第7話
夜風が土手を撫でるたびに、枯れ草の擦れる乾いた音が涸れ沢の底へ滑り落ちてきた。
天幕の下から見える二十歩先の影は、膝を胸に抱えたまま、ほとんど隙間のない塊になっていた。丸まった背中が小刻みに波打ち、薄い上着の布地が擦れ合う微かな音が、風の合間に途切れ途切れに届く。
ライゼンは腰の帯から小さな革袋を外し、紐を緩めた。
指先を入れ、油を引いた布に包まれた火打ち石と、平たい鋼の鉄片をつまみ出す。手のひらに載せると、冷気ですでに冷え切っていた。
敷布の上に立ち上がり、土手の斜面へ向かって二歩、歩み出た。
右手を軽く振る。手首を返して放られた二つの塊が、枯れ草の生え際を擦り、エントの爪先の数歩先の赤土の上に、乾いた音を立てて転がった。
エントがびくりと肩を跳ね上げ、顔を上げた。
「……え?」
「自分で起こせ」
ライゼンはそれだけ言うと、踵を返して天幕の下へ戻った。敷布の上に腰を落とし、長剣の柄に右手を添える。
土手の窪みで、エントが這うようにして地面に手を伸ばすのが見えた。小石をまさぐる音が二度、三度とし、やがて拾い上げた石と鉄片を両手で包み込むようにして胸元へ引き寄せた。
「あ、ありがとうございます……! 旦那さん、俺――」
「大きな声を出すな」
短く遮ると、エントは慌てて口を塞いだ。ライゼンは土手の上の闇へ耳を向けた。風が枯れ草を鳴らす音のほかに、何も聞こえなかった。
エントは立ち上がると、よろめく足取りで涸れ沢の縁を歩き回りはじめた。
手探りで地面のものを拾い集めている。だが、その足音が重い。土手の傾斜で滑り、小石を何度も沢の底へ蹴落としていた。
しばらくして、エントは両腕に枯れ草と枝の束を抱えて窪地に戻ってきた。
地面に膝をつき、集めたものを無造作に山盛りに積み上げる。親指ほどの太さがある生木混じりの枝と、土で湿った枯れ草が混ざっていた。下草の繊維をほぐすこともせず、ただ塊のまま地面に置き、その上から革手袋をはめた手で火打ち石と鉄片を打ち合わせ始めた。
カチ、カチン。
鈍い音が闇の中に響く。
鉄片の当て方が浅く、角度が定まっていない。火花が散っても二筋、三筋で、それも湿った草の塊の表面を掠めて夜風に吹き散らされるだけだった。
エントは焦ったように手を動かす速度を上げた。ガチッ、と金属が石の角を削る嫌な音がして、火打ち石が手袋から滑り落ち、地面を転がった。
「あ、くそっ……」
拾い上げ、息を吹きかけながら再び打ち合わせる。だが火種は落ちない。
ライゼンは天幕の支柱に背を預けたまま、動かずにそれを見ていた。
エントの集めてきた枯れ草は、日陰の窪地に溜まっていたもので、夕暮れの露を吸って重くなっていた。枝も太すぎて、最初の火花がつくはずもなかった。
カチ、カチン、カチ。
十数回打ち合わせたところで、エントの両手が止まった。息が白く乱れ、手袋を外して指先を口元へ持っていき、息を吹きかけて温めている。指がかじかんで、石を挟む力が入らなくなっているのが遠目にも分かった。
「草を揉め」
ライゼンは低く言った。
エントが弾かれたようにこちらを見た。
「え?」
「一番乾いている枯れ草の芯を抜き出して、手のひらで粉になるまで揉め。小枝は親指の先で折れる細いやつだけにしろ」
それ以上は言わなかった。
エントは地面の草の山に手を突っ込み、手探りで一本一本引き抜き始めた。手袋を脱ぎ捨て、かじかんだ素手で草の束を挟み、両の掌を激しく擦り合わせる。もろくなった繊維が細かく裂け、綿毛のような塊が膝の上に落ちていく。
太い枝を脇へ除け、足元から藁しべほどの枯れ枝を拾い集めて並べた。
エントは再び石と鉄片を握り、揉みほぐした繊維のすぐ上に刃先を合わせた。
カチッ、と一度、鋭い音が響いた。
散った火花が、白っぽい繊維の端に落ちる。
麦粒ほどの小さな赤い点が、じわりと広がった。エントが身を屈め、目を丸くして息を吹きかける。勢いが強すぎて一度消えかけたが、慌てて息を細く絞ると、煙がひと筋立ち上り、パッと小さな黄色い炎が立ち上がった。
「つ、ついた……!」
エントは震える手で、集めた細い枝を一本ずつ炎の上に重ねた。
乾いた小枝がパチパチと音を立てて爆ぜ、やがて手のひらほどの焚き火になった。薄暗い窪地の中で、エントの顔が赤く照らし出される。額にも頬にも黒い煤が筋になってついていたが、エントは火の前に両手をかざし、肩の力を抜いて深く息を吐き出していた。
◇
東の空が白み始めると、涸れ沢を満たしていた冷たい湿気が、白っぽい朝靄となって土手の底を這い回った。
天幕の油布にはびっしりと霜が降り、指でなぞると固く凍りついていた。
ライゼンは敷布を丸め、四隅の石を外して油布を畳んだ。袋の天蓋に固定し、背負い袋の紐を締め直す。火床の灰を掘り返して完全に冷えているのを確かめたところで、背後から足音が近づいてきた。
枯れ草を分ける音がして、エントが土手を下りてくる。
歩き方はぎこちなく、膝の関節が冷え切っているのか、一段降りるごとに爪先が外側へ逃げていた。顔色は青白く、唇の端が乾燥して割れている。目の下には黒い隈が落ちていた。
エントはライゼンの三歩手前で立ち止まると、両手で包んでいた火打ち石と鉄片を差し出した。
「……ありがとうございました。旦那さん」
声がかすれていた。
ライゼンは無言で受け取り、石の角の欠け具合と鉄片の刃こぼれを一瞥した。雑に打ったせいで石の腹が少し砕けていたが、まだ使える。油布に包んで革袋に収め、腰の帯に結びつけた。
ライゼンは背負い袋の脇から小鍋を出さず、腰嚢から油紙の包みを取り出した。
中から昨日の残りの堅パンを一枚取り出し、半分に割る。乾いたパンの断面を奥歯で噛み砕き、唾液でふやかして飲み込んだ。それからベルタの塩漬け肉の塊から、小刀で親指の爪ほどの薄片を二枚削ぎ落とし、口に放り込んで噛み続けた。水筒の水を一口含み、喉を鳴らして流し込む。
エントはその手元をじっと見ていた。
喉仏が大きく一度上下し、腹の奥からグウ、と乾いた低い音が漏れた。エントは慌てて自分の腹を手で押さえ、視線をライゼンの手元から足元の砂地へ逸らした。
ライゼンは油紙を畳み、腰嚢の奥へ戻した。
水筒の栓を締め、長剣の位置を腰骨の上に直す。背負い袋を背負い上げると、土手を上がって街道へ向かった。
背後で、慌てて土を蹴る音がした。
「あ、待ってください!」
エントが肩掛けの雑嚢を揺らしながら、斜面を駆け上がってきた。
◇
街道に出ると、朝の風が北東から吹きつけてきた。
空は薄い灰色の雲が一面に広がり、陽の光はぼんやりとしか届いていなかったが、雨を含んだ湿気は風の中に混じっていなかった。道幅は次第に広がり、荷馬車が三台すれ違えるほどの広さになっていたが、白土の表面には深い轍が幾重にも交差し、乾いた泥の塊が転がっている。
エントは、昨日よりも近い位置を歩いていた。
ライゼンの右斜め後ろ、三歩から四歩ほどの間隔を保ち、離れまいと必死に足を前に出している。
だが、その足取りは明らかに昨日より重かった。革靴の底が地面を擦るジャッ、ジャッという引き摺り音が、一歩ごとにライゼンの耳に届く。空腹と冷えのせいか、時折右足の踏み込みが抜けて、体が横に傾ぐ気配がした。
「旦那さん」
エントが口を開いた。声は嗄れていたが、昨夜よりは息が通っていた。
「昨日は、本当に助かりました。あの火がなかったら、俺、朝まで保たなかったかもしれません。手袋したまま打っても火がつかないなんて、教本には書いてなかったんですよ。草を揉むのも、あんなに細かくしなきゃいけないなんて知らなくて」
ライゼンは前を向いたまま歩いた。
「……そうか」
「はい。ギルドで貰った小冊子には『火打ち石を用いて火種を作り、小枝に移す』って一行しか書いてないんですよ。一行ですよ? あんなの、実際にやってみなきゃ分かるわけないじゃないですか」
エントは雑嚢の底を小突くように叩いた。中身がほとんど入っていないため、布がペタペタと鳴るだけだった。
「次の宿場って、あとどれくらいですかね。この道で合ってますよね? 街道沿いに行けば、昼過ぎには着くって宿場の親父が言ってたんですけど……南の大きな町には、ギルドの大きな支部があるんですよね。受けられる依頼も多いのかな。俺の木札でも、町の中の仕事ならもっと実入りのいいのがあると思うんですよね」
息を吸う間も惜しむように、次から次へと言葉が出てきた。
ライゼンは答えず、ただ道の窪みを避けて歩幅を刻んだ。
「あの、旦那さんって、普段は何を食べてるんですか? さっきの肉、すごく塩が効いてそうでしたけど、保存食ですか? 自分で漬けるんですか? 俺、町を出るときに干し肉を二切れ持ってたんですけど、最初の宿場に着く前に全部食べちゃって……。買い直そうと思ったら、宿場の店先で一切れ銅貨三枚って言われて、手が出なかったんですよ。パンも硬いのは安いけど、柔らかいのは銅貨四枚もするし……」
エントの唇が、喋るたびに小さく震えていた。
水筒を外して振る音がしたが、中身は空のようで、カサリと乾いた革の擦れる音がしただけだった。
風が急に強まり、街道の砂埃がライゼンのすね当てを叩いた。
ライゼンは足を止めず、背負い袋の胸紐を少しだけ締め直した。背後で、エントが砂埃に咽せるゲホゲホという咳払いが響き、それからまた重い足音が三歩後ろについてきた。
◇
昼を回り、雲の切れ間からかすかに薄日が差し始めたころ、街道は緩やかな上り坂に差し掛かっていた。
両脇の荒れ地が切り開かれ、耕作を放棄された古い段々畑の石垣が、雑草に埋もれながら続いていた。
坂の頂上に差しかかったところで、ライゼンは歩調を緩めた。
尾根の向こう側に、広大な盆地が口を開けていた。
街道がその中央を真っ直ぐに貫いており、日暮れまでには着きそうな開けた平地に、灰褐色の建造物の群れが身を寄せ合っているのが見えた。
周囲を取り囲む低い土塁と、木組みの見張り台が二箇所。その内側には、瓦葺きと板葺きの屋根が何十軒と密集し、いくつかの煙突から細い煙が立ち上っていた。宿場というには規模が大きく、町と呼ぶには防壁が粗末だった。
「あ……」
背後で、エントが立ち止まる気配がした。
荒い息の音が止まり、革靴の底が砂利を踏みしめる音が一度だけ鳴った。
「町だ……」
エントが掠れた声で呟いた。
乾いた風が尾根を吹き抜けていき、二人の足元にあった埃を盆地の底へと運んでいった。




