第三章 もう一人の婚約者の登場
婚約の発表から三日後。
ミーシャは、王宮の庭園にひとりでいた。
大教会の神官たちは、聖女としての教育を始める準備に忙しい。王宮の侍女たちは、彼女にふさわしい衣装を選ぶのに忙しい。貴族たちは、聖女とのつながりを得ようと面会を申し込んでくる。
誰もが、ミーシャに期待していた。
聖女として。王子の婚約者として。国の未来を左右する存在として。
そんな中、渦中のミーシャはただ、花壇の端にしゃがんでいた。
王宮の庭園にも、ハーブが植えられている。ローズマリー。タイム。セージ。どれも見事に育っている。
ただ、土が少し乾いていた。
「……お水をあげようかな」
「何をしておられるの?」
背後から声がした。振り返ると、一人の令嬢が立っていた。
淡い金髪を丁寧に結い上げ、青いドレスをまとった、美しい少女だった。年齢は、ミーシャより少し上だろうか。彼女はミーシャを見つめ、静かに尋ねた。
「あなたが、聖女様?」
「えっと……一応、そう呼ばれています」
「そう」
令嬢は、微笑まなかった。
「わたくしは、シャルロット・フォン・シーゴッドと申します」
その名を聞いて、ミーシャは息をのんだ。
シーゴッド公爵家。
王国でも屈指の名門であり、王家と長く親交を結んできた家だ。
そして、ミーシャは知っていた。王宮に来てから、侍女たちの噂話を耳にしていたからだ。
第一王子エリオットには、長年、仲の良い婚約者がいた。幼いころから互いを知り、将来を誓い合った仲。
王もその婚約を認めており、二人が結婚することは、誰もが当然のことと考えていた。その婚約者こそ、シャルロットだった。
けれど、ミーシャが聖女と認められたことで、状況が一変した。王家と聖女を結びつけるためには、王子が聖女を娶ることが望ましい。
そのため、シャルロットとの婚約は解消される方向で話が進んでいるという。
ミーシャは、ゆっくりと立ち上がった。
「あの……」
「先に申し上げておきますわ」
シャルロットは、背筋を伸ばした。
「わたくしは、あなたを恨んではいません」
「……え?」
「あなたが望んで王宮に来たわけではないことくらい、少し調べればわかりますもの」
彼女は少しだけ視線を落とした。
「あなたは急に聖女として祭り上げられて困惑しているのでしょう?」
「はい……」
「あなたのことを怒るなんて、筋違いですわ」
その言葉に、ミーシャは胸が詰まった。
シャルロットは、どこまでも落ち着いていた。
怒ってもいいはずなのに。泣いてもいいはずなのに。自分の最愛のひとを奪われようとしているのに、彼女はミーシャを責めなかった。
「でも」
シャルロットは、かすかに唇を震わせた。
「わたくしは、いまも殿下をお慕いしております」
ミーシャは何も言えなかった。
「殿下も、わたくしを大切にしてくださっていると思います。幼いころから、ずっと……」
そこで、彼女は言葉を切った。青い瞳に、ほんの少しだけ悲しみが浮かんだ。
「それでも、聖女様が現れた以上、仕方のないことなのでしょう」
「そんな……」
「王家には王家の事情がありますもの。わたくしも公爵家の娘です。国の方針に従います」
シャルロットは、微笑んだ。それは、ひどく美しく、ひどく寂しい笑顔だった。
「だけど、一度ちゃんとあなたとお話ししてみたかったのです。 大切な殿下をお任せして良い方かどうか自分の目で確かめてみたかったのです。
でも、今日お会いして安心しました。どうか、殿下をよろしくお願いいたします」
そう言って、彼女は頭を下げた。ミーシャは、慌てて彼女の手を取った。
「待ってください!」
「……聖女様?」
「わたし、殿下と結婚したいなんて、一度も言っていません!」
庭園に、ミーシャの声が響いた。
「わたしは、ただお茶を淹れていただけなんです。それをみんなが勝手に聖女だって言って、王都に連れてこられて、気がついたら婚約まで決まっていて……」
今まで誰にも言えなかった言葉が、次々とあふれ出す。
「わたしはあの孤児院に帰りたいんです。そして、今まで通り茶葉を育てて、みんなのためにお茶を淹れて暮らしたいんです」
ミーシャは、シャルロットの手を握りしめた。
「私のせいで、あなたが婚約を解消されるなんて……そんなの、嫌です」
「……どうして?」
シャルロットの声は、かすれていた。
「どうして、あなたが嫌なのですか?」
「だって!」
ミーシャは、思わず声を上げた。
「一生の中で、お互いに大好きだと思える人に出会えるなんてとても幸せなことだと思うからです!」
シャルロットの目から、涙がこぼれた。
「それを、わたしが壊すなんて……」
ミーシャは、それ以上うまく言葉にできなかった。
しばらくして、シャルロットは話し始めた。
「……わたくし、ずっと我慢しておりましたの」
「公爵家の娘だから。殿下の婚約者として教育を受けてきたのだから。弱音を吐いてはいけないと… 自分の気持ちを優先することなど許されないと……」
彼女は、涙を拭った。
「本当は、悲しかったのです。殿下とお別れしないといけないことが」
「……はい」
「でも、あなたの前で泣くなんて……」
「いいじゃないですか」
ミーシャは、そっと微笑んだ。
「泣きたいときは、泣いてもいいんですよ」
それは、まだ幼かった頃のミーシャが孤児院でモリーカから教わった言葉だった。
シャルロットは、しばらくミーシャを見つめていた。
やがて、小さく笑った。
「あなたは、不思議な方ですわね」
「そうですか?」
「ええ。あなたといると誰にも言えなかった言葉が自然と出てきてしまう。さっきお会いしたばかりだというのに。
ほんとにあなたは聖女様なのかも知れませんね」
シャルロットは、目元を拭った。
「でも、やっぱり普通の女の子に見えますわ」
ミーシャは、心の底からうれしくなった。
ただの女の子として見てもらえたことが。
その日、二人は約束した。
シャルロットの恋を、諦めない。
そして、ミーシャ自身の人生も、諦めない。




