第1話
集会所の土間に据えられた長い卓には、猪の炙り肉と酢漬けのキャベツが山盛りにされ、陶器の壺から注がれる葡萄酒の甘酸っぱい匂いが立ち込めていた。
町役場の書記や麦粉を挽く水車の親方、仕立屋の女房たちが入り乱れ、杯を掲げては花婿の名を叫んでいる。その輪の真ん中で、薄青い祝帯を肩から斜めに掛けたオットーが、義父となった大工の頭領に肩を叩かれながら、赤くなった顔をほころばせていた。
ライゼンは、入り口の引き戸から三歩ほど離れた壁の角に背をつけていた。
ここは広間全体が見渡せ、なおかつ誰かが外から入ってきても、あるいは外へ出ようとしても、人の背中に遮られずに扉の閂へ手が届く位置だった。背後の板壁には寄りかかりすぎず、足の裏にはいつでも体重を移せる程度の隙間をあけてある。無意識に取ったその立ち位置に気がつき、ライゼンは土間に下ろした爪先をわずかに引いた。今の腰回りには、革の鞘も、使い慣れた短剣の柄もない。腰帯にぶら下がっているのは、町の祭礼用に貸し出された真鍮の留め具がついた小銭袋だけだった。
卓の向こうから、ハンスが歩いてくるのが見えた。
仕立てのいい灰色のウールの上着を着ている。肩幅は相変わらず広いが、かつて鉄の肩当てを固定するために革紐を食い込ませていたあたりは、布地の皺がふわりと余っていた。胸当てを外した胴回りは、ここ数年で一回り厚みを増している。それは筋肉の張りというより、日々の黒パンと家人の作る煮込みが蓄えた肉の重みだった。
「おい、ライゼン。こんな隅で何をしている」
ハンスが手にした二つの素焼きの杯のうち、一つを突き出してきた。受け取ると、ぬるくなった葡萄酒が揺れて指先に散った。
「狭いところのほうが落ち着く」
「相変わらずだな」
ハンスは笑って、自分の杯をあおった。髭を綺麗に刈り込んでいる。以前は野営のたびに小刀の背で適当に削ぎ落としていたものだが、今は頬の剃り跡まで滑らかだった。
卓のほうから、ベルタの笑い声が響いてきた。
水色のエプロンを外したベルタは、濃紺の揃いの祝着を着て、花嫁の母親と言葉を交わしていた。銀の混じり始めた髪を丁寧に編み込み、鼈甲の櫛で留めている。かつて包帯の切れ端や乾燥させた薬草を詰めていた腰袋の代わりに、小奇麗な刺繍の施された巾着が揺れていた。花嫁の肩に置かれたベルタの手は、傷口を裂いて膿を絞り出していたころの荒々しさを削ぎ落とし、ただの世話好きな年長の女のそれに見えた。
その少し後ろで、ギュンターが柱に寄りかかっていた。
革の胴着は着ていない。袖の短い亜麻布のシャツに、煤けた茶色の上着を羽織っている。右手の指先が、無意識に左の肘のあたりを叩いていた。弓の弦を引き絞る時に使う革の手袋は外されており、節くれだった指の関節だけが白く浮いている。
オットーが花嫁の手を引いて親族の輪を抜け出し、こちらへやってきた。
「ライゼン、飲んでるか」
オットーの顔には、宴が始まってからずっと張り付いている締まりのない笑みが残っていた。身軽な革鎧を着て、街道の轍にしゃがみこみ、泥の乾き具合を指でなぞっていたときの、あの鋭くすぼめられた目つきはどこにもなかった。
「飲んでるよ。いい式だったな」
「親父さんがな、頑固で参ったよ。式の間ずっと睨まれてた。まあ、明日からはあの作業場で鉋を引かなきゃならねえんだがな」
オットーは困ったように頭を掻いたが、その声に焦りや苛立ちは微塵もなかった。
◇
親族たちが引き揚げ、町の楽士たちも楽器を袋に収め始めたころ、集会所の片隅の卓に五人だけが残った。
散らかった骨の皿と、底に澱の溜まったジョッキがいくつか転がっている。ハンスが卓の端に手をつき、椅子の背にもたれかかった。
「これで、三人か」
ハンスが低く言った。
ベルタが、卓の上に散らばったパン屑を指先で集めながら、小さく頷いた。
「うちの上のやつも、もう鍛冶屋の徒弟に入って三年になるよ。下がまだ手がかかるけどね。ハンスのところは、二人目が歩き始めたんだろ?」
「先週からな。家中ひっくり返されて敵わん」
ハンスはぼやいてみせたが、口元は緩んでいた。
「オットーも、大工の仕事なら当面は食うに困らんだろう。冬場は山に入って木を伐り出すらしいが、街道の草むらを這い回るよりは、いくらか足元もしっかりしてる」
「そりゃあな」
オットーがジョッキの残りを飲み干した。
「夜中に交代で寝ずの番をしなくていいってだけで、十分すぎるくらいだ。屋根があって、扉に閂がかかってて、朝まで眠れる。……もう、あんなところには戻れねえよ」
「戻る必要もないさ」
ベルタが言った。
「みんな、もう四十を越えたんだ。足首も膝も、雨の前の日には決まって疼くだろう? 若い頃と同じように跳べるわけがないんだから」
五人の視線が、なんとなく卓の中央に落ちた。
ライゼンの左膝も、雨の前の晩には決まって鈍く疼く。
否定する言葉は、誰の口からも出なかった。
「ハンスが抜けて、ベルタが町に残って、オットーが今日で所帯持ちだ」
ギュンターが卓の縁を爪で軽く叩きながら言った。その視線は、向かいに座るライゼンに向けられていた。
「……ライゼン。お前、これからどうするんだ」
ハンスも、ベルタも、オットーも、顔を上げてライゼンを見た。
問い詰めるような調子ではなかった。ただ、順番が回ってきたとでもいうような目だった。
ライゼンは自分の前にある素焼きの杯を見つめた。葡萄酒の赤い表面に、天井から吊るされたランプの油火が小さく映っている。
「まだ、決めてない」
「ギルドの仕事も、もうこの町じゃ大したものは出ないぞ」
ハンスが言った。
「街道の荷馬車の護衛くらいなら、若い連中がいくらでもいる。腕の立つ古株を一人雇う金で、駆け出しが二人雇えるからな。商人も馬鹿じゃない」
「分かってる」
「宿の部屋はどうしてるんだ。まだあの裏通りの宿か?」
ベルタが訊いた。
「ああ。今月いっぱいは払ってある」
「なら、焦ることはないけどね」
ベルタはそう言って、卓の上のパン屑を手のひらに集め、床に落とした。それ以上、誰もライゼンの今後に踏み込んでこようとはしなかった。
◇
夜風が冷たくなってきたころ、五人は集会所の表に出た。
空には薄い雲がかかり、月の輪郭がぼやけている。通りの両側に並ぶ石造りの家々は、すでに雨戸を固く閉ざし、漏れる明かりも少なかった。
「じゃあな、オットー。嫁さんを泣かせるなよ」
ハンスがオットーの肩を抱くようにして叩いた。
「ハンスこそ、あんまり太るなよ。昔の鎧が入らなくなるぞ」
「もう入らんよ。あれは納屋の隅で油を塗って転がしてある」
ハンスは短く笑い、ベルタと一緒に通りの北側へと歩き出した。ベルタが一度だけ振り返り、軽く手を振った。オットーは花嫁の待つ家の方角へ、少し急ぎ足で去っていった。その背中は、以前の身軽な歩き方とは違い、踵をしっかりと地面に下ろす、この町の人間の歩き方になっていた。
通りには、ライゼンとギュンターの二人だけが残された。
石畳の隙間から生えた雑草が、夜風に揺れて微かな音を立てている。
「……もう一杯だけ、行くか」
ギュンターが言った。
ライゼンはギュンターの顔を見た。右の眉がわずかに下がり、視線が足元の石畳を彷徨っている。
「どこへ行く」
「裏通りの、あそこだ。まだ開いてるだろ」
ライゼンは頷き、二人で無言のまま歩き出した。
◇
移った先は、鍛冶屋通りの突き当たりにある、看板も出していない小さな居酒屋だった。
客はまばらで、奥の長椅子で老人が一人、突っ伏して寝息を立てている。煤けた梁から吊るされた油煙の立ち込めるランプが、黄色い光を落としていた。
二人は入り口から離れた、一番低い天井の下の卓に座った。
店主が無言で置いていったのは、蕪の塩漬けの小鉢と、泡の立たない黒ビールを注いだ木製のジョッキが二つだけだった。
ギュンターは運ばれてきたジョッキを掴むと、喉を鳴らして半分ほどを一気に干した。それからジョッキを卓に置いたが、取っ手を握った指を離そうとしない。
ライゼンは口をつけず、ギュンターの手元を見ていた。
ギュンターの親指の付け根には、弓の握り革で擦り切れて硬くなった古いたこがある。だが、その爪の間は綺麗に洗われており、爪先も短く切り揃えられていた。以前のギュンターなら、野営の煤や矢羽の脂が爪の間に染み付いて、黒ずんでいるのが当たり前だった。
「……おい」
ギュンターが低く言った。
「何だ」
ギュンターはジョッキの縁を見つめたまま、視線を上げなかった。
「オットーのやつ、案外いい顔してたな」
「そうだな」
「大工の親父に頭下げて、町役場の書記に酒を注いで回ってよ。あんなこと、昔のあいつなら舌を噛み切ってもやらなかったはずだ」
「暮らしが変われば、やることも変わるさ」
「……そうだな」
ギュンターは短く相槌を打つと、残りの黒ビールを飲み干した。木製のジョッキが底をつき、卓の上でコトと乾いた音を立てる。
店の中では、奥の老人の高い鼾だけが聞こえていた。換気口の隙間から吹き込む風が、ランプの炎をちろちろと揺らし、壁に落ちた二人の影をわずかに歪める。
ギュンターが深く息を吸い込み、吐き出した。
「ライゼン」
「ああ」
「俺も、身を固めることにした」
ライゼンは動かなかった。手元のジョッキに触れていた指先も、そのままの位置に置かれていた。
「……ヘレナとか」
ギュンターが、ようやく視線を持ち上げた。その目は、獲物を狙うときの冷たい集中力とはまったく別の、どこか気まずそうに、相手の反応を窺う色を帯びていた。
「ああ。話が、まとまった」
以前から、何度も聞いていた話だった。
野営の火の番をしている最中や、獲物を解体した後の河原で、ギュンターがぽつりぽつりと漏らしていたことだった。あの食堂の仕込みの話や、買い出しの荷運びを手伝った話、市場の親類連中の評判。ライゼンはそのたびに、薪をくべながら相槌を打っていた。
「店を、手伝うのか」
「朝の仕入れと、肉の解体だな。重いものを運ぶのは、女手じゃきついらしい。……厨房に入る気はねえが、裏の片付けくらいなら、俺でもできる」
ギュンターはそう言って、苦笑いを浮かべようとした。だが口元が引きつっただけで、すぐに元の真面目な顔に戻った。
「これで、お前一人だな」
その言葉には、責めるような響きも、哀れむような調子もなかった。ただ、数える指が五本から四本になり、三本になり、二本になり、最後に一本だけが残ったという、帳簿の数字を読み上げるような平坦さがあった。
「そうだな」
ライゼンは短く返した。
「……悪かったな」
「何がだ」
「いや」
ギュンターは視線を落とし、空になったジョッキの底を指先でなぞった。
「何でもない」
それ以上、ヘレナのことも、食堂のことも、ギュンターは語らなかった。ライゼンも何も訊かなかった。二人は追加の酒を頼むこともなく、しばらくの間、ランプの油がはぜる音だけを聞いていた。
◇
店を出ると、夜気はいっそう冷え込んでいた。
大通りの角で、ギュンターが立ち止まった。
「俺は、こっちだ」
指さした先は、町の中心へ向かう道ではなく、食堂のある南の区画へ続く細い路地だった。
「ああ」
「……じゃあな、ライゼン」
「ああ。またな」
ギュンターは軽く手を挙げ、背を向けて歩き出した。その足取りは急ぐ風でもなく、迷う風でもなく、ただ暗い路地の奥へと真っ直ぐに吸い込まれていった。角を曲がると、靴音が一度だけ遠くで響き、それから完全に消えた。
ライゼンは一人、通りの真ん中に立っていた。
風が埃を巻き上げ、足元を抜けていく。
歩き慣れた石畳を、宿のある裏通りへ向かって進んだ。自分の靴底が石を叩く硬い音が、夜の通りに一定の間隔で落ちる。
右手の指先が、自然と腰の横に触れた。そこには革の鞘も、使い慣れた短剣の柄もない。祭礼用の真鍮の留め具がついた小銭袋が、歩くたびに太腿の上で軽く跳ねるだけだった。
宿の木戸を押すと、軋んだ音が鳴り、帳場の薄暗いランプの光が土間に漏れた。
「お帰りかい」
帳場の奥から、宿の老婆の声がした。
「ああ」
「手桶に水、汲んであるよ」
「助かる」
階段を上り、廊下の突き当たりにある自分の部屋の鍵を開けた。
部屋の中は冷え切っていた。窓の鎧戸の隙間から、青白い月明かりが一筋だけ床に落ちている。
ライゼンは上着を脱ぎ、寝台の端に腰を下ろした。
手桶の水を一杯、木椀に注いで一気に飲み干す。冷たい水が喉を通り、胃の底に落ちていく感触だけがはっきりとあった。
腰帯を解き、小銭袋を卓の上に置いた。乾いた音が部屋の中に響く。
寝台の上に置かれた革の背負い袋には、予備の靴底と、油を引いた布、砥石、火打ち石が詰まったままだ。壁に立てかけられた鉄の長剣の鞘には、擦り切れた革紐が巻かれている。
ライゼンは両手を膝の上に置き、暗がりの中で床の木目を見つめた。
明日も、この町には朝が来る。市場には荷馬車が着き、オットーは大工の作業場で鉋を引くだろう。ハンスは子供の手を引いて通りを歩き、ギュンターは食堂の裏で肉の塊を切り分けるはずだった。
これから、どうするか。
その問いは、頭の片隅に浮かび上がっては、何の輪郭も結ばずにそのまま薄れていった。
鎧戸の外で、遠く犬の吠える声が聞こえた。それもすぐに途切れ、ただ夜風が屋根瓦を揺らす音だけが残った。
ライゼンは靴を脱ぐと、寝台の上に身を横たえ、暗い天井を見上げた。答えは出ず、眠気も訪れなかった。ただ冷たい夜の重みだけが、部屋の隅々を満たしていた。




