プロローグ
夜の酒場は、熱気と脂の匂いで満ちていた。
木造りの頑丈な引き戸が開くたびに外の冷たい風が足元を這ったが、それはすぐに羊肉を炙る油煙と、安酒の酸っぱい匂いに呑まれて消える。詰めて座らされた長椅子では、肩と肩がぶつかり、陶器のジョッキが叩きつけられる音が絶え間なく響いていた。
中央の丸柱の脇、樽を二つ並べて板を渡しただけの粗末な台の上に、吟遊詩人が一人立っていた。
背負い袋を下ろし、擦り切れた外套の裾を払う。手にした木製の撥弦楽器の胴には、無数の細かい傷がついていた。詩人が弦を一本、爪の先で弾いた。
びぃん、と鈍い音が低く鳴り、周囲の話し声の隙間に落ちる。誰もすぐには振り向かない。詩人は気に留める風もなく、もう一度、今度は指の腹で三本の弦を同時に掻き鳴らした。
乾いた音が天井の梁に跳ね返る。
詩人は顎を引き、息を吸い込んだ。喉を鳴らして発せられた声は、雑踏の底を割るように太く通っていた。
その名は風を越えて山を渡り
その剣は暗雲を裂いて朝を呼ぶ
都の広場に旗は翻り
門をくぐる若き英雄を
民の歓呼が天へと押し上げる
近くの卓でサイコロを振っていた工夫風の男たちが、手を止めて顔を上げた。ジョッキを運んでいた給仕の女が足を緩め、空の皿を胸に抱えたまま、柱の脇の吟遊詩人に目をやる。
詩人は視線を誰の顔にも合わせず、酒場の薄暗い天井あたりを見据えたまま、軽快に弦を弾き続けた。
遠き地の王は宝剣を贈り
誉れ高き諸侯は杯を捧ぐ
国中がその武勇を讃え
若き英雄の歩む道に
ただの一片の影もなしと
「おいおい、またあの歌かよ」
壁際の席から、赤ら顔の男が笑い声を上げた。隣の男の肩を小突き、泡の消えかけた酒を呷る。
「どこの町に行ってもそれだ。このひと月で三度も聞いたぞ」
「いいじゃねえか、景気がよくてよ。都じゃ本当に金貨がばら撒かれたらしいぜ」
「嘘を言え。そんな話があるか」
口々に野次が飛んだが、詩人は眉ひとつ動かさなかった。弦を押さえる指先が拍子を変え、軽快だった調べがふっと緩む。低音の弦が引き摺るように鳴り、歌の調子が一段落ちた。
だが振り仰ぐ栄光の頂きにも
かつては踏み出す足元しかなかった
輝く鎧を纏う前のこと
重き剣を振るう腕も持たず
ただ世界を広く見んと欲した
無知なる一人の少年があった
ざわめきが少し落ち着いた。給仕が隙を見て卓にシチューの深皿を置き、木匙が皿の底を擦る乾いた音が混じる。
詩人の歌は、ゆっくりと言葉を重ねていく。
少年は泥の深さを知らず
夜の寒さの凌ぎ方も知らず
草の枯れ色に潜む刃も知らず
ただ遠くの空ばかりを眺めていた
その背を小突き
その襟首を掴み上げたのは
道端に腰を下ろしていた
名もなき一人の男だった
「おい、男ってのは誰だ?」
丸テーブルの端から、若い男が身を乗り出して声を張った。
「どっかの指南役か? 騎士団の隊長だったって話もあるぜ」
別の卓の古株らしい老人が、鼻を鳴らしてジョッキを置いた。
「馬鹿言え。ただの通りすがりの傭兵に決まってるだろうが。英雄譚の出だしなんざ、どいつもこいつもありあわせの拾い物さ」
笑い声がいくつか上がり、詩人に向かって乾杯の仕草をする者がいた。詩人は返礼の会釈もせず、ただ淡々と爪弾きを刻み、言葉を継ぐ。
男は少年に剣の握りを教え
火の起こし方を教え
逃げ出すべき坂道の傾きを教えた
生き延びるための術をひとつ
またひとつと放り投げるように与えた
少年は文句を言いながら拾い
擦り傷を増やしながら歩いた
「嘘つけ!」
暖炉に近い長椅子の端で、羊皮紙を広げて帳面をつけていた商人が、顔を上げて笑った。
「前に西の宿場町で聞いた詩人は、そんな湿っぽい話は歌ってなかったぞ。最初から神の加護を受けた少年が、一撃で大岩を砕いて歩き出したって歌だったぞ」
「そっちのほうが嘘くせえよ!」
誰かが怒鳴り返し、どっと下品な笑いが広がった。ジョッキの底が卓を叩き、汁の跳ねた皿が揺れる。
詩人はその騒ぎを制しようともせず、ただ右手の手首を鋭く返した。
びゃん、と弦が裂けるような強音を立てる。
客たちの笑い声がふっと途切れた瞬間、詩人は喉をいっぱいに張り、それまでの落ち着いた節回しをかなぐり捨てるように、仰々しく胸を反らせた。
されど天の采配か地の導きか
二人の行く手には天をも焦がす炎が立ち塞がり
山をも裂く嵐が吹き荒れた
男の掲げた灯火は夜の闇の向こうまで照らし出し
少年の振るう切先は千の脅威を薙ぎ払った
荒野の果てまでその轟きは届き
地は震え、星は巡りを止めたという
詩人が大仰に顎を突き出し、これ見よがしに弦を激しく掻き鳴らすと、帳面をつけていた商人が呆れたように吹き出した。
「ほら見ろ、盛り始めたぞ」
「星が止まるわけねえだろうが!」
「いや、いいぞ、もっとやれ!」
銅貨が二枚、乾いた音を立てて詩人の足元の布きれの上に転がった。詩人は拾おうともせず、ただ目線だけを落として、わずかに口角を引いたように見えた。
しばらくして、詩人の弾く指の動きが次第に穏やかになっていった。激しかった弦の震えが治まり、夜風が戸の隙間を鳴らす音のほうが大きく聞こえ始める。
酒場の客たちは、それぞれの皿やジョッキに視線を戻しながらも、耳だけを傾けていた。
やがて少年は自らの足で立ち
自らの腕で道を切り開き
光の中へと駆け上がっていった
背を見送った男は
褒美を求めることもなく
自らの名を書き残すこともなく
ただ一度、背を向けて歩き去った
弦の音が、一音ずつ途切れがちに落ちる。
男がどこへ向かったのか
今どこで露を凌いでいるのか
風も知らず、大地も語らず
英雄の背後に残された足跡は
次の朝の雨に洗われて
ただ土へと還っていった
最後の音が低く震え、やがて消えた。
ふつりと音が途絶えた板敷きの上で、詩人は弦の上にそっと指の腹を当て、残響を止めた。
酒場の中が一瞬、妙に静まり返る。誰かが喉を鳴らして唾を飲み込む音が聞こえ、奥の竈で薪のはぜるパチという音が響く。
「……終わりか?」
誰かがぽつりと呟くと、詩人は無言で軽く頭を下げた。
次の瞬間、何枚かの銅貨が鈍い音を立てて足元に放られた。銀貨が一枚混じり、板の上で小さく跳ねて転がる。
「おい、もっと景気のいいところを歌えよ」
「悪かねえよ。酒が進む」
「名前も名乗らねえってのが気取ってて気に食わねえがな」
それぞれが勝手な感想を口にしながら、再び自分の酒と連れ合いの顔に向き直っていった。食器のぶつかる音、卓を叩く音、笑い声が、何事もなかったかのように元の大きさに戻っていく。
詩人は膝をつき、足元に散らばった硬貨を手際よく拾い集めて革袋に流し込んだ。銀貨の表面を袖口で軽く擦り、光を確かめると、袋の紐を固く結んで腰帯に挟む。楽器を肩にかけ直すと、台から降りて店の片隅、給仕の出入り口に近い席へと引っ込んでいった。
◇
夜はまだ半ばを過ぎたばかりだった。
戸が開くたびに冷気が流れ込み、新しい客が入っては空いた席を探して歩き回る。
先ほど詩人が立っていた樽の上の板には、こぼれた酒の染みが黒く残っているだけだった。
給仕が通り過ぎざまにそれを汚れた布で拭い去り、また別の客がジョッキを求めて怒鳴り声を上げる。
「おい、次はあの歌を頼むぜ!」
遠くの席で、誰かが奥に向かって叫んでいた。
「都のやつだ! 英雄の歌だ!」
返事は喧騒に掻き消されて聞こえなかったが、別の町でも、別の街道沿いの宿場でも、今夜あたり誰かが同じように弦を弾き、同じように誰かの噂を歌っているのだろう。
泥を被った無知な少年の話か、あるいは天を裂く剣の閃きの話か。
そのどちらが本当であるかなど、酒を飲む者たちの誰も気に留めていなかった。ただ冷えた体を温めるための、一時の肴に過ぎない。
ジョッキが打ち鳴らされ、泡が卓に散る。
夜の酒場は、どこまでも変わらぬ騒がしさのまま、更けていった。




