第5話
朝の冷気が岩肌を伝って降りてくるころ、ライゼンは目を覚ました。
まどろみから抜け出るのと同時に、右手の指先が長剣の鞘に触れている。周囲の灌木が風に擦れる音と、頭上の崖から落ちる小石の乾いた音を拾い、異常がないことを確かめてから身を起こした。
油布の天幕を留めていた四隅の丸石を退け、結び目を解く。布の表面に下りた夜露を手のひらで払い落とし、手際よく四つ折りに畳んで背負い袋の天蓋に縛り付けた。
火床の灰を小刀の先で掘り返し、熾火が完全に死んでいるのを確認する。組んでいた三つの石を崩して雑木林の元の場所へ戻し、踏み固めた砂地を靴底で均した。街道から見れば、ただの枯れ枝が散らばる岩陰にしか見えない。
背負い袋を担ぎ、街道へ出る。
荷の重みは昨日と変わらないが、肩当ての革が少し馴染み、鎖骨への当たりが落ち着いていた。空は薄青く晴れ、風は北から吹いている。雨の兆候はなかった。
平野へ向かって緩やかに下る白っぽい土の道を、日が高くなりかけるまで歩いた。
街道の先、両脇の麦畑が途切れたあたりに、灰色の板葺き屋根が身を寄せ合うように集まっているのが見えてきた。最初の宿場だった。
集落の入り口には、丸太を組んだ腰ほどの高さの防獣柵が左右に伸びていたが、門扉らしきものはなく、街道がそのまま宿場の中央通りへと吸い込まれていた。門番も立っていない。跳ね橋も堀もなく、馬や荷車が埃を巻き上げながら出入りしている。
通りへ踏み入ると、馬糞と湿った藁の匂いが鼻をついた。
道の両側には、車輪の修理場、蹄鉄を打つ鍛冶屋、干し草を積んだ馬宿が並んでいる。南へ向かう四頭立ての乗合馬車が一台、宿の前の広場に停まり、御者が手綱を解いて桶の水を馬に与えていた。荷車を引く人足やすれ違う旅人の足取りは速く、誰も立ち止まって他人の顔を覗き込もうとはしない。
ライゼンは歩きながら、通りの造りを目で追っていく。
宿場の長さは、端から端まで歩いて数百歩ほど。中央通りを真っ直ぐ抜ければ南の街道へ抜けられる。左右に分岐する小路はどれも浅く、二、三十歩で裏の畑や放牧地の柵に突き当たっていた。出入り口が絞られていない分、どこからでも外へ出られるが、遮蔽物になるような石壁はなく、建物はほとんどが板張りの平屋だった。
◇
宿場の中ほど、ひときわ天井の高い二階建ての建物の前に、木彫りのジョッキを吊るした看板が出ていた。
一階の引き戸は開け放たれ、中から脂の焼ける匂いと、大勢の男たちの話し声が通りまで漏れ出している。
敷居を跨ぐと、土間に敷き詰められた長卓はほとんど塞がっていた。
乗合馬車の客らしい毛織りの外套を着た商人たちや、泥のついた作業着を着た荷運び人足が肩を寄せ合い、素焼きの深皿に盛られた煮込みを木匙で掻き込んでいる。奥の厨房からは、鉄板に肉を叩きつけるジュウという音と、給仕の女が注文を怒鳴る声が絶え間なく響いていた。
ライゼンは入り口の引き戸の脇、土間の角にある二人掛けの小さな卓を見つけた。
背後には頑丈な太い柱があり、座れば店全体と出入り口の引き戸が視界の端に収まる位置だった。長剣を腰から外し、壁と椅子の脚の間に立てかける。邪魔にならず、なおかつ右手ですぐに柄を握れる角度に置いた。
エプロンで手を拭きながら通りかかった給仕に、手短に注文を出した。
「黒パンと、豆の煮込み。それと水だ」
「はいよ。すぐ出るよ」
給仕が厨房へ引っ込むと同時に、通りから日差しを背負って一人の少年が入ってきた。
土間の入り口で足を止め、混み合った客席をきょろきょろと見回している。
空いている席はどこにもなかった。少年の視線が土間を一周し、入り口脇のライゼンの卓で止まった。
少年が早足でこちらへ歩いてくる。
「あの、ここ、いいですか? 他、どこも空いてなくて」
ライゼンは卓の上の水差しに触れたまま、短く顎をしゃくった。
「構わん」
「助かります!」
少年は向かいの丸椅子を引き、勢いよく腰を下ろした。
◇
少年は十代半ばに見えた。
身につけている革の胸当ては、縫い目の糸も新しく、表面に擦り傷一つない。留め具の真鍮金具が窓からの光を反射して白く光っていた。腰に下げた細身の片手剣の鞘も、黒い染料が剥げておらず、革の匂いがまだ強く立っている。
だが、手元がぎこちない。
剣の柄に置かれた右手の指先は、革の手袋の中で強張っており、腰を下ろす際に鞘の先端が床板をカツンと叩いた。歩いてきたときの足取りも、爪先が先に落ちて踵が浮き気味で、泥や石ころのある街道を何日も歩き通してきた者の重心ではなかった。
そして何より、荷物が少なすぎた。
背負い袋の類いは持っておらず、肩から斜めに掛けた薄っぺらい布の雑嚢が一つ、腰の脇にぶら下がっているだけだった。天幕用の油布も、予備の靴底も、火打ち石の詰まった小袋の膨らみもない。水筒の革紐だけが、胸当ての上で所在なげに遊んでいた。
給仕の女が、ライゼンの卓に黒パンの塊と、塩気の利いた白豆の煮込みの皿を置いた。
それから少年に向き直る。
「あんたは何にするんだい」
「えっ、あ、ええと……」
少年は視線を泳がせ、壁の柱に打ち付けられた木札の品書きを見上げた。
山羊肉の炙り焼き、干し魚の粥、麦の酒。視線が上から下へと滑り、一番下に墨で書かれた文字のあたりで止まる。
「あの、一番安い麦粥って、いくらですか」
「銅貨二枚だよ」
「じゃ、じゃあ、その麦粥を一つ。あと、水をもらえますか」
「麦粥と水ね。相席の兄ちゃんが食べ終わる前には持ってくるよ」
給仕が踵を返すと、少年は卓の下に手を引っ込めた。
布の雑嚢の口を広げ、中から取り出した小さな革の巾着を膝の上で開けている。卓の縁の隙間から、チャリ、と鈍い金属音が二度、三度と聞こえた。
少年は巾着の口を広げたまま、人差し指で中身を引っ掻き回している。
手のひらに落ちてきたのは、角の丸くなった銅貨が数枚だけだった。銀の光は混じっていない。少年はその銅貨を指先で一枚ずつ並べ、唇をわずかに動かして数えると、息を吐きながら巾着の紐を固く引き絞った。
◇
ライゼンが木匙を取り、豆の煮込みに手をつけたときだった。
向かいの少年が、身を乗り出すようにしてこちらを見ていた。視線はライゼンの顔ではなく、肩の擦り切れた革鎧と、壁際に立てかけられた長剣の柄に注がれている。長剣の柄には、何千回と握り直されて変色した革紐が巻き付いていた。
「あの……」
少年が口を開いた。声が高い。
「旦那さん、冒険者ですよね?」
ライゼンは木匙を動かしたまま、目を上げなかった。
「……そう見えたか」
「見えますよ! その剣、すごく使い込んでるし、革鎧の肩のところ、矢か爪で引っ掻かれた跡があるじゃないですか。絶対そうだ」
少年は膝の上で両手を握り、椅子の端に腰を浮かせた。
「俺、エントって言います。十日ほど前にギルドに登録したばかりなんですけど」
エントはそう言うと、懐から薄い木の札を取り出し、誇らしげに卓の上に差し出してみせた。真新しい木札の表面には、まだ角の立った文字で登録番号が刻まれている。
ライゼンは黒パンの端を千切り、煮込みの汁に浸した。
「そうか」
「はい! で、ここに来れば仕事がたくさんあるって聞いて、乗合馬車の後ろに乗せてもらって来たんですけど……全然ダメで」
ライゼンが何も訊き返さないうちから、エントは勝手に言葉を継いだ。
「宿場の掲示板、見たんですけど、ロクな依頼がないんですよ。街道の側溝の泥浚いとか、馬宿の肥やし運びとか、そんなのばっかりで。冒険者らしい仕事って言ったら、北の林の野犬退治くらいしかなくて。一昨日、勇んで行ってみたんですけど、野犬ってあんなに足が速いんですね。草むらからいきなり飛び出してきて、剣を抜く暇もなくて……あ、危うく脛を噛まれるところでしたよ」
エントは自分の左の脛を叩いてみせた。ズボンの裾が少し擦り切れている。
「それで昨日なんか、薬草採りの依頼を受けたんです。図鑑の絵を頭に入れて丸一日林の中を探し回ったのに、似たような雑草しか生えてなくて。結局、一本も見つけられなくてギルドの出張所に手ぶらで帰ったら、受付の親父に『出直してこい』って笑われちゃって。この宿場の宿代、一泊で銅貨四枚もするんですよ? もう三日も泊まってるから、手持ちがどんどん減っちゃって……」
給仕が、湯気の立つ粗末な麦粥の椀と、濁った水の入った木の杯をエントの前に置いた。
「ほらよ、麦粥」
「あ、ありがとうございます」
エントは木匙を握ったが、食べるよりも先にまた口を開いた。
「旦那さんはどこから来たんですか? 北の大きな町ですか? これから南に行くんですか? 南の平野の先には城のある町があるって聞きましたけど、やっぱりそっちのほうがギルドの依頼も多いんですかね? 一人で旅してるんですか? 仲間はいないんですか?」
一度にいくつもの問いが飛んできた。
ライゼンはパンを咀嚼し、木の杯の水を喉に流し込んだ。冷たい水が胃の腑に落ちる。
「……さあな」
「さあなって、自分の行き先でしょう? あ、もしかして秘密の依頼とかですか? 商家の用心棒とか、お尋ね者の賞金首を追ってるとか!」
「ただの移動だ」
「移動って、どこへ?」
「決めてない」
「決めてないのに旅してるんですか? へえ、変わってますね。でも、その荷物の多さなら、どこでも野宿できそうだな。俺、天幕とか持ってなくて……宿に泊まるしかないから、金が持たなくて参ってるんです」
エントはようやく麦粥を一口すくって口に運んだが、熱さに舌を焼いたのか、息をハフハフと吐きながらすぐにまた喋り始めた。
「その剣、どのくらい使ってるんですか? 柄の革紐が真っ黒になってて、鞘の金具も擦り減ってて、すごいですよね。俺の剣なんて、ギルドの武器屋で一番安いやつを買ったから、振るとちょっと根元がガタつくんですよ。ほら、見てくださいよ」
エントが腰の剣を抜こうと柄に手をかけたので、ライゼンは視線だけで制した。
「店の中で抜くな」
「あ、すみません」
エントは縮こまって手を引っ込めたが、しおれた様子は一瞬で、すぐにまた木匙で粥をかき混ぜながら目を輝かせた。
「やっぱりベテランは違いますね。雰囲気がピリッとしてるっていうか。あ、そういえば旦那さんの名前、なんて言うんですか?」
ライゼンは答えず、最後の煮込みの豆を木匙ですくい取った。
皿の底に残った汁を黒パンの皮で綺麗に拭い、口へ放り込む。木の杯の水を飲み干し、卓の上に置いた。
懐から銅貨を摘み出し、飲食代の正確な枚数を卓の端に並べた。
エントは椀を持ったまま、きょとんとした顔でライゼンの手元を見ている。
「あの……?」
ライゼンは壁際から長剣を取り上げ、腰の帯に手際よく固定した。背負い袋の肩紐に両腕を通し、ぐっと背中へ引き上げる。天幕布の重みが肩の上に落ち、腰骨のあたりがしっかりと締まった。
「ごちそうさん」
厨房へ向かって短く声をかけ、ライゼンは丸椅子を引いて立ち上がった。
「あ、もう行くんですか?」
エントが粥の木匙をくわえたまま見上げてきた。
「え、ちょっと待って、旦那さんの名前は――」
ライゼンは足を止めず、入り口の引き戸へ向かって歩き出した。
背後でエントが何か言いかけ、椅子がギィと鳴る。だが、給仕の女が「おい、兄ちゃん、粥代まだもらってないよ!」と鋭く叫ぶ声に、その続きはかき消された。
外に出ると、正午の強い日差しが街道の白土に照り返している。
ライゼンは額の汗を手の甲で拭い、南へ続く中央通りの轍に沿って、一定の歩幅で歩き始めた。




