彼女の大好物
店の中に入って驚いた。
奥行きが間口の四、五倍ありそうな、細長いレストランだった。総面積でいけば、学校の体育館より広いかもしれない。
しかし、その中に客の姿はなかった。入り口近くのレジに、無表情のウエイトレスが一人いるだけだった。
「ここにしましょう」
彼女が選んだのは、一番奥の席。
どうしてこんなところに座らなければならないのだろう。見晴らしのよい席は、いくらでもあるのに。入り口近くでは都合の悪いことでもあるのだろうか。
だが、その疑問はすぐに消えた。
咳き込む声が聞こえてきたのだ。
ウエイトレスだった。風邪ではなさそうだったが、僕達に背を向けて、小さく咳き込んでいた。
レジから遠く離れた席を選んだのは、たぶん、無言の抗議。
ここはレストラン。どのような理由であれ、あなたは失格。
そのような意味合いがあるのだろう。
この店では、飲み水はセルフになっているらしく、テーブルには、氷水の入ったポットと、グラスが置いてあった。
「僕がいれます」
彼女の斜め前に座った僕は、グラスを二つ取り、ポットの水を注いだ。
「気が利くのね、あなたは」
彼女は、嬉しそうな声でそう言うと、乾杯でもするようにグラスを持ち上げて「ありがとう」と言った。
「ありがとうだなんて、とんでもありません。こちらこそ、お世話になりました」
僕もグラスを持ち上げて応じたわけだが、心臓の動悸はまだ収まっていなかった。
でも、どうやって先回りできたのだろう。
冷たい水で喉を潤しながら、考えてみた。
神社からまっすぐ下りられる近道があったとしたら、どうだろう。
いや、それは無理。山頂部は急斜面。ロープを使っても下りられない。転がり落ちるのが関の山。
第一ジャージは、神社で見たときと同じ白さを保っている。山全体が藪と落ち葉で覆われた山道を、汚れや引っかき傷なしで下りてこられるわけがない。
参拝用のロープウェイがあるとすれば、駐車場のあるこの近くに乗り場がなければ、意味がない。だが、そのようなものは、どこにも見当たらない。
となると、やっぱり、ほうきに乗って、空を飛んできたのだろうか。
今日の目的が、お祓いだったことなどすっかり忘れて、移動手段を想像してみたわけだが、納得できる答えを導き出すことはできなかった。
でも、どうしても知りたい。一番早いのは、直接訊くこと。でも、店の前で無視されたばかり。
しばらく考えているうちに、いいアイデアが浮かんできた。
無視されたが、拒否されたわけではない。
彼女の方から、話したくなるような状況を作り出せばいいのではないだろうか。とりあえず、当たり障りのないことから始めることにしよう。
「この店には、よくいらっしゃるんですか?」
半分ほど飲んだグラスを手に、窓の外を眺めていた彼女が、僕に顔を向けた。
「あなたは、どうなの?」
もちろん初めてだ。でもそれに答えると、相手のペースに乗せられてしまう。いや、すでに彼女のペース。
そこで僕は、彼女の頭を混乱させるために、一か八かの、バカな質問をぶつけてみた。
「神様ですよね、あなたは」
普通の人は、呆れた顔をする、怒り出す、逃げ出す、のどれかを選ぶはず。ところが彼女は、興味深そうに目を見開いただけだった。
「あら、面白そうな話ね」
これには僕の方が戸惑った。予想外の返事に絶句。次の言葉を探していると、思ってもいなかったことが起きた。
「どうして、神様だと思ったの?」
その質問は、僕にとって好都合。大助かり。渡りに船。
「それは、ですね」
僕は急いで横に置いていたリュックサックから原稿用紙を取り出して、テーブルの上に置いた。
「これが、あなたの命令に従って降りてきたからです」
しばらく原稿用紙を眺めていた彼女は、首を傾げて、
「そうだったかしら?」
と言った。
しかし、その時の様子を思い出そうとしている顔ではなかった。このあと僕が、どのようなことを言いだすのか、見定めようとしているような感じだった。
「はっきり覚えています。あなたが空に向かって両手を上げたとたん、それまで吹いていた風が、ぴたりとやみました」そこで三秒ほど沈黙してみたが、彼女が何も言わなかったのでつづけた。
「すると、空高く舞い上がっていた原稿用紙も、空中に張り付いたようになりました」
「まあ、すごい。それから、どうなったの?」
何を話しても、知らんぷりで通す気でいるらしい。
これから後の部分は、詳しく話すつもりでいた。でも、どうせ肩すかしを食らわされてしまう。無駄な努力はやめて、要点だけを言うことにしよう。
「全ての原稿用紙が、足元に落ちてきました」
「足元に? だれの?」
またしても、はぐらかし。
もちろん、あなたですよ。あなたの足元にひれ伏すように舞い降りてきたでしょう。と言おうとしてやめた。
バカにされているような気がしたからだ。
こうなれば、顔が狐に見えたときのことを言ってやる。と思った時、彼女が話題を変えた。
「おごってくれると言ったわよね」
「ええ、何でもどうぞ」
すると彼女は、待っていましたと言うように、にこっと笑った。
「私の大好物は、いなり寿司なの」




