第6話
宿場の防獣柵が途切れ、左右に広がっていた麦畑が雑草の生える荒れ地へと変わったあたりで、背後から乾いた土を蹴る音が響いてきた。
一定のリズムではなく、もつれかけるような乱れた足音だった。革底が砂利を擦るジャリ、ジャリという音に混じって、金属の触れ合う細い音が連続して跳ねている。
ライゼンが足を止めずに歩き続けていると、足音は次第に間隔を詰め、十歩ほど後ろで荒い呼吸の音が重なった。
「はあっ、はあっ……だ、旦那さん! 待って、待ってくださいよ!」
エントだった。
肩を激しく上下させ、右手で脇腹を押さえながら、ライゼンの斜め後ろに並びかけてきた。額にはびっしりと汗が浮き、生え際の髪が額に張り付いている。腰に下げた細身の片手剣が、走る反動で太腿の外側を何度も叩いていた。肩掛けの雑嚢が胸元で踊り、革の手袋をはめた指先が震えている。
吸い込む息が喉の奥でヒューヒューと鳴っていた。長距離を走るための呼吸ではなく、ただがむしゃらに手足を振り回して肺の空気を使い果たした者の息だった。
「……ちゃんと、払ってきましたから」
エントは息を継ぎながら、親指で後ろを指してみせた。
「銅貨二枚、卓の上に叩きつけて……走ってきたんです。食い逃げしたと思われて、宿場の人に追っ手でも出されたら敵わないですからね」
ライゼンは歩幅を崩さなかった。視線を前方の街道に据えたまま、速度も落とさない。
「そうか」
「そうか、って……歩くの、早すぎですよ旦那さん。あの大きな荷物背負って、なんでそんなにすたすた歩けるんですか。俺なんて、これっぽっちの荷物なのに追いつくだけで息が切れちゃいましたよ」
エントは袖口で額の汗を拭い、なおもライゼンの左脇に並んで歩こうとした。だが、一歩ごとの踏み込みが浅く、右足の爪先が時折地面の窪みに引っかかって体が前につんのめる。
「あの、旦那さん」
呼吸がいくらか整ってきたのか、エントが顔を上げてライゼンの横顔を見た。
「お願いがあるんです」
「何だ」
「俺に、稼ぎ方を教えてくれませんか」
街道の轍に小石が転がり、ライゼンの靴底がそれを踏み砕いた。
「断る」
「えっ、即答ですか!? もうちょっと考えてくれてもいいじゃないですか!」
エントは両手を広げてみせ、ライゼンの歩調に合わせようと小走りを交えた。
「俺、別にタダで教えてくれなんて言ってませんよ! いや、今は金がないですけど……あ、荷物持ちならやります! その背負い袋、重そうだし、俺が半分持ちますから! あと薪拾いとか、水汲みとか、使い走りなら何でもします! だから、冒険者の仕事のやり方っていうか、どうやって依頼をこなすのか、教えてほしいんです」
「教えることはない」
「ありますよ! さっきの店で、旦那さんの装備を見ただけで分かりましたもん。肩当ての革の擦れ方とか、剣の柄の汚れ方とか、本物じゃないですか。俺が宿場の掲示板で右往左往してる間に、旦那さんはどこかでちゃんと仕事して、飯食って、旅を続けてるわけでしょう?」
エントは布の雑嚢の紐を掴み、まくし立てるように言葉を重ねた。
「俺、この宿場で本当に参ってたんです。ギルドの図鑑に載ってる薬草の絵と本物の草は全然見分けがつかないし、野犬は教本に書いてあるみたいに正面から飛びかかってこないで横から足を狙ってくるし……。宿の親父には『駆け出しが一丁前に一人で仕事選んでんじゃねえ』って笑われるし。手持ちの銅貨、さっきの粥代を払ったら、もう三枚しかないんですよ。次の宿場まで行くどころか、野垂れ死にです。本当に、このままじゃどうにもならないんです」
「ギルドに戻れ」
「戻れませんよ! せっかく木札もらって町を出てきたのに、何の実績も作れないで引き返すなんてできるわけないじゃないですか」
「なら、死ぬだけだ」
ライゼンは淡々と言った。語気を強めることもなく、ただ街道の先にある緩やかな坂を見据えている。
「……うっ」
エントは言葉に詰まり、唇を噛んだ。
「そ、そんな言い方しなくたって……」
それ以上、ライゼンは言葉を発しなかった。
エントも黙り込んだが、足を止める気配はなかった。横に並ぶのをやめ、ライゼンの背後、七、八歩ほどの間隔を空けて歩き続けた。
街道は平野の縁をなぞるように南へと下っていた。
土は白く乾き、荷馬車が残した深い轍が何本も平行に走っている。轍の底には細かな砂が溜まり、踏みしめるたびにわずかな土煙が上がった。
空は青く澄んでいたが、西の地平に近いあたりから、薄い刷毛で引いたような灰色の雲が広がり始めていた。風は北から緩やかに吹き下ろしており、草の枯れた匂いを運んでくる。雨の気配はないが、日が落ちれば急激に気温が下がる風だった。
ライゼンは一定の歩幅を保ちながら、背後の足音を聞いていた。
ジャリ、ジャリ、と砂を踏む音が続く。
しばらくすると、その足音が少しずつ遅れ始めた。十歩、十五歩と離れ、小走りで距離を詰めるバタバタという音が混じる。布の雑嚢の中で、水筒の半端な水がチャプチャプと揺れる音がかすかに届いた。
ライゼンは振り返らなかった。歩調を緩めることも、逆に速めて引き離すこともしなかった。ただ、目の前の道の傾斜と、土の締まり具合だけを見て歩いた。
◇
太陽が西の丘陵の尾根に触れ、影が東の斜面へ長く伸びるころ、街道の左手に涸れ沢の跡が見えてきた。
雨期にだけ水が流れる、大人が三人並んで歩けるほどの窪地で、今は底の赤土が干からびてひび割れている。沢の縁には人の背丈ほどの土手が続き、その上には穂の立った枯れ草の群生が風に揺れていた。
ライゼンは街道を外れ、涸れ沢の土手を斜めに下りた。
底から腰の高さほど上がった平らな段丘に立ち、周囲を見回す。
背後は土手で塞がれており、北からの風が遮られている。頭上に崩れそうな巨石はなく、足元の土は固く締まって湿り気もない。街道からは土手と枯れ草に隠れて姿が見えない位置だった。
ライゼンは背負い袋を下ろし、肩の強張りをほぐすように首を回した。
袋の天蓋から四つ折りにした油布を解き、手頃な灌木の根元に麻紐で結びつける。反対側には拾い集めた二本の太い枯れ枝を支柱として噛ませ、四隅を拳大の石で固定した。一人分の寝床を覆うだけの、低い傾斜の天幕が出来上がる。
背後で、枯れ草を踏む音がした。
土手の上、街道から涸れ沢へ降りる斜面の途中で、エントが立ち止まっていた。
ライゼンの野営地から、二十歩ほど離れた場所だった。
エントは天幕や背負い袋の手際を見つめていたが、それ以上近づいてこようとはしなかった。斜面の窪み、風が吹き抜ける枯れ草の生え際に、力なく腰を下ろした。
肩掛けの雑嚢を膝の上に置き、細身の片手剣を抱えるようにして足を投げ出している。背負い袋はもちろん、毛布の包みも、敷布の類いも持っていなかった。地面の冷えた赤土の上に、ズボン越しにそのまま座っている。
ライゼンは視線を戻し、足元の砂地を払った。
◇
火床を組んで火を起こし、小鍋を据えた。塩漬けの肉を削いで、昼のうちに水へ浸けておいた白豆と一緒に放り込む。
肉の脂が溶け出し、塩と獣肉の煮える匂いが、夕暮れの冷たい空気の中にふわりと広がった。
二十歩向こうの土手で、微かな衣擦れの音がした。
エントが首を伸ばし、こちらの手元を見ていた。鼻を小さくひくつかせ、喉が一度大きく上下に動く。
雑嚢の口を開け、中から水筒を取り出した。栓を抜き、口をつけて傾けたが、二口ほど喉を鳴らしただけで水筒を下ろした。振ると、底でわずかに水が跳ねる乾いた音がした。それから雑嚢の底に手を入れたが、食べ物らしきものは出てこず、ただ空になった手のひらを引っ込めて、膝頭を抱え直した。
ライゼンは煮立った鍋を火から下ろし、一人分を平らげた。
◇
日が完全に沈むと、空の青みは急速に失われ、墨を流したような深い闇が涸れ沢を満たした。
風の音が一段と高くなり、土手の上の枯れ草が擦れ合ってサワサワと鳴り続けている。
昼間の熱は地面から完全に消え去り、底冷えのする夜気が足元から這い上がってきた。吐く息が、薄く白く濁る。
ライゼンは火床の薪をいじり、太い燃え残りに灰を被せて熾火にした。赤い光が鈍く沈み、煙が細く棚引く。
天幕の下に入り、敷布の上に腰を下ろした。
ふと視線を上げると、二十歩先の土手の窪みに、うずくまる黒い影が見えた。
エントのところには、火の気は一切なかった。火打ち石を持っていないのか、あるいは小枝を集める余裕もなかったのか、ただ冷たい地面の上に直に座り込んでいる。
新しい革の胸当ては、夜の冷気を吸って硬く冷え切っているはずだった。エントはその胸当ての上から両腕を回し、膝を胸元まで引きつけて、できる限り体を小さく丸めていた。
風が吹き抜けるたびに、その肩がガタガタと小刻みに震えている。
薄い上着の襟首に顎を埋め、両手を脇の下に挟み込んでいるが、寒さを防ぎきれていないのが遠目にも分かった。時折、寒さに耐えかねたように身じろぎをし、擦り切れた革靴の爪先同士をカチカチと打ち鳴らす音が、風の合間に微かに届いてくる。
ライゼンは右手の手のひらを、膝の上の長剣の鞘に置いた。
灰の下の熾火が、パチと音を立てて小さく爆ぜた。
夜風が涸れ沢の底を吹き抜けていき、遠くの草むらを大きく揺らしていた。




