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行きがかりの英雄譚  作者: 水縒あわし
第1章 分かれ道

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第4話



 宿の部屋を引き払う準備を終えたあと、ライゼンは手ぶらで裏通りを出た。


 日暮れ前の通りは、家々の煙突から立ち上る薪の煙で青白くかすんでいた。鍛冶屋通りの裏手、石組みの古い平屋が並ぶ一角に足を踏み入れると、水路の泥の匂いに混じって、豆を煮る甘い匂いが漂ってくる。


 角から三軒目の家の前で、ハンスが土間に腰を下ろしていた。


 膝の間に木製の桶を挟み、古びた革靴の底を錐で突いている。その足元を、よちよち歩きの幼子が両手を広げて歩き回り、ハンスの太い脛にぶつかって尻餅をついた。ハンスは錐を止めることなく、空いた左手で子供の脇の下をひょいと持ち上げ、反対側の敷物の上に座らせた。その前腕の筋肉は、大盾を支えていたころの太さを残したまま、作業の煤で薄黒く汚れていた。



「ハンス」



 声をかけると、ハンスは顔を上げた。額に深い皺が寄り、西日を遮るように目を細める。



「ライゼンか。珍しいな、こんな時間に」


「明日、出る」



 ハンスの手が止まった。錐の先が、靴底の縫い目に刺さったまま動かない。



「明日か」


「朝の門が開いたら出る」



 ハンスは膝の上の桶をどかし、地面に手を突いて立ち上がった。上着の裾を払いながら、ライゼンの顔を真っ直ぐに見る。



「どこへ行く」


「まだ決めてない」


「決めてないのか」



 ハンスは短く息を吐いた。引き留めるような響きも、理由を問い質すような色もなかった。ただ、使い古した道具の減り具合を確かめるような目で、ライゼンの肩のあたりを一瞥した。



「……飯は食ったのか。うちで何か食っていくか」


「いや、宿に戻る。女将に鍵を返す段取りもある」


「そうか」



 ハンスはそれ以上何も言わず、足元で再び立ち上がろうとしていた子供の頭に手を置いた。大きな掌が、子供の頭をすっぽりと包み込む。



「気をつけて行けよ」


「ああ」



 ライゼンは軽く手を挙げ、背を向けた。背後で、靴底に錐を打ち込むトントンという乾いた音が再び始まり、通りを曲がるまで途切れずに響いていた。


◇


 翌朝、夜明けの鐘が鳴るのと同時に、ライゼンは部屋の扉を引いた。


 背負い袋の紐を両肩にかけ、長剣の重みを腰に落ち着かせる。薄暗い帳場に下りると、女将が竈の灰を掻き出しているところだった。


 卓の上に真鍮の部屋鍵を置いた。



「鍵だ。世話になった」



 女将は鉄の火掻き棒を持ったまま振り返り、鍵を一瞥した。



「忘れ物はないね」


「ない」


「はいよ。達者でやりな」



 それだけだった。


 外に出ると、朝の冷気が肌を刺した。通りにはまだ人影が少なく、荷車を引く人足が二、三人、白い息を吐きながら足早にすれ違っていくだけだった。


 町の南門へ向かって歩いた。


 高い石造りの門扉はすでに半分開け放たれ、街道へ出ようとする商人の荷馬車が二台、門番の検問を待って車輪を止めていた。


 その門脇の退避所に、四人が立っていた。


 ハンスは昨日と同じ厚手のウールの上着を着て、腕を組んでいた。その隣で、オットーは頭に布を巻き、大工の仕事着のまま腰に定規を差している。ベルタは買い物籠を肘に掛け、ギュンターは食堂の前掛けを外しただけの薄い上着を羽織り、壁に背中を預けていた。


 ライゼンが近づくと、オットーが先に口を開いた。



「間に合ったな。もう少しで親方にどやされるところだったぜ」


「仕事の前か」


「ああ、次の鐘で仕事に戻る。抜けてきたよ」



 ベルタが一歩前に出て、手に持っていた油紙の包みをライゼンの胸元へ押し付けてきた。ずしりと重みがある。



「ほら、持っていきな。塩漬けの肉と、乾燥させた白豆。それと油紙に包んだ粗塩だよ。底のほうに、傷薬の軟膏ときれいな当て布も入れてあるからね」


「……助かる」


「荷物の隙間に突っ込んどきなさい。街道の宿場なんて、ろくな飯が出ないんだから」



 ライゼンは背負い袋の留め金を外し、天幕布の脇の隙間に包みを押し込んだ。肩紐を引き直すと、増えた重みが鎖骨に深く食い込んだ。


 ギュンターが壁から身を起こし、ライゼンの腰回りに目をやった。



「弓は持たないのか」


「長剣と短剣で足りる」


「そうか。……まあ、無理すんなよ」


「ああ」



 ハンスが組んでいた腕を解き、一歩前に出た。



「金はあるのか」


「ある」


「ならいい」



 ハンスはライゼンの肩に手を置き、一度だけ強く叩いた。革当ての入った上着越しに、分厚い手のひらの重みが伝わってくる。



「達者でな」


「お前たちもな」



 それ以上の言葉は交わされなかった。


 門番が荷馬車を通し終え、ライゼンに手招きをした。ライゼンは懐からギルドの真鍮札を取り出し、門番の帳簿の上に提示した。門番が番号を書き留め、顎で外を指す。


 門をくぐり、跳ね橋の厚い板を踏んで堀を渡った。


 振り返ることはしなかった。背後で荷馬車の車輪がきしむ音と、町の鍛冶屋の槌音が低く響いていたが、堀を越えると土の匂いのほうが強くなった。


 門から百歩ほど進んだところで、街道が二つに分かれていた。


 右へ曲がる道は南の平野へ続き、左へ折れる道は南東の丘陵地帯を抜けていく。


 ライゼンは足元を見た。


 左の道は昨夜の露が深く残り、泥が黒く湿っていた。右の道は砂利が多く混じり、乾いた轍が白く締まっている。


 ライゼンは右の道を選び、歩幅を一定にして進んだ。


◇


 空は薄い雲に覆われ、太陽の輪郭は白くぼやけていた。風は西から吹き、街道の脇に生えた枯れ草をかすかに揺らしている。雨の匂いは混じっていなかった。


 街道の幅は荷馬車が二台すれ違える程度で、両側には背の低い灌木と浅い溝が続いていた。


 歩きながら、視線は自然と周囲の地形を拾っていた。


 右手には緩やかな土手が続き、見通しは利くが身を隠す場所が少ない。左手にはところどころに雨水で削られた涸れ沢が口を開けている。もし前方から騎馬や暴走した荷車が突っ込んできた場合、土手を駆け上がるよりも、左の沢へ滑り落ちたほうが死角に入りやすい。背後の草むらの切れ目、岩の配置、立ち木の影。


 背中の荷が、一歩ごとに肩を圧迫する。


 ハンスがまだ前に出ていたころは、野営用の天幕布は彼が背負っていた。大盾の裏側に括り付けられた厚手の油布はそれだけで相当な重量があったが、ハンスは何事もないように歩いていた。調理用の鉄鍋や予備の水筒はオットーの背嚢に下がり、ギュンターは獲物を括るための革紐や予備の弦を背負っていた。ライゼンが持っていたのは、砥石、手入れ油、索具、予備の金具といった細々とした消耗品と、全員分の非常食だった。


 今は、その油布も、小鍋も、水筒も、すべて一つの袋に収まっている。


 ベルタに渡された塩漬け肉の塊が、背中の中心でごつごつと当たっていた。ライゼンは歩みを止めず、右手で肩紐をわずかに外側へずらし、鎖骨の痛みを逃がした。


◇


 午後を過ぎ、太陽が右手の丘の端にかかるころ、影が街道の左側へ長く伸び始めた。


 ライゼンは歩調を緩め、街道を外れて左手の雑木林へ入った。


 五十歩ほど奥へ進んだところに、赤茶けた岩肌が露出した、人の背丈の倍ほどの小高い崖があった。


 立ち止まり、背負い袋を下ろさずに周囲を見回す。


 頭上の崖に浮き石はなく、崩れてくる気配はない。背後は完全に岩で塞がれ、風上からの突風も遮られている。正面には人の背丈ほどの低木が並んでおり、街道からの視線は完全に切れていた。足元は水はけのいい砂地で、湿気は上がってきていない。


 ライゼンは背負い袋を下ろし、岩肌に立てかけた。


 しばらく、正面の茂みを見ていた。枝の揺れる音はしない。


 腰の短剣を抜き、自分で灌木の隙間に入った。小枝の折れ跡や、土の崩れ具合を確かめる。人の足跡はなく、古い野兎の糞が散らばっているだけだった。


 崖の下に戻り、手頃な太さの枯れ枝を二本拾い集めた。


 小刀で枝の先端を平らに削り、油布の両端に開けられた穴に差し込む。地面に膝をつき、麻紐の端を引っ張って布に張りを持たせ、重石になりそうな手頃な丸石を四隅に据えた。


 一人で紐を張り、一人で石を運ぶ。布のたるみを直すために、表と裏を二度往復した。油布が風を孕んで小さく音を立てたが、四隅の石は動かなかった。


 天幕の脇、岩肌の窪みに石を三つ並べ、風よけの火床を作った。


 足元に散らばっていた乾いた松の枯れ葉を火種にし、その上に小指ほどの細い枯れ枝を組む。


 火打ち石を取り出し、鉄片を打ち付けた。カチ、カチと鋭い音が岩肌に反響する。三度目に飛んだ火花が枯れ葉の繊維に落ち、細い煙がひと筋、立ち上った。身をかがめ、息を細く吹き込むと、赤い火種がじわりと広がり、やがて小さな黄色の炎となって枝を舐めた。


 ライゼンは炎が消えないよう、少しずつ太い枝を足していった。


 背負い袋から小鍋を取り出し、水筒の水を半分注ぐ。鍋を組んだ石の上に据えると、すぐに底から細かな泡が浮き上がってきた。


 油紙を開くと塩漬けの豚肉は脂が白く固まっていた。小刀の先で薄く削ぎ落とし、親指の先ほどの大きさに切り分ける。昼の休みに水へ浸けておいた白豆をひとつかみ、湯の中に放り込んでいく。


 油紙の隅に包まれていた粗塩を二つまみ落とし、木匙でかき混ぜる。


 鍋は、片手鍋の小さなものだった。


 五人、あるいは三人で野営をしていたころに使っていたのは、ハンスの荷袋に入っていた真鍮の大きな深鍋だった。肉の塊を放り込み、道端で引っこ抜いた野蒜や野草を放り込み、水筒三杯分の水で煮立てていた。その鍋底を木匙で掻き回すのは、手の空いている者の役目だった。


 ぐつぐつと煮立つ音が、静かな岩陰に小さく響く。


 豆の皮が破れ、肉の脂が浮いてきたところで火から下ろした。


 木匙で掬って口に運ぶ。


 塩気は強く、肉は固かったが、温かい汁が喉を通ると胃のあたりが落ち着いた。


 一人分の量は少なかった。匙を十回ほど口へ運ぶと、小鍋の底の黒い鉄肌がもう見えていた。


 残った汁に乾いた堅パンを浸し、ふやかして噛み砕く。鍋肌についた脂をパンの切れ端で拭い取り、口に放り込んだ。


 水筒の残りの水をごくわずかだけ注ぎ、指先で鍋の底をこすって濯ぎ、地面の砂に捨てる。油布の端で鍋を拭き、背負い袋の脇に戻した。


◇


 日が完全に落ちると、周囲の輪郭は一気に闇に呑まれた。


 火床の薪は追加せず、燃え残りの熾火に灰を被せて光を殺した。煙が細く立ち上り、夜風に乗って崖の上へと消えていく。


 ライゼンは天幕の下に入り、砂地の上に敷布を広げた。


 上着を脱がずに横たわり、毛布を胸まで引き上げる。右手のすぐ脇、指を伸ばせば触れる位置に長剣を置いた。鞘の留め金は外し、いつでも刃が滑り出るようにしてある。


 かつてなら、この時間はまだ見張りの交代順を相談しているころだった。



「一番手は誰だ」「俺が立つ。ハンスは先に寝ろ」「砂時計二つで交代だぞ、寝過ごすなよ」



 ライゼンが見張りの時間を割り振り、夜半に交代の者を起こすために足の裏を小突いていた。自分が眠っている間も、天幕の外では誰かが薪をいじる音が微かに響き、その気配が途切れることはなかった。


 今は、交代の順番を決める必要も、誰かの肩を叩いて起こす必要もなかった。


 夜風が天幕の油布を叩き、バタ、バタと乾いた音を立てている。


 遠くの林の奥で、夜鳥が低く短く鳴いた。その声が消えると、あとは梢が擦れ合うざわめきだけが残った。


 灰の下の熾火が、時折パチと小さく爆ぜる。


 ライゼンは目を閉じ、耳だけを外の闇へ向けていた。


 身体の重みが敷布を通して砂地に沈んでいくのを感じながら、意識の半分を覚ましたまま、浅い呼吸を繰り返した。風の向きが変わるたびに、天幕の影がわずかに揺れていた。



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