いなり寿司を待ちながら
収まりかけていた動悸が、また激しくなった。
いなり寿司の注文は、偶然ではない。
連想ゲームで、いなりといえば、キツネ。キツネといえば、いなり。大抵の人がそう答えると思う。
どのような方法を使ったのか、見当もつかない。でもこれだけは言える。彼女には、僕が思い浮かべたキツネが見えたのだ。
あなたが何を考えているのか、私には分かるのよ。
いなり寿司には、そんなメッセージがあったはず。
だとしたら、カッコつけはやめよう。言葉を選ぶ必要もない。思ったことをそのまま口にしてやろう。その方が、相手のペースを狂わすことができる。
何も知らないふりをしながら、彼女が神社で僕を待っていた理由を探ってやろう。
外観はレンガ造り。店内は大理石を基調にした重厚な造り。(といっても人工大理石か、プリント合板を使用しているのだろうが)
こんな造りのレストランに、いなり寿司があるはずがない。でも有る無しに関わらず、この時点で交換条件を出してやろう。
「ご馳走する代わりに、というわけではありませんが、どうやって、神社から下りてきたのか、教えていただきますか?」
拒否されると思ったが、彼女はあっさり受け入れた。
「いいわよ、何でも聞いてちょうだい。ぜんぶ答えてあげる」
僕の思惑通りになっていくことに驚きながら、メニューを探した。だが、そんなものはなかった。呼び出しボタンさえ見当たらなかった。
早く注文しないと、彼女の気が変わるかもしれない。
焦りながらレジを振り向くと、ウエイトレスは、僕達とは逆方向の隅っこにいた。空模様でも眺めているのか、窓に顔をくっつけたまま動かない。
「すぐ呼んできます」
だが、椅子から立ち上がった僕を、彼女が制した。
「私にまかせて」
彼女は目をつぶると、両手をかるくポンと叩いた。すると、その直後、僕の真後ろで女性の声がした。
「お決まりになりましたか?」
振り返った僕は、心臓が飛び出したかと思うほど驚いた。
今まで、店の端っこにいたウエイトレスが、笑顔を浮かべて立っていたのだ。
思わず目をこすって、ウエイトレスを見上げた。
店の奥行きは三十メートル以上。にもかかわらず、彼女が手を叩いた瞬間、ウエイトレスがやってきた。
何かおかしい。何か変。
足音もしなかった。息切れもしていない。それに、表情の変わりようは何だ。にこやかな笑顔は、先ほどまでとは別人のようだ。
僕は彼女に目を移した。
ウエイトレスに魔法をかけたのだろうか。時空をねじ曲げたのだろうか。
彼女のことを神様か、キツネの化身だと思い込んでしまった僕の思考は、どうしても、そちらの方に傾いてしまう。
しかし彼女は、知らんぷりするように、外の景色を眺めているだけだった。
「ご注文を承ります」
僕は気持ち落ちつかせるために、グラスの水を一口飲んでから、ウエイトレスにたずねた。
「いなり寿司はありますか?」
ウエイトレスは、難しい計算でもするような顔で、天井付近を見つめた。
たぶん、どのように答えれば、客の機嫌を損なわないで、メニューにないことを伝えることができるか、必死で考えているのだろう。
しばらくするとウエイトレスは、視線を戻した。そしてにこっと笑った。
「お時間はございますか?」
驚いた。メニューにあるらしい。
「だったら、それふたつ。時間はあります。でも、三日以上かかるようなら、キャンセルします」
やり取りを眺めていた彼女が、僕に合わせたようにつづけた。
「私は、三時間までなら大丈夫」
「ありがとうございます」
ウエイトレスは、ホッとしたような表情を浮かべると、足早に立ち去った。
さてっと。
僕はあらためて彼女に体を向けた。
彼女と付き合える時間は、最長三時間らしい。
それだけあれば、彼女の生い立ちから現在に至るまでのすべてを聞き出せそうだ。
でも僕が知りたいのは、それほど多くない。
「くどいと言われそうですが」と前置きしてから言った。「どうやって下りて来られたんですか?」
「ちょっと、待って」彼女は僕の質問を遮った。「まだ、来ていないわよ。いなり寿司。おごられたことがわかるのは、あなたがレジで支払いを済ましたときよね」
言われてみれば、確かにそうだ。
高校生の頃、友人が、俺がおごってやるから映画を見に行こうと言った。
だが映画館の窓口で、友人は、財布を忘れてきたと言った。
結局、二人分の映画代を支払ったのは僕だった。
「つまり、支払いを終えるまで僕は、何も質問できないってことですか?」
「そういうことになるわね」彼女は、そこでクスッと笑った。「いなり寿司が出てくるまでは、私があなたに質問するってことにしたら、どうかしら?」
やっぱり彼女の方が、何枚も上手。事は、彼女の思い通りに進んでいる。
悔しかった僕は、冗談口調で反撃した。
「まさか、経済状態を聞き出して、怪しげな健康食品でも売りつけようと思っているんじゃないでしょうね。近い将来高速道路が通るから、今のうちに土地を買っておけば、億万長者になれるなんて、話だったらお断りしますけど」
しかし、笑ってくれなかった。真面目な顔で、最初の質問を口にした。
「このことなんだけど」
彼女が指差したのは、テーブルに並べてある原稿用紙。
「どうしてこの小説を、闇に葬ろうと思ったの?」
カチンときた。短い言葉の中に、間違いが二カ所もあった。
「違います」そのあと語気を強めた。「これは小説ではありません。つまらない作文です。それに、闇に葬ろうと思ったことはありません」
すると彼女は、さとすような口調で反論した。
「でもあなたは、成仏って言葉をつかっていたわ。そのつもりはなかったのかもしれないけど、そういうことになるんじゃないかしら。つまらない作文だったとしても、人に読まれるために生まれてきたのよ。それを誰にも見せないで、処分するのは、生まれてきた赤ちゃんを、そのまま闇の中に葬るのと同じでしょ」
何のために、彼女が神社にいたのか分かったような気がした。でも、僕は水子供養のために、神社に行ったわけではない。
「余計なお世話です。他人に読んでもらうために書いたのではありません」
と言ったところで思った。頭の中の映画館は話さない方が良い。僕は理由を変えた。
「昔の作文を書き直しただけです。それ以外の意味はありません。なのに、どうして僕の作文の例え話が、生まれたばかりの赤ちゃんになるんですか?」
しかし、彼女は、質問には答えなかった。
「これ、書き直すの? そのあと、どこかの神社で、お祓いを受けるつもり?」
そこで、今日の目的を思い出した。と同時に思った。
神様にすがるのはやめよう。
「もちろん書き直します」
「ということは、文章を全部覚えているってことなのね」
この言い方だと、彼女はパソコンには詳しくないのかもしれない。
「ほとんど覚えていません。でも、原本はパソコンに保存してあります。手書きはやめて、プリンターで打ち出します。それで終わりです。お祓いはしません」
と言いながら、自分の失言に気づいた。
話の途中で、彼女は呆れたような顔をして、椅子にもたれたからだ。
「だったら、どうしてあの時それを言ってくれなかったの。私が崖を下りる前に」
おっしゃるとおりです。だからお詫びの意味を込めて、あなたの大好物をおごろうとしているところなんです。
なんてことを、声に出して言えるわけがない。
「ごめんなさい」僕は素直に詫びた。「言おうとしたときには、もう飛び降りていらっしゃいました」
それは本当だった。
彼女の足元に降りてきた原稿用紙を拾い集めている時、また横風が吹き、風に煽られた何枚かの原稿用紙が、崖下に落ちた。
慌てて原稿用紙を追いかけようとする僕の頭の上を、何か白いものが、ふわりと飛び越えた。(後から考えると彼女だった)
しかし、彼女の努力は報われなかった。何枚かの原稿用紙が水に浸かり、文字が消えてしまったのだ。
「そうよ、私が勝手にしたの。頼まれもしないのに」
彼女はそれだけ言うと、ぷいと横を向いた。
気まずい雰囲気になってきた。
早く料理が出てこないかな。
レジに目をやると、ウエイトレスの姿がなかった。
「あのう」彼女に訊いた。「さっきのウエイトレスはどこに行きました?」
「たぶん料理のお手伝いでしょう」
僕は椅子から腰を上げた。
「ドリンクバーがあると思うんですけど、どうします? ウーロン茶でも持ってきましょうか」
「ああ、それならお構いなく。あなただけどうぞ。ちなみに、この店の名物は生ジュースみたいよ」




