第9話
井戸の滑車に掛けられた麻縄が、冷え始めた夕風に揺れて細い軋みを立てていた。
エントは赤土の地面に膝を突いたまま、開いた手のひらの上の銅貨四枚を見つめていた。指先が土で汚れ、爪の間が黒ずんでいる。胃の腑から漏れる空腹の音が一度きり鳴り、それきり動かなかった。
ライゼンは井戸の縁に置いた布を手に取り、固く絞った。
滴が石の隙間に落ち、乾いた土に黒い染みを作る。布を畳みながら、座り込んだエントの頭頂部に目をやった。薄い上着の背中が、呼吸のたびに小さく上下している。
「爺さんに、足りない一枚分は水汲みでも薪割りでもやると言え」
ライゼンは低く言うと、エントの肩が跳ねた。
地面に落ちていた視線が勢いよく持ち上がり、丸く見開かれた目がライゼンを捉えた。口が半分開いたまま、掠れた声が漏れる。
「……え?」
ライゼンはそれ以上言葉を重ねず、布を腰の帯に挟むと、木株亭の引き戸へ向かって歩き出した。
◇
背後で、赤土を蹴る音が激しく響いた。
エントが立ち上がり、足をもつれさせながらライゼンの脇をすり抜けて、開いたままの引き戸から土間へ駆け込んでいった。
土間の奥の薄暗い帳場で、片目を白濁させた老人がパイプの煙を細く吐き出していた。埃を被った机に肘を突き、入ってきたエントを一瞥もしない。
「あの、お爺さん!」
エントが帳場の机に両手を叩きつけるように置いた。
「銅貨四枚しかありません! でも、足りない一枚分、何でもやりますから! 水汲みでも、薪割りでも、掃除でも! 今夜、泊めてください!」
老人はパイプの火皿を机の角にコツンと打ち当て、灰を落とした。
白濁した目をゆっくりと持ち上げ、エントの泥で汚れた革の胸当てと、膝の擦り切れを一瞥する。煙の匂いが二人の間に漂った。
「……裏の水瓶が空だ」
老人が嗄れた声で言った。
「井戸から十往復。それと、裏庭の丸太を五本、焚き付けの細さまで割っとけ」
「やります! すぐやります!」
エントは頭を大きく下げ、土間を駆け抜けて裏口の引き戸を蹴開けるようにして出ていった。
ライゼンは二階への階段を上がった。
踏み板が一歩ごとにギシギシと鳴る。突き当たりの部屋に入り、扉の閂を落とした。
部屋の中はすでに薄暗く、壁板の隙間から差し込む光が、夕闇の青紫色へと変わっていた。
ライゼンは背負い袋を下ろし、部屋の角に立てかけた。長剣を外して枕元に置き、藁を詰めた敷布の上に腰を下ろす。
壁の板の隙間から、裏庭の物音が届いてきた。
井戸の釣瓶がキーキーと甲高い悲鳴を上げ、手桶が水面にぶつかるバシャリという鈍い音がする。やがて、重い足音が板壁のすぐ下を通り過ぎ、ドスンと大きな陶器の水瓶に水が注ぎ込まれる音が響いた。
一往復、二往復。
最初は小走りだった足音が、五往復目を過ぎたあたりから砂利を引き摺る音に変わった。息を吸い込む喘ぎが壁越しに漏れ、水瓶の縁に桶を打ちつける硬い音が混じる。
水汲みの音が途切れると、今度は乾いた鉄の音が響き始めた。
ガツン、と斧の刃が丸太の木口に食い込む音がする。だが一撃では割れず、持ち上げて叩きつける鈍い衝撃が床板を微かに揺らした。何度目かの衝撃のあと、パカンと木肌が裂ける音が夜気の中に抜けていく。
刃が外れて土を叩く音。
丸太を転がす音。
エントが小さく舌打ちをする声。
壁の隙間から入る光が完全に途絶え、部屋の中が夜の闇に呑まれても、断続的な薪割りの音は続いた。丸太が細い焚き付けに裂けていく音が幾度も重なり、やがて最後の一撃が響いたあと、静寂が裏庭を包み込んだ。聞こえるのは、風が板壁の節穴を鳴らすピューという細い音だけになった。
◇
夜半近く、ライゼンは部屋の閂を外し、廊下に出た。
突き当たりにある共同の手桶から木椀に水を汲み、口に含んだ。冷たい水が喉を通り、乾いた腹の底を冷やす。
階下から、軋む足音が上がってきた。
一段ずつ、靴底を擦るようにして上がってくる足音だった。
階段の踊り場から現れたエントは、全身に細かい木屑をまぶしていた。
新しい革の胸当ての肩口には白く擦り傷が入り、亜麻布の袖口は泥と木の脂で黒ずんでいる。手袋を外した両手には、掌に赤く腫れた水ぶくれがいくつも潰れて皮が剥けていた。
だが、その顔には血色が戻っていた。
ライゼンと目が合うと、エントは足を止め、破顔した。
「旦那さん!」
声は掠れていたが、息の底に力がこもっていた。
「泊まれることになりました! 水瓶をいっぱいにして、丸太も全部割って積んだら、爺さんが銅貨四枚を受け取ってくれて。部屋は一階の物置の隣なんですけど、寝藁もちゃんと敷いてあるし、風も入らないし、十分すぎます!」
「そうか」
「それで、これ、見てくださいよ」
エントは自分の口元を親指で指してみせた。唇の端に、黒パンの乾いた屑と油の照りがわずかに残っている。
「丸太を片付け終わったら、爺さんが帳場の奥から黒パンの端切れと、昼の残りの羊肉のスープを出してくれたんです。冷め切ってて脂が白く固まってましたけど、めちゃくちゃ美味くて……一気に飲み干しちゃいました。手持ちの金は本当に銅貨一枚も残ってないですけど、今夜は凍えずに眠れます」
エントは雑嚢の口をいじりながら、なおも言葉を継ごうとした。
「明日の朝の鐘が鳴ったら、すぐギルドに行かないと。誰よりも早く掲示板の前に並んで、木札で受けられる仕事を一番に――」
「早く寝ろ」
ライゼンは短く遮った。
「あ、はい! そうですね、起きられなかったら元も子もないですし! おやすみなさい、旦那さん!」
エントは頭を深々と下げ、ぎこちない足取りで階段を下りていった。階下で板戸が閉まる音がして、再び宿の中が静まり返った。
◇
翌朝、空はまだ深い藍色の中に沈んでいた。
窓のない部屋の壁板の隙間から、わずかに白み始めた外気の冷たさが漂い込んでくる。朝の鐘はまだ鳴っていない。
ライゼンは敷布から身を起こし、上着の襟を正した。
革鎧の胸紐を締め直し、長剣を腰の帯に固定する。背負い袋の紐に両腕を通し、背中の中央へ重みを落ち着かせた。
部屋の閂を静かに引き、廊下に出ると、靴底の音を忍ばせて階段を下りる。
一階の帳場では、細く絞られたランプの火が弱く揺れていた。机の向こうで、片目の老人が腕組みをしたまま壁にもたれ、規則正しい寝息を立てていた。
ライゼンは懐から錆びた鉄の鍵を取り出し、埃の積もった帳場机の上に置いた。
コト、と金属が木を叩く小さな音がした。
老人の睫毛がわずかに震え、白濁した目が細く開いたが、呼び止める声は上がらなかった。
ライゼンは木株亭の引き戸に手をかけ、外へ滑り出た。
盆地の底に溜まった朝の冷気が、肌を刺すように冷たい。
東の稜線の上に、薄っすらと白い光の筋が一本、刷毛で引いたように伸びていた。通りはまだ薄暗く、家々は雨戸を固く閉ざしたままだ。鍛冶屋の煙突からも煙は上がっておらず、蹄鉄の響きも、荷車の軋みもない。
ライゼンは息を吐き出し、中央通りへ向かって歩き出し、ギルドのある交差点の方角へ、一定の歩幅で土を踏みしめていく。
その背後、木株亭の薄暗い建物の中から、ドタドタと勢いよく階段を駆け下りる足音が響いてきた。




