全知全能と冷えた月
美しい月は、恐ろしいまでに冷え切っていた。夏へと移り行く中で暖かくなる筈の空気も、今日は凍て付いているようにすら感じる。
「……なんか、寒過ぎやしねぇか」
「だな。エアコン消してくれ」
それはきっと、やましい心情を隠し持つ悪党だけであっただろう。胸を張って正道を歩ける者であれば、夜空の下であれど、凍えるようなことはきっと無かった。
「おまえたち、だから……ダ」
影が、そこに立ち昇っていた。事務所の壁に染み付いたように、黒い影がそこに立ち尽くしていた。
「なに、を……」
「何なんだッ、敵の襲撃か……!? それに、お前達だからってのは……」
黒い影を見つけて、泥が闇と混ざって立っているのを、男達は居ても立っても居られずに、総毛立った心の弱音のままに、構えて叫んだ。
「あぁ、お前達。だから。だカラ、あァ……ん、少し……もっどす、か?」
影が、あぶくがたった闇の泥が、人の姿を僅かに取り戻した。顔が見えない。黒いフードを、いや、泥と影の混じり合ったようなそれを被り、纏っているのだ。
「我、は……私は、ディー」
泥は、意外な程に端的に名を名乗り、そして闇の覆いを少しだけ外して顔も見せた。
「顔にも、名前にも、お前達には……意味は、無い。好きなだけ、見ろ。見て、そして……これが終わった後には、忘れて良い。お前達が、覚えているのは……」
泥が、足元からぶくぶくと煮え立つように、湧き上がる。
「――――ただ、己の罪だけだ。それ以外は、許されない」
誰もが動けない。声も出せない威圧感。その頃には既に、泥が男どもの目の中へと、口の中へと、耳の中へと入り込んでいた。黒泥がずぶり、ずぶりと。
「ァ、あぁッ……!?」
その頃には、もう遅い。見開かれた目も、震える口もそのままで、塞がることは無い。震えは全身に広がって、男は痙攣し、涙がその人生分全てを出し切っているくらいに、滂沱の如く零れ落ちていく。
「ふざけんじゃねぇぞ……おれの事務所で、好きにやってんじゃねェ」
事務所の扉が乱暴に開かれ、そこから目つきの悪い大男が現れた。ジャラジャラと金や銀の指輪に腕輪を身に付けた男は、この惨状を生み出しているらしいその泥を睨み付ける。全身に充ち溢れんばかりに纏った魔力は、そしてその身に装飾品と共に身に付けた魔道具は、確かに大男の心身を護っていた。
「好きに勝手にやっていいのは、おれだけなんだよ……テメェじゃ、ねッ!?」
だが、それだけだ。気化した泥を吸い込んでも無事で、また泥への強い恐怖を抱かずに済んでいたとして、それがどうした。
影の様な泥は大男の首を掴み、軽々しく持ち上げた。
目を見開いた大男は慌てて抵抗し始め、己の首から引き剥がす為に泥の腕を掴み返してやろうとするが、その泥の腕に触れた途端に大男は凄まじい熱と痛みを味わい、勢いよく手を引いた。
「な、なぁ……ッ!?」
「それが、お前の……罪の、痛みだ。お前が与えた、痛みだ。お前が受けるべき、罪の罰だ。熱だ。痛みだ。苦しめ、悶えろ。悩め、向き合え。お前の罪と、罰に」
「何を言ってんだか、分かんねェ、なぁ……!」
大男は魔力を籠めた拳を憎い目の前の敵の腕へと振るい、叩くことで拘束を解こうとして……思わぬ形で、それは成功した。
闇と泥の混じり合ったそれを纏う、男か女かも分からぬ、恐らくは人であろうと言うそれの腕が、正に泥のようにどろりと溶けて、男の腕は擦り抜けていった。それ故に、首を掴んでいた拘束というのも同時に解けて、男は直ぐにその場を跳び退いた。
「舐めるなよォ……ッ! おれが、ただデカいだけだとでも思ったかァ!?」
男は腕を真っ直ぐに伸ばし、そこに魔法陣を開いて見せた。放たれる魔術は、炎だ。大男の得意魔術であるが故の選択であったが、幸運にも泥の体を持つ相手にとっては弱点の一個とも言えなくないものであった。
「『暴焔火球』」
それは、大して優れた魔術とは言えなかったが、確かに大男の切り札と呼べる程に研鑽され、使い慣れ、そして十分な威力を誇る魔術であった。
燃え盛る炎が、球形を成して紅蓮の魔法陣から放たれる。冷えた空気を焼き尽くしながら、進んで行く魔術の火球。それでも消えてはくれない冷たさに、大男は僅かに身を縮めさせて……そして、身も心も、底の底まで凍り付いた。
「覚えて、いろ……忘れる、な」
そこには、自慢の火球を正面から受けて、全くの無傷である怪物が立っていたからだ。
「ひ、ぁ……ぉ!?」
恐怖。寒さの正体を漸く思い知った男は、どろりと溶けた腕が顔を覆って、耳から口から鼻から入り込んでいくのを見た。いや、それを見ていた目からも無理やりに泥は入り込み、男の恐怖は頂点にまで達した。だが、気を失ったその先で待っているものこそ……真の地獄で、彼に与えられる本当の罰なのだ。
「我は、ディーだ。罪に、罰を与える者。お前たちのような、悪を。私は、今から残らず……待て、そうだ。もう、誰も聞けてはいないか」
主から預かった命令である、名乗りと目的の開示といった部分を、ディーは万全に果たせたとは言えなかった。
「……まだ、次がある」
だが、ディーには幸いにも取り返す機会があるのだった。そして、それはそれから直ぐのことになるだろう。




