第3話
東門から宿のある裏通りへ戻る道すがら、鍛冶屋通りを抜けて製材所の角を曲がったところで、木を削る鋭い音が聞こえてきた。
通りに面した作業場の土間が、大きく開け放たれている。
日除けの帆布の下に、大人の背丈の倍ほどもある松の角材が据えられていた。その脇に、頭に白い布を巻いた男が立っている。
オットーだった。
藍色に染めた麻の作業着を着て、胸当てのついた頑丈な前掛けを締めている。足元は底の厚い革靴ではなく、木底の作業靴だった。
オットーは両手で木製の平鉋を握り、腰を深く落としていた。
腕だけで引くのではなく、下半身の体重を後ろへ引きながら、一定の速さで鉋を手前へと滑らせる。シュッ、と小気味のいい摩擦音が響き、刃の背から透けるほど薄い木屑が、リボンのように丸まりながら吹き上がった。
角材の表面が、削られるたびに滑らかな白木の色を現していく。
オットーの額には汗が浮き、布の端が濡れて張り付いていた。街道の茂みで気配を消し、矢の届く距離を測っていたときと同じ、細く絞られた目が、材木の木目を真っ直ぐに見据えている。
奥の作業台から、親方らしい白髪の老人が声を張り上げた。
「おい、オットー! 節のところ、刃を寝かせろ! 引っ掛けると材が割れるぞ!」
「へい、分かってます!」
オットーは手元を止めずに怒鳴り返した。その声は通りまでよく響き、かすれもせず、淀みもなかった。
ライゼンは歩みを緩めることなく、作業場の前を通り過ぎた。
オットーの視線は角材の端から離れず、通りを歩く通行人の足元など最初から見ていなかった。鉋の削る一定の音が、背後で二度、三度と続き、やがて角を曲がると、風の音に紛れて聞こえなくなった。
◇
裏通りの宿の木戸を押すと、昼下がりの帳場は薄暗く、炭の爆ぜる匂いが漂っていた。
帳場の低い机の上で、老いた女将が針に糸を通そうとしていた。眼鏡の奥の目を細め、何度も糸の先を舐めている。
「お帰り」
ライゼンが土間に上がると、女将は顔を上げずに言った。
「早かったね。ギルドかい」
「ああ」
「はいよ。手桶の水は昼に入れ替えてあるから」
ライゼンが階段の昇り口に足をかけたとき、女将が糸の通った針を布に刺し、帳簿の端を指先で叩いた。
「あ、そうだ、ライゼンさん」
「何だ」
「部屋代のことだけどね。今月分が、明後日でちょうど切れるよ」
女将はめくった帳面の数字を指でなぞりながら、ライゼンを見上げた。
「来月もそのまま置いとくかい? 前払いで銀貨二枚。それとも、荷物は引き払うかい」
ライゼンは階段の一段目に置いた足の裏に、体重を預けたまま動かなかった。
腰の小銭袋が、太腿の横で冷たく重い。中には今朝稼いだ銅貨九枚と、これまでの依頼で残ったわずかな銀貨が入っている。
「……いい」
「いいって、どっちだい」
「更新はしない。明後日には部屋を空ける」
「そうかい」
女将は特に驚いた風もなく、帳面のライゼンの名の上に細い炭で斜めの線を引いた。
「なら、明後日の昼までに鍵を返しておくれ。次の当てがあるなら、早めに荷物をまとめておきなよ」
「ああ」
ライゼンは短い返事をして、軋む階段を上がった。
◇
部屋に入り、鎧戸を開けると、傾き始めた太陽の赤い光が細長く床に差し込んだ。
ライゼンは上着を脱ぎ、革鎧を解いて床に置いた。
腰の小銭袋を解き、中身を木机の上にぶちまける。
銀貨が十二枚。銅貨が四十枚ほど。机の木目の上に散らばった硬貨を、指先で一枚ずつ整列させた。
今朝のような仕事は、この町ではもう立ち行かない。
知っている者のいない別の町へ行けば、ただの単独の冒険者として扱われる。
誰もハンスの盾の話はしないし、オットーの身軽さを引き合いに出すこともない。貼り出された依頼を一人で引き抜き、一人で片付け、決まった報酬を受け取って宿に帰る。それだけで済む。
宿の期限も、明後日で切れる。
荷物は背負い袋一つと、長剣と、手入れ用の油と砥石だけだ。引き払うのに大した時間はかからない。
別の町へ行くのが、一番手数が少なかった。
机の上の硬貨を袋に戻し、紐を引いて縛った。ライゼンは床板の一枚を外し、奥から布に包んだ金貨の包みを取り出すと、背負い袋の底、予備の靴底の間に押し込んだ。
◇
翌朝、ライゼンは再びギルドの扉を押した。
時間は昨日の朝よりも遅く、広間にはすでに多くの冒険者が集まり、掲示板の前で大声で打ち合わせをしていた。
ライゼンは掲示板には目もくれず、帳場の格子窓へ真っ直ぐに向かった。
窓口の奥には、昨日と同じ初老の受付役が座っていた。羽ペンで羊皮紙に何かを書き込んでいたが、ライゼンが前に立つと、眼鏡をずり上げて顔を見上げた。
「ライゼンさん。昨日の倉庫の件、番頭から完了の控えが届いていましたよ。手際が良かったと褒めていました」
「それはいい」
ライゼンは懐から、真鍮製の平たい札を取り出した。
親指の爪ほどの厚みがある板の表面には、ライゼンの名と、ギルドの登録番号、そして所属等級を示す三本の筋が刻まれている。長年握り込んできたせいで、角が丸く擦り減っていた。
その札を、格子の下の小窓から差し出した。
「登録を抹消したい」
受付の手が止まった。
羽ペンから落ちたインクの滴が、手元の紙に丸い黒い染みを作った。受付はそれを吸い取り紙で拭おうともせず、卓の上の真鍮札と、ライゼンの顔を凝視した。
「……籍を、抜くんですか?」
「そうだ。手続きをしてくれ」
受付は真鍮札を取り上げず、指先で弾くように押し戻してきた。
「待ってください。もったいないですよ、ライゼンさん」
「何がだ」
「この町で十何年、真面目に依頼をこなして積み上げてきた等級ですよ。これを今ここで返上したら、あんたの冒険者としての記録は全部白紙になります。二度と元には戻せません」
「この町で受ける仕事はもうない」
「他の町へ行かれるとしても同じです」
受付は身を乗り出し、格子に顔を近づけて声を低くした。
「ギルドの証札は、王国内のどこの支部に持って行ってもそのまま使えます。この真鍮の三本筋があれば、初めて入った見知らぬ町でも、初日から街道の護衛や商家の用心棒といった実入りのいい仕事がすぐに回してもらえる。それをわざわざ捨てて、一から駆け出しの青札で登録し直す気ですか? 若い連中に混じって、荷運びの雑用から始めるつもりですか」
「……」
「籍を残したまま町を出ればいいだけの話です。更新の手数料だって、年に銀貨一枚払えば維持できる。依頼を受けなくたって、籍は消えやしません。札は持っていきなさい」
受付は真鍮の札を指で掴み、ライゼンの胸元へ強く押し返した。
机の上を滑ってきた冷たい金属が、ライゼンの手のひらに当たる。
言っていることは、しっかり筋が通っていた。
身分を証明するものが何もない状態で別の町のギルドに入れば、腕前を確かめるための審査を受けさせられるか、あるいは足元を見られて安い依頼しか回されない。この札が一枚あれば、余計な手間をかけずに仕事を選べる。
抹消しなければならない積極的な理由は、何一つなかった。
「……そうだな」
ライゼンは札を取り上げ、懐の奥へと滑り込ませた。
「休業にしておいてくれ」
「ええ、そうしておきます」
受付はほっとしたように息を吐き、ようやく羽ペンを持ち直して帳簿の隅に『休業』と小さく書き留めた。
「どこへ行くか、行き先は決まっているんですか?」
「いや」
「そうですか。まあ、身体には気をつけてください」
受付はそれ以上引き留めなかった。
ライゼンは軽く頷き、踵を返してギルドの扉へ向かった。
広間の中では、若い冒険者たちが「北の峠道にゴブリンが出たらしい」「誰か盾役をもう一人探そう」と騒ぎ合っていた。その声の隙間をすり抜け、ライゼンは外へ出た。
空は高く晴れ上がっていたが、風にはかすかに埃の匂いが混じっていた。
どこへ向かうかは決めていない。どの道を行くかは、門を出てからの足の向き次第だった。
ライゼンは宿へ向かって歩き出した。荷物を背負い袋に詰める時間は、まだ半日残っていた。




