切り刻まれて、どこかに消えた物語
ずっと後になってから、人づてに聞いたことがある。
あの日の前日、僕の作文を巡って、職員室でちょっとしたもめ事があったらしい。
もう少しで、僕の書いたものが代表作に決まりそうになったとき、一人の教師が異を唱えた。
「それを選ぶと、我々全員が笑われるかもしれない」
停年間近の学年主任だった。
「どうして、そんな事を言われるのですか」
新任教師の僕の担任が訊いた。
「それは、本当に生徒が書いたものだろうか?」
疑問符付きの一言で、職員室の空気が変わった。
最近の子供の想像力は、すごいと思っていましたけど、これほどだとは思いませんでした、としきりに感心していた若い女教師が、隣の教師にささやいた。
「そう言われてみると、不自然ですよね、この作文」
学年主任は、誰からも煙たがられる存在だったが、独自の手法を用いて難問を解決することがあった。彼のおかげで、多くの不登校児が救われたらしい。
職員室に広がったざわめきは、学年主任に賛同するものだった。
いつの間にか、ハシゴを外された恰好になった僕の担任は食い下がった。
「納得できません。その発想がどこからくるのか聞かせて下さい」
学年主任は、余裕の表情を浮かべた。
「あの子の学力を考えてみれば、想像できるのではないかな」
担任は言葉に詰まった。僕の成績が、入学以来超低空飛行を続けていることに、担任は頭を痛めていたのだ。
学年主任は、勝ち誇ったような顔でみんなを見回した。
「勘違いしないでほしい。自分の意見を押しつけようとしているわけではない。こんな場合、私は多数決で決めてきた。どうだろう。今回もそうしてみないか。それが民主主義というものだろうから」
「ちょっと待って下さい」僕の担任が遮った。「私が責任を持って調べます。明日までに結論をだします」
もちろんその日の僕は、そんな経緯があったなんて知らない。
自分の作文が何かの賞に選ばれた。帰ったら、すぐ母親に話そう。お婆ちゃんの墓に報告に行こう。
そんなふうに浮かれていたわけだから、刑事ドラマの鬼警部が犯人を攻め落とすような口調で、
「正直に、話せ。これは、自分で考えたのか」
と言われれば、夢心地の小学三年生が、思考停止状態になるのは当たり前だ。
身震いと共に、僕の体が固まった。
「盗作」という言葉は知らなかったが、そのような疑いを掛けられているということだけは分かった。
僕の思考が、どのくらい止まっていたのか知らない。
「分かった、もういい」
力のない担任の声で、ふっと我に返った。
もしこの時点で、作文が出来た経緯をそっくりそのまま話していたら、事態は別の方向に進んでいったのかもしれない。
しかし僕がとった行動は、自分でも信じられないようなものだった。
何も言わずに、担任の机の上の原稿用紙を掴むと、そのまま職員室を飛び出したのだ。
「くそっ、何も悪いことをしていないのに、どうして」
誰もいない教室に戻った僕は、原稿用紙を真っ二つに引き裂いた。
でも、信頼していた担任に疑われた腹いせではない。
全部僕が書きました。と言えなかった自分が情けなかったのだ。
さらに原稿用紙を破ろうとしたとき、待てよと思った。
いくら何でも、これでは作文が可哀相。
ほとんど徹夜状態で書き上げた原稿用紙八枚。それを、教室のゴミ箱の中に投げ捨てるわけにはいかない。
空に向かって、思いっきり放り投げてやろう。
ランドセルの中に、工作用のはさみがあるのを思い出した僕は、すべての原稿用紙を小さく切り刻んだ。
その頃僕が住んでいたのは、市内をゆったりと流れる川の近く。そこに引っ越してきたのは、僕がもうすぐ四歳を迎える春真っ盛りの頃。
家の前には、何本かの桜の木が植えられた公園があり、その土手の下を清らかな水が流れていた。
引っ越しの後片付けが済んだ夕方、僕と母は、誰もいなくなった公園の満開の桜を見上げた。
「何ごとも、散り際が肝心なの」
風に舞い散る桜の花びらを目で追いながら、母がつぶやいたのを覚えていた僕は、花の時期はとうの昔に終わり、今は緑の葉に覆われているだけの桜の木の下に、ランドセルを下ろした。
どういうつもりで、母がそんなことを言ったのかは分からなかったが、夢で見たものとは言え、僕が初めて書いた物語。せめて、最後だけでも華々しく散らせてやろう。
子供心にそう思ったのだ。
しかし世の中は思ったようには動かない。
その日は不思議なくらいに穏やかな日だった。
「ごめんな」
そう言って力一杯放り投げた物語の欠片は、風に舞うこともなく水の上に落ち、しばらく流れの中をさ迷った後、どこかに消えてしまった。




