第8話
緩やかな坂を下りきると、盆地の底を渡る風が埃っぽく鼻を突いた。
街道の両側には、掘り起こした土を盛り固めただけの低い土塁が左右に延びていた。高さは人の背丈ほどで、雨水で削られた斜面にはところどころ雑草が生えている。土塁の切れ目には二本の丸太を交差させただけの粗末な木柵が置かれ、その左右に四角く組まれた二基の木組み見張り台が立っていた。
見張り台の柱には、雨風に晒されて黒ずんだ厚板が打ち付けられ、鉄の焼印で『ケッセル』と太い文字が刻まれていた。
門の前には荷馬車が一台停まり、粗末な革の胸当てを着けた門番が、荷台の麻袋を槍の柄で小突きながら送り状を改めている。
ライゼンが歩み寄ると、門番の片方が顎をしゃくった。
「身分証」
ライゼンは懐から真鍮札を差し出した。
門番は札の角を指先で弾き、表面に刻まれた三本の筋とギルドの印に目を落とすと、特に何も言わずに帳面に一本の斜線を引き、札を返してきた。
「武器は町中で抜くなよ。宿場よりうるさい言わないといけないからな」
「ああ」
ライゼンが札を収めて敷居を跨ぐと、背後から小走りの足音が追いついてきた。
「ま、待ってください、俺もです!」
エントが雑嚢の紐を掴みながら、息を切らせて門番の前に駆け寄った。震える手で胸元から取り出したのは、白木の木札だった。表面には一本の細い筋が削り込まれている。
門番は木札の端を二本の指でつまみ、裏表を雑に返した。
「木札か。……駆け出しだな。揉め事を起こしたら即座に追い出すからな」
「は、はい! 分かってます!」
エントは木札を受け取ると、小走りでライゼンの三歩後ろへ滑り込んできた。
土塁の内側に入ると、通りは宿場の倍ほどの広さがあったが、並んでいるのは石造りの建物ではなく、板壁と土壁を組み合わせた平屋ばかりだった。通りを行き交う人々は、作業着を着た荷運び人足や、麦粉を積んだ荷車を引く牛、手押し車を押す町民が主で、鎧を着た者の姿は街道沿いに比べてまばらだった。鍛冶屋の鞴が吐き出す硫黄の匂いと、家畜の糞の匂いが、盆地の澱んだ空気に混じり合っている。
◇
中央通りを少し進むと、交差点の角に石積みの土台を持つ二階建ての建物があった。軒先には、交差した二振りの剣を象った鉄製の看板が下がっている。
扉を押して中に入ると、土間は街道沿いの宿場よりも広く、天井から吊るされたランプの油煙が低く漂っていた。
昼過ぎの時間帯のため、広間に屯している冒険者の数は十人ほどだった。壁際の卓で札遊びをしている三人連れと、奥の長椅子で麦酒のジョッキを傾けている中年の軽装歩兵がいる程度で、全体に静まり返っている。
背後で扉がパタンと閉まり、エントがすぐ後ろについて入ってきた。
「へえ……ここがケッセルのギルドか。宿場の出張所よりずっと広いですね」
エントは乾いた喉を鳴らし、広間をきょろきょろと見回していた。
ライゼンは掲示板には向かわず、帳場の木製カウンターへ真っ直ぐ歩いた。
カウンターの奥には、黒い前掛けをした事務員風の男が座り、帳簿の数字を鉄筆でなぞっていた。ライゼンが前に立つと、男は面倒そうに視線を持ち上げたが、ライゼンが卓上に置いた真鍮札を一瞥した瞬間、鉄筆を握る指先を止めた。
男は札を手に取り、表面の三本の筋を親指の腹でなぞった。
「……真鍮の三本筋か」
男の声から、先ほどの気の抜けた調子が消えた。札の登録印を念入りに確かめ、帳簿の余白に視線を走らせる。
「どこの支部から流れてきた? 北の街道筋か」
「北だ」
「この支部じゃ、あんたの記録は見たことがない。ケッセルは初めてか」
「ああ」
「仕事を探してるなら、真鍮札で空いてるのは領主館の警備か、西の採石場への護衛枠だな。後は、街道筋の盗賊崩れの始末なら、銀貨三十枚から出ている」
受付の男は、当たり前の事務手続きとして、手元にあった上等な羊皮紙の依頼控えを二、三枚抜き出して見せてきた。
ライゼンはそれらに手を出さず、首を横に振った。
「見るだけだ」
「そうかい。まあ、急ぎの案件じゃない。奥の掲示板を見てくるといい」
男は真鍮札をライゼンに押し戻した。
ライゼンは札を懐に収め、壁際の大きな掲示板へ向かうと、木製の板は、上段、中段、下段と明確に仕切られていた。
上段には銀札向けの討伐依頼が二枚だけ留められていたが、どちらも埃を被っている。中段は真鍮札向けの依頼で埋まっていた。受付が言っていた採石場の護衛のほか、南の山裾に入り込んだ大角鹿の群れの駆除、商家の倉庫番。報酬はいずれも銀貨二十枚から五十枚の範囲で、推奨人数は三から五人と記されている。
下段には、鉄札と木札向けの仕事が、薄っぺらい紙で数枚ずつ鋲で留められていた。
『東の放牧地、柵の杭打ち替え。日当銅貨六枚』
『水路の泥浚い。日当銅貨八枚』
ライゼンは中段の依頼をいくつか目で追ったが、どれも手を伸ばすことなく、掲示板の前から半歩下がった。
◇
ライゼンがカウンターへ戻ると、男が再び顔を上げた。
「何だ、受けたいのがあったか」
「この町で、一番安い宿はどこだ」
男はライゼンの肩の擦り切れた革鎧と、背中の大きな背負い袋を一瞥し、片眉を上げた。
「真鍮札の旦那が泊まるような宿じゃないが……西の裏通り、鍛冶屋の煙突の裏に『木株亭』ってのがある。あそこなら一泊銅貨五枚で素泊まりできる。飯はつかんが、寝るだけなら一番安い」
「分かった」
ライゼンが踵を返そうとしたとき、掲示板の前にいたエントが駆け寄ってきた。
「旦那さん!」
エントは掲示板の下段を指さしながら、早口で言った。
「俺、木札で受けられる仕事を探してきます! さっき見たら、水路の泥浚いとか、杭打ちの仕事が出てたんで! なんとか今日中に銅貨を稼がないと、宿代も払えないし、飯も食えないですから。受付に申請してきます!」
エントの唇は白く乾いており、頬の肉が昨日よりわずかに削げて見えた。胸当ての下で腹が小さく鳴る音が、ライゼンの耳に届いた。
ライゼンは足を止めず、短く言った。
「そうか」
「はい! じゃあ、また後で!」
エントは木札を握りしめ、カウンターの端、木札用の受付窓口へと小走りに向かっていった。
ライゼンは振り返らずにギルドの扉を押し、外の乾いた通りへと出た。
◇
受付に教えられた通り、中央通りから西の細い路地へ折れた。
鍛冶屋の煙突から吐き出される黒い煙が路地を満たし、槌の音が耳の奥まで響いてくる。ぬかるんだ土の上に木片を敷いた路地を進むと、突き当たりに傾いた板張りの二階家があった。
軒先に、斧で割った丸太の切れ端がぶら下がっている。木株亭だった。
建て付けの悪い引き戸を押すと、湿った藁と饐えた油の匂いが立ち込めていた。土間の奥、薄暗い帳場で、片目を白濁させた老人が椅子に深く腰掛け、パイプをくわえていた。
「……泊まりかい」
老人が掠れた声で言った。
「一泊だ」
「銅貨五枚。前払いだ。水は井戸から自分で汲め。明日の朝の鐘までに鍵を返せよ」
ライゼンは腰の小銭袋から銅貨五枚を取り出し、埃の積もった帳場机の上に置いた。
老人は小銭を指先で掻き集め、引き出しに放り込むと、錆びた鉄の鍵を一つ放り出してきた。
「二階の突き当たり、左側だ」
階段を上がると、踏み板が一歩ごとにギシギシと悲鳴を上げている。
指定された部屋の鍵を開けると、中は三歩四方ほどの広さしかなかった。壁の板の隙間からは外の光が細く漏れ、隙間風が埃を舞い上げている。部屋の隅には、乾燥した藁を麻布で包んだだけの粗末な寝床が一つ置かれているだけだった。
ライゼンは背負い袋を下ろし、部屋の角に置いた。
長剣を腰から外し、壁際に立てかける。腰帯を解いて上着を脱ぐと、肌着が汗で薄く背中に張り付いていた。
背負い袋の口を開け、油紙から堅パンを一枚取り出し、塩漬け肉を薄く削いで一緒に噛んだ。水筒の水を一口含み、喉を鳴らした。
◇
夕方になり、盆地の底に赤黒い夕暮れが落ちてくるころ、ライゼンは上着を羽織って一階へ下りると、宿の表に出て、井戸で手桶の水を汲み、顔を洗った。冷たい水が肌の熱を奪い、土埃のざらつきが落ちる。
布で顔を拭いながら宿の前の路地に目をやると、鍛冶屋の角のところから、足を引き摺るようにして歩いてくる人影があった。
エントだった。
肩掛けの雑嚢はぺちゃんこに潰れたままで、腰の片手剣の鞘が歩くたびにだらしなく揺れていた。新しい革の胸当てには、あちこちに泥の跳ね返りがついて乾いている。
エントは木株亭の看板を見上げ、それから井戸端に立つライゼンに気がついた。
足が止まり、肩ががくりと落ちた。
「……旦那さん」
声は掠れ、喉の奥から絞り出すようだった。
エントはよろめくようにして井戸の縁まで歩いてくると、そのまま力なく膝をつき、赤土の地面に腰を下ろした。手袋を外した両手は泥で薄汚れ、指先が小さく震えている。
「仕事……ダメでした」
エントは俯いたまま、膝の頭を見つめて言った。
「掲示板の木札の仕事、俺が窓口に行った時にはもう他の連中に取られてて……。受付の男に頼み込んで、何かないかって訊いたら、裏のゴミ捨て場の整理を回してくれたんですけど……日当じゃなくて、砂時計ひとつ分の手伝いで銅貨一枚にしかならなくて……」
エントは雑嚢から小さな革の巾着を取り出した。
紐を解いて手のひらに傾けると、落ちてきたのは黒ずんだ銅貨が四枚だけだった。最初から持っていた三枚に、一枚増えただけだった。
「宿も、この町中を回ったんですけど……一番安いここでも、五枚ですよね。さっき帳場の爺さんに訊いたら、四枚じゃ泊められないって断られちゃって……」
エントの腹が、再びぐうと低く鳴る。昼間よりも乾いた、空っぽの音が路地に響いた。
エントは両手で顔を覆い、深く息を吐き出した。指の隙間から覗く首筋が、夕暮れの冷え込みにさらされて鳥肌立っている。
西の空の赤みが急速に失われ、鍛冶屋の煙突から立ち上る煙が、紫色の薄闇の中に溶けていった。
ライゼンは井戸の縁に布を置き、動かずにエントの手元を見つめていた。




