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雲の上のキューピット

「ハッピー、バースデー、トゥーユー」

 いきなり聞こえてきた大きな歌声。いつものことながら、彼のハイテンションぶりには感心する。

「お前、今日でいくつになったんだっけ?」

 最後まで歌いきったPは、どうでもいいような質問をしてきた。

「だれにも言わないと約束してくれれば、教えてやってもいい」

 他愛ないジョークに、Pは声を立てて笑った。

「確かに他人には言いたくないよな、この歳になると」それから、急にまじめな口調になった。「うちの会長、今でも言っているぞ。勉強する気があるのなら、費用は全部出す。いつでもいいから出ておいでって」

 僕はポテトチップスをつまみながら答えた。

「まだそんなことを言ってんの、あの爺さん。俺、何度も断ったぞ。映像の世界に未練はございませんって」

「お前なぁ」Pが呆れたような声で言った。「会長に向かって、爺さんはないだろう」

 確かに彼の言う通りだ。でも、そう呼んでほしいと言い出したのは会長だった。

「ところでさぁ」Pは口調を変えた。「何か面白い話があったら教えてくれよ」

 数年前までは、毎日のように連絡を取り合っていた。だがここ数年は、時候の挨拶程度。と言っても、仲が悪くなったわけではない。

 僕の頭の中の地殻変動が落ち着くまでは、それに関する話には触れないように、という暗黙の了解があったからだ。

 でも、そろそろ、それをやめてもいいのかもしれない。地殻変動が終わったかどうかは分からないが、解禁の時期がきているようだ。

「面白いかどうかわからないけど」

 僕はそう言ってから、あの話をすることにした。

「実をいうと俺の頭の中には、ドーム状のスクリーンが現れるんだ。直径は無限大。そこに映しだされるのは、4Kなんか相手にならない超リアル映像。音響だって、ドルビーデジタルのはるか上を行く」 

 反応をみるために、そこで話を止めて「と言ったら、信じる?」と言った。

「信じるもなにも、それを予言したのは、この俺だぞ。俺が言っていた断片話が、お前には映像として見えるようになっただけのことだよ」

 すかさず食らいついてきたことに嬉しくなった。この日が来るのを待ち焦がれていたのは、僕だけではなかったようだ。

「映像のオンオフも、自由にコントロールできるんだ」説明の声がつい弾んでしまう。「目を閉じて深呼吸を七回繰り返すと映像が現れて、目を閉じると映像は消える。新しい映像を見たいときは、その映像を文章にして、最後に「了」を添えるだけでいいんだ。同じ手順を踏めば、新しい映像が次々に現れる」

「そりゃ、お手軽で、エコなシステムだな」Pは合いの手を入れるように言った。「でもそのたびに、お前の頭の中にはどでかいドームが出現するんだろ。そのうち近所からクレームがくるぞ。ブラックホールの向こうまではじき飛ばされたやつが、帰りのタクシー代をよこせと言ってきたら、どうする。それだけでも天文学的な金額になるぞ」

 冗談だとわかっていたが、僕は真面目に答えた。

「いやいや、そんなことはない。安全安心。人畜無害。ほら、俺たち、よく脳裏に映像が浮かぶだろう。あの変形版だと思うんだ。お前も試してみろよ」

「了解、わかった。どうやってアクセスするんだったっけ。すまないけど、もう一度言ってくれ」

 Pの偉いところは、自分で、これだ、と思ったことは、すぐ試すところだ。

 しかし、彼には僕と同じ現象は起きなかったらしい。

「残念ながら、俺の中には映画館なんてものは、なさそうだな」

 諦めたような口調でいう彼に、僕はこう言った。

「ひとりひとりの指紋の模様が違うように、自分の映画館へのアクセス方法も違うと思うんだ。腹式呼吸三十八回目に現れるかもしれないし、百八回目かもしれない。くしゃみ七回でアクセスできるかもしれない」

「ああ、わかった。今度やってみるよ」短い言葉で前向きな返事をしたPは、話を少し変えた。「で、一体、どんな映像が流れるんだ」

 やはり映像をやっていたからだろう。声のトーンがすこしだけ高くなった。電話の向こうで身を乗り出す気配がした。少し迷ったが、現状から話すことにした。

「実を言うと、三日前に故障したんだ」

「故障?」

 Pの声が低くなった。

「ああ、そうなんだ。何も映らなくなった」

 誰に話しても、解決方法は見つからないと思いながらも、状況を説明した。

「これまでも、焦点がぼやけたり、映像が反転することが何回かあったんだけど、今回みたいなことは初めて。どこを見ても真っ黒。何も聞こえない。まるで宇宙の端っこにはじき飛ばされたみたい。もうお手上げ」

「ふーん、そりゃ、お気の毒」

 まさか、こんな無責任な言葉が返って来るとは思わなかった。

 俺の話を冗談だと思っているんじゃないだろうな。どう考えても、ここは、なぐさめの言葉だろう。

そんなことを頭の隅で思っている僕に、Pが言った。

「今お前が言った映像は、暗黒星雲の中を突き進む宇宙船の窓から見えている景色なんじゃないのかな?」

 考えたこともなかった。まさかと思ったが、試すことにした。

 さすがはP。彼の言った通りだった。

 真っ暗で何も見えない画面の隅々を、目を凝らして見つづけていた僕の網膜に、映しだされたのは、画面右下からゆっくりと姿を現した渦巻き型星雲の映像だった。(後で調べてみると、真っ黒い映像に切り替わってから、星雲が見えるまでの時間は二分十六秒。僕が故障だと思ったその二分十六秒間は、宇宙の広さをわかってもらうための映像表現のようだった)

 頭の中の映像は、すべて一分未満だと思い込んでいた自分に腹が立つと同時に、Pという男の存在に感謝した。

「すごいな、お前」

 興奮のあまり、次の言葉が出てこない僕に、Pは落ち着き払った声で言った。

「そんなことはない。お前が状況をしっかり把握していたからだよ。お前の、宇宙の端っこが、ヒントになっただけのことさ」それだけ言うと、次の質問に移った。「ところで、これまで、どんな映像が見えていたわけ?」

「ジャンルは色々。でも、完全な映画は一本だけだった。そのあとの奴は、全部短い」

「短いって、どれくらい?」

「最短三秒。最長一分。平均すると二十秒。何十本かの映画のフィルムをはさみでバラバラにしたあと、空中に放り投げてシャッフルしたやつを、手当たり次第に再生しているって感じかな」

「そんな不完全なものを見て、何が面白いんだ」

 良い質問だ。

「確かにそう思うよな、大抵の人は。でも、俺自身は満足している。次にどんな映像が出てくるのか、毎日ワクワクしながら暮らしている」僕はそこで一息入れてからつづけた。「暮らしているといえば、毎日その映像を文章に書き直しているところなんだ」

「お前が?」

 僕の顔に苦笑いが浮かんだのは、短い言葉の中に、文章力のないお前に、そんなことができるのかな。というニュアンスが表れていたからだろう。

「訂正する。文章にはほど遠い。シナリオと言うより、ト書き。でも、なるべく詳しく書くようにしているんだ」

「どうして?」

「手を抜くと、どの文章が、どの作品のどの部分だったのかさえも、分からなくなるからだよ」

「素朴な質問をしてもいいか」改まった口調でPが言った。

「映像以上に情報量の詰まった媒体はないはずだぞ。前後の繋がりを別にすれば、例え映像が三秒だったとしても、登場人物の人相とか、服装とか、仕種を、作品ごとに分類するのはわけないだろう」

 Pの真剣さに改めて嬉しくなった。僕とPの関係は、まったく変わっていない。

 今も、僕の不完全な話にでてくる言葉の一つ一つを、彼なりに組み立て直しながら聞いている。彼独特の指摘は、僕の説明に不足している部分を引き出すため。当然僕としても、説明に力が入る。

「ところが一度現れた映像は、二度と現れないんだ。俺の記憶からも消えるからな。手許に残った文章から、その時のシーンを想像するしかないんだ。

 たとえば(男は気のない仕種で、自分の足元を眺める)これだけだったら、男の性格も、顔つきも、年齢も、ヘヤースタイルも服装も、口うるさいのか、おとなしいのか、どんな場所にいたのかさえも分からないだろう。お前の言うとおりだ。映像には情報量が多すぎる。どこをどう書いて、どこをどう省けばよいのか、まったく分からない」

 Pはそれには反応しなかった。三十秒ほど黙り込んでから質問したのは、僕の文章力ではどうにもならないことに気づいたからに違いない。

「で、どれくらいあるんだ。文章に直したシーンというのは」

 パソコンには40×40の設定で170ページほど保存してあるが、そのほとんどが、一行にも満たないメモ程度のもの。

 その中で、印象に残っているものを彼に伝えた。

 

 化け猫に女房をとられそうになって、あわてふためく亭主。

 空中に真っ白い壺を浮かべる女。

 四億円の宝くじを当てた男と、それをつけまわす怪しげな集団。

 とっくの昔に死んだ亭主を待ち続けるシュークリーム屋の老婆。

 プリーズプリーズミーと東京五輪音頭を、連続で流してくれとリクエストする高校生。

 人類が絶滅した数万年後の地球に現れた美少女。

 自分とまったく同じ名前の女の子と出会った女経営者。

 暗闇に潜む巨大な白うさぎ。

 宙ぶらりんの世界に住む女。

 

 それを聞いた最初の質問は「お前の夢が反映されたのは、現れないの?」だった。

「たとえば?」

「水着の巨乳アイドルといちゃつくとか、サバイバルナイフひとつでジャングルをさまよい歩くとか、そういうやつだよ。お前にも体験してみたいことが、いっぱいあるだろ」

 それは、お前の夢だろう、と返そうかと思ったが、かねがね疑問に思っていたことを口にすることにした。

「残念ながら俺の願望が映像として現れたことはない。でも、不思議なことに、どれも、遠い昔、夢で見たような気がするんだ」

 十数秒ほどの沈黙の後、Pは言った。

「遠い昔って、いつ頃?」

「幼稚園に上がる前」

 再び長い沈黙。

「最初の映像が、現れたのは?」

「東京に招待された帰りの飛行機の中」

「つまり、うちの会長と会った直後というわけだ」

 今度の返事が早かったのは、僕の頭の中の映画館と、東京での三日間との間に、何か関係があると、P自身も考えていたからだろう。

「実を言うと、あの時受けたショックが、きっかけになったと思っているんだ」

 そんな前置きをしてから、以前から思っていたことをまとめて喋った。

「なにしろ初体験の連続だったからな。モデルみたいなお姉ちゃん二人に付き添われて羽田まで。映画でしか見たことがないロールスロイスにも乗せてもらった。超高層ビルの最上階のおんぼろ屋敷も拝ませてもらった。売れっ子芸者たちのじゃんけん大会にも参加できた。プロジェクトEDOの存在も知った。自分では気づかなかったけど、どれも刺激が強すぎて、脳の一部が腸閉塞みたいになっていたんだよ。それが帰りの飛行機の中で、」

「はい、質問」いきなりPが話を止めた。「簡単でいい。最初に現れたやつのストーリーを、教えてくれ」

 粗筋を言おうとしたが、出てこなかった。断片映像の文章化で、頭の中がごちゃごちゃになっていたからかもしれない。

「四文字熟語で言えば、荒唐無稽、あるいは支離滅裂ってところ」

「おいおい」と彼は言った。「それだけじゃ何もわからないだろ」

「それも、そうだな」

 と言ったものの、出だしの文章さえ思い出せなかった。

 こうなれば、読んでもらった方が早い。

「それだったら、インターネットでいつでも読めるよ」

「あのさ」携帯の向こうから怪訝そうな声が聞こえてきた。「今、インターネットって言わなかったか?」

「言ったよ」と僕は答えた。そして少しだけ内容を変えて話した。

「詳しいことは抜きにして言うけど。神社で出会った人に、ヘタな作文でもいいんです。読んだ人に、これくらいだったら私にも書けるという自信を与えることができます。ネットに出せるレベルじゃないことはわかっていたけど、その人の思いを受け止めてアップすることにしたんだ」

 その人って、女か? と訊かれたら、彼女と出会ったあの日のことを詳しく話そうと思っていたのだが、そんな様子は微塵もなかった。

「水くさいな、お前。真っ先に俺に見せるのが筋なんじゃないの。親友としてさ」

 拗ねたような口調で、そう言っただけだった。

「別に秘密にしていたわけじゃないんだ」僕はぬるくなったコーラを一口飲んだ。「まさかお前が、俺の作文に興味を示すなんて思ってもいなかったもんでね」

 本当にそう思っていた。

「それは昔の俺だよ」Pはため息交じりに言うと、気を取り直したように、声のトーンを上げた。「まっ、それはいいとして、タイトル教えてくれよ。検索してみるからさ」

「笑うなよ」

 と釘をさしてから、タイトル名を告げたのにも関わらず、Pはむせたように咳き込んでから、タイトルに対する感想を述べた。

「雲の上のキューピットだなんて、お前らしくもない」


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