どうかな。ウチに来ないか? そうでないと、君を殺すことになってしまうんだ」
「悪、め」
しかし、泥はその言葉を、その様を嫌悪するように睨み付けた。
「悪め。忌まわしい、忌々しい……悪党め、が」
泥の吐き捨てた言葉を、男はふっと嘲笑した。
「悪党とは、随分な物言いだ。私は、裏の世界を管理しているだけだよ。悪には悪の世界がある。私のような上位者が居なければ、街の裏側は下らない小悪党で溢れてしまう。それを、私は防いでいるんだよ」
「嘘吐き、め。私には、見えるぞ……お前の、悪が。どす黒い、邪悪の心が。あぁ、殺したのか。罪のない子供を。蹴りつけて、殺したな。蹴りつけて、踏みつけて、殺したな。良くも、良くも、良くも、よくもよくもよくもよくも…………ッ!!!」
泥が、溢れ出す。黒泥が、滲んで、溢れて、濁流と化して……
「これは……ッ! なるほど、中々にマズい相手らしい……!」
黒衣の男は魔力を利用して地を蹴って、宙を舞っては泥の波を避けていく。街から少し外れた場所に、ぽつんと建った三階建ての施設。地下まで広がる施設のその前を、泥の濁流が駆け抜けていく。道路を汚し、男を追いかける。
しかし、男は施設の屋上へと飛び乗ることで泥の濁流を回避して、黒泥を見下ろした。
「『闇華集中』」
男の背に闇の魔力が集まり、無数の花弁が折り重なるようにして一つの華の形を成した。その華の中心に魔力が凝縮し、ギラリと紫色の光が溢れ出す。
「捉えた」
闇の華から、紫の光線が迸った。人の腕程の太さの光線は言葉通りに泥の執行者を捉えたかと思えたが、その胸に開いた穴を紫の光線は通り抜けているだけであった。
「泥の体……一体、どんな魔術だ」
忌まわし気に眉を顰めた男。その背後に、影が立つ。どろりと、粘着質な音を立てたので男は反射的に振り返った。
「な……ッ!?」
そこには、さっき見たのと同じ黒き泥の執行者が。裁きを下す審判者が、無感情な黒い眼で男を見つめて立っていた。
「転移、いや、それにしては魔力を……」
「考えている暇、があるのか?」
泥の人型。その腕が泥と化して変形し、刃と化す。金属製の刃というには、どこか生物的に見えるそれは、月の光を受けて鈍い輝きを返しながら男に振り下ろされる。
「ッ!!」
死者は居ないと聞いていた。だが、振るわれるその攻撃には確実に殺意が乗っていた。
「償え」
「ッ、何を償えば良いのか……分からないな。心当たりが多過ぎて、な」
にやりと笑った男。踏み込んで来た泥の執行者が、仕掛けられていた魔術の罠を踏みつけて足元から爆ぜる。跡形もなく飛び散った。そう、確信して笑みを深めた瞬間。
「――――全て、だ」
殺した筈の、黒泥がそこに立っていた。被っていたフードを脱ぎ去ったその姿は中性的で、美しく、その背で銀色に輝く月が似合っていた。
「全て、償え。覚えている限りを、忘れ去った罪も。全てを、ここで償え」
「何を……ッ」
「蹲え」
施設の屋上まで昇って来た泥の濁流が、男の足を奪ってそこに跪かせた。
「償え。償って、償って……罰を受け、耐え切れなければ、死ね」
「が、ァッ」
黒き泥が、男の耳から鼻から、口から……全身から入り込み、その内側を心の隅まで苦悶で満たした。




