第2話
ギュンターの婚礼から三日が過ぎていた。
朝の光が石畳の半分を白く染め、残りの半分に建物の黒い影を落としている。通りを行き交う荷車がきしむ音に混じって、水桶を運ぶ下働きの少年の木靴が、濡れた石を叩いていた。
ライゼンは革鎧の胸紐を締め直し、腰の帯に短剣の鞘を固定した。長剣の重みが左の腰骨に馴染む位置を指先で探り、慣れた歩幅でギルドの正面階段を上がった。
両開きの厚い樫の扉を押すと、冷えた土と濡れた羊皮紙の匂いが鼻をつく。朝の早い時間帯だが、広間にはすでに二十人ほどの男たちが屯していた。中央の掲示板の前に固まっているのは、革の縁取りがまだ新しい肩当てを着けた十代半ばの駆け出し連中だ。
ライゼンが土間に踏み込むと、掲示板の脇で小刀の先で爪の垢をほじっていた中年の男が顔を上げた。
「おう、ライゼンさん」
男は顎をしゃくった。
「今日は早いな。……あれ、ハンスの旦那は一緒じゃねえのか」
「別だ」
「そうかい。あ、そうだ、ギュンターのやつ、ヘレナのところの婚礼、無事に済んだんだってな。町役場の書記が言ってたぜ。あいつもとうとう落ち着いたか」
「ああ」
それ以上言葉を継がず、ライゼンは男の脇をすり抜けて掲示板の端へ向かった。
板の表面には、無数の鉄鋲で依頼書が留められている。一番広い中央の区画を占めているのは、街道の定期警護と、東の丘陵地帯に入り込んだ野犬の群れの駆除だった。どちらの羊皮紙にも、右肩に黒いインクで『推奨四人以上』あるいは『武装歩兵および弓手を含むこと』と太い文字で殴り書きされている。報酬は銀貨二十枚から四十枚。かつてライゼンたちが日常的に引き抜いていた類いの紙だ。
ライゼンの視線は、そこを素通りして掲示板の一番下、床板に近い隅の小さな区画に落ちた。
湿気で端が丸まった数枚の紙が、錆びた鋲で雑に留められている。
『裏通りの井戸、泥浚い。日当銅貨八枚』
『西門外の薬草園、下草刈りおよび囲い柵の補修。手当て銅貨十二枚』
『穀物倉庫、害獣駆除。成果払い、一匹につき銅貨一枚、巣の始末込みで銅貨五枚』
どれも一人用の仕事だった。紙の余白には『資格不問』『武器携行可』とだけ小さく添えられている。銀貨の文字はどこにもない。
一番手前にあった倉庫の紙を指先でつまみ、鋲を抜いた。
帳場の仕切り板の向こうへ歩を進めると、木製の格子の隙間から、帳簿をつけていた初老の受付役が眼鏡を押し上げた。
「ライゼンさん。珍しいですね、そんな朝早くに」
受付はライゼンが差し出した紙を受け取り、裏面の受付印を確かめる。それから卓の上の帳簿をめくり、ペンをインク壺に浸した。
「……これですか? 倉庫の鼠退治」
「ああ」
「ライゼンさんのところの仕事じゃないでしょう。何か、若手に手伝わせるためですか?」
「いや。俺一人だ」
受付のペンが、紙の上で一瞬止まった。
「一人で、これを受けるんですか?」
「何か問題があるか」
「いえ、規則上の問題はありませんが……」
受付は困ったように眉尻を下げ、ライゼンの腰に下がった長剣と、手入れの行き届いた革鎧の肩口に視線を走らせた。
「その、ライゼンさんたち〈五本指〉の等級なら、東の街道護衛の枠が一つ空いていますが。先週、商家の組合から指名が入っていましたよ。ハンスさんが盾を立てて、ギュンターさんが後ろから射れば、半日で片がつく距離です」
「あれはもう受けない」
「……そうですか」
受付はそれ以上何も言わず、帳簿に日付とライゼンの名を書き入れた。インクを吸い取り紙で押さえ、依頼書の半券を切り取って突き出してくる。
「場所は東門の脇、三番倉庫です。依頼主の穀物問屋の番頭が朝から詰めています。道具は自前で手配してください」
「分かった」
半券を受け取り、懐に突っ込んだ。
背後で、掲示板の前にいた若い連中が「ライゼンさんのところ、本当に解散したのかよ」「ハンスの親父、子供ができたからな」と小声で囁き合うのが耳に入ったが、ライゼンは振り返らずにギルドの引き戸を引いた。
◇
東門の脇に並ぶ倉庫街は、挽き割り麦の埃と古い土壁の匂いが澱んでいた。
三番倉庫の前に立つと、分厚い荷車用の板戸が半分だけ開いており、中で荷縄を巻いていた痩せた男が顔を出した。前掛けの腹のあたりが粉で白く汚れている。
「ギルドから来た」
ライゼンが半券を見せると、男は眉をひそめて紙とライゼンの顔を交互に見比べた。
「……あんたが? 一人で?」
「そうだ」
「いや、ギルドには『手が空いてるやつを寄越してくれ』とは言ったが……あんた、ライゼンさんだろう。あの、ハンスさんたちとやってる」
「一人で受けてきた。仕事の中身に変わりはあるか」
「いや、そりゃあねえが……」
番頭は首を傾げながら、半分開いた戸をさらに押し広げた。
「入ってくれ。見ての通り、奥の壁際にある燕麦の俵がやられてるんだ。先週あたりから夜中にガタガタ音がしてな。今朝見たら、袋の底に握り拳大の穴が開いて、中身が床一面に散らばってた。この時期に俵を破られちゃ商売にならねえ」
倉庫の中は薄暗く、天井の明かり取りから射し込む光の筋の中に、細かな埃が舞っていた。壁際に積まれた俵は高さ三層。床板の継ぎ目には、こぼれ落ちた麦の粒と、麦粒ほどの黒い糞が点々と散らばっている。
ライゼンは長剣を鞘ごと外し、壁際に立てかけた。代わりに腰の裏から、刃渡りが掌ひとつ半ほどの使い古した解体用の小刀を抜き、手元の巾着から短い鉄の鉤爪を取り出した。
「梁の上に登る。梯子はあるか」
「奥の隅にあるが……本当に一人でいいのかい? ほら、ライゼンさんのところの足の速いやつ、オットーさんだっけか。あの人なら、こういう隙間に潜り込むのは得意だろうに」
「あいつは今日、大工の仕事がある」
「へえ、大工ねえ……。まあいいや、頼んだよ。俺は表の帳場で荷改めをしてるから、終わったら声をかけてくれ」
番頭は肩をすくめ、外へ出ていった。
引き戸が重い音を立てて閉まり、倉庫の中の光が一段落ちる。
ライゼンは足元の床板を小刀の柄で軽く叩き、空洞の響きを確かめた。四隅の柱の根元、土台の石と木材の間に親指が入るほどの隙間がある。木肌が新しく削れた跡と、油じみた黒い汚れが擦りつけられていた。通り道だ。
奥から木製の梯子を引きずり出し、梁に立てかけた。
横木を三段登り、梁の上に身を滑り込ませる。屋根裏の熱気が頭頂部にまとわりつき、乾いた埃が喉を刺激した。梁の角には古い蜘蛛の巣が張り巡らされ、その奥、桁と垂木が交差する暗がりに、藁屑と噛み砕かれた麻袋の繊維が丸く固められていた。
巣だ。
ライゼンは鉤爪を伸ばし、巣の塊を静かに引き寄せた。中にいた赤黒い幼獣が数匹、もぞもぞと動く。小刀の背で迷いなく叩き潰し、用意してきた油紙の上に落として包んだ。
親の気配は梁の上にはない。床下だ。
梯子を降り、足音を忍ばせて俵の山の裏側に回り込んだ。一番下の段、壁との間にわずかな隙間がある。ライゼンは床に片膝をつき、呼吸を止めた。
二分ほど待つと、床板の節穴から、濡れた鼻先が覗いた。
灰色がかった茶色の毛並み、掌ほどの大きさがある溝鼠だ。鼻をひくつかせ、こぼれた麦粒に前足を伸ばした瞬間、ライゼンは左手の鉤爪を床板に打ち込み、逃げ道を塞いだ。驚いて跳ね上がった鼠の頭部を、右手の小刀の峰で正確に床へ叩きつける。
骨の折れる鈍い音が小さく響き、鼠は四肢を痙攣させて動かなくなった。
同じ作業を、四隅の柱と俵の隙間で繰り返す。三匹目を仕留めたところで、四匹目が壁の隙間へ逃げ込もうとした。投げた木片が背に当たり、足が止まったところを小刀で仕留めた。
道具袋から取り出した木片と鉄鋲を使い、床板の節穴と通気口の網の破れを塞いでいく。金槌で鋲を打ち込む硬い音が、誰もいない倉庫の天井に反響した。
床に散らばった麦の粒を箒で掃き集め、隅の木箱に入れる。すべての作業が終わるまでに、砂時計で三つほどの時間が過ぎていた。
表の帳場へ行くと、番頭が干し肉を齧りながら送り状の束をめくっていた。
ライゼンは油紙で包んだ鼠の死骸と、巣の残骸を土間に置いた。
「親が四匹、巣が一つ。隙間は全部塞いだ。当面は入らない」
番頭は干し肉を口から離し、油紙の中身を一瞥した。
「……ほう、早いな。さすがに手際がいい」
番頭は立ち上がり、帳場の引き出しから革袋を取り出した。紐を解き、中から小銭を摘み出す。
「親が四匹で四枚、巣が一つで五枚。全部で銅貨九枚だな」
差し出された手のひらの上に、黒ずんだ銅貨が九枚、重ねて置かれた。
ライゼンはそれを受け取り、腰の小銭袋に流し込んだ。硬貨同士がぶつかるカチリという音が、小さく鳴る。
「悪かったな、ライゼンさん」
番頭は引き出しを閉めながら、どこか気の毒そうな顔で笑った。
「こんな半端仕事に、あんたみたいな腕利きを引っ張り出してよ。ハンスさんやギュンターさんにも、よろしく言っといてくれ。また何か大きな荷運びがあったら、ギルドを通して声をかけるかもしれんから」
「ああ」
ライゼンは壁際から長剣を取り上げ、腰に吊り直した。
「もう、あいつらは来ない」
「え?」
「何でもない」
それだけ言って、ライゼンは倉庫の敷居を跨いだ。背後で番頭が何か言いかけた気配がしたが、板戸が引かれる音にかき消された。




