第10話
夜明け前のケッセルの町は、まだ深い青灰色の底に沈んでいた。
中央通りを行き交う者の姿はなく、蹄鉄の音も荷車の軋みもない。土埃の匂いだけが、冷え切った大気の中に低く澱んでいる。
二振りの剣を象った看板を掲げたギルドの建物は、すでに正面の樫の扉が開け放たれていた。
土間に踏み込むと、中央の丸柱に吊るされたランプが二つ、黄色い光を落としている。朝の鐘の前だというのに、広間にはすでに十数人の男たちが集まっていた。掲示板の前の長椅子に腰を下ろし、擦り切れた革の手袋を揉み合わせている軽装の歩兵や、壁に背を預けてあくびを噛み殺している二人連れの狩人。誰も大声では喋らず、靴底が土間を擦る乾いた音だけが響いている。
背後で、板戸が大きく揺れる音がした。
息を乱した足音が土間を駆け込んできて、ライゼンの三歩後ろで急に止まった。
「はっ……はっ……間に合いました……!」
エントだった。
胸当ての革紐がねじれ、肩掛けの雑嚢が激しく上下している。手袋を外した両の手のひらには、昨夜の薪割りで潰れた水ぶくれの赤い跡が生々しく残っていたが、その目は掲示板の中央を真っ直ぐに見据えていた。
「朝の鐘、まだ鳴ってないですよね? 一番乗り、取れますよね」
ライゼンは答えず、掲示板の前へ進んだ。
◇
木製の大きな掲示板には、昨日の夕方に貼り出されたままの依頼書が並んでいた。
ライゼンの視線は、中段の真鍮札向けの区画に落ちた。
『西の採石場、砕石搬出の街道警護。期間六日、報酬銀貨三十五枚。推奨三人以上』
『南山裾、大角鹿の駆除および群れの追い込み。手当て頭数払い、銀貨四十枚から。推奨四人(追い込み役および射手を含むこと)』
『東地区、商家の夜間倉庫番。期間十日、報酬銀貨二十枚。交代制につき二人以上』
どれも等級の上では、ライゼンの真鍮札でそのまま引き抜ける仕事だった。
だが、紙の隅に墨で記された推奨人数から、視線が動かない。
街道の荷馬車の護衛は、前後の警戒と御者台の脇を固めるだけで最低三つの目が要る。大角鹿の駆除は、茂みから獲物を追い出す追い込み役と、逃げ道を塞ぐ射手がいなければ、一人で森に入っても足跡を追うだけで日が暮れる。倉庫番の依頼も、夜通し一人で寝ずの番を続けることは物理的にできなかった。
単独で完結する依頼の用紙は、中段には一枚もなかった。
ライゼンは腕を組むこともせず、ただ紙の端が隙間風に揺れるのを眺めていた。
ゴオン、と重い鐘の音が、町の中心の鐘楼から響き渡った。
一つ、二つと打ち鳴らされる音が、土塁に囲まれた盆地の底へ染み渡っていく。朝の鐘だった。
鐘の余韻が途切れないうちに、掲示板の前にいた男たちが一斉に立ち上がった。椅子が土間を擦る音が重なり、中段の依頼書へ手が伸びる。
その群れの脇をすり抜け、エントが掲示板の一番下へ身を投げ出した。
下段の隅に留められていた紙を一枚、指先で引き剥がす。
「取った……!」
エントが掴み取ったのは、木札向けの『東水路、泥浚いおよび土嚢積み』の依頼書だった。
エントは紙を握りしめ、帳場のカウンターへ小走りに向かった。
カウンターの奥には、昨日と同じ黒い前掛けをした受付の男が座っていた。手元の帳簿を開き、インク壺の蓋を外したところだった。
「おい、一枚ずつ出せ」
「これ、お願いします!」
エントが依頼書と、懐から取り出した白木の木札をカウンターの上に突き出すと、受付の男は依頼書を一瞥し、それからエントの木札を指先でつまみ上げた。
男はカウンターの脇、木枠に嵌め込まれた手のひら大の黒い石板の上に、その木札を伏せて置いた。
石板の表面が、微かに青白い光を帯びた。
滑らかな石の肌に、細い光の筋が走り、やがて文字が浮かび上がってくる。王都のギルド本部に保管されている大台帳から、登録者の記録を呼び出す魔道具だった。文字の連なりを目で追っていた受付の男の眉が、徐々に険しく寄っていった。
「……おい」
男が木札を石板から持ち上げた。光が消え、文字が吸い込まれるように消える。
「あんた、実地講習を修了してねえな」
「え?」
エントの顔から、先ほどまでの勢いが抜け落ちた。
「実地講習って……ギルドを出るときに、小冊子をもらって説明を聞きましたよ? 規則を守れとか、依頼の半券は無くすなとか――」
「それは最初の講習だ。登録の窓口で誰でも受ける座学だろうが」
受付の男は木札を机の上に放り出した。乾いた音が土間に落ちる。
「実地講習だよ。登録したあと、数日かけてベテランに連れられて町の外へ出て、野営の張り方、火の起こし方、薬草の見分け、獣の足跡の追い方を教わるやつだ。この石板の記録、最初の講習済みの印しか入ってねえぞ。実地の修了印がない木札じゃ、支部の正規の依頼は通せない」
「そ、そんな……! でも、ここに来る前の宿場の出張所では、薬草採りの依頼を受けられましたよ!?」
「出張所に石板があるわけねえだろうが」
男は鼻を鳴らした。
「あんな詰め所は、帳簿に名前を書き留めるだけだ。ここは支部だからな。修了してねえ木札に仕事を回したら、俺が本部に怒鳴り込まれる」
「そんな……昨日のゴミ捨て場の仕事は――」
「あれは俺が個人的に小遣いをやっただけの雑用だ。ギルドの依頼じゃねえ」
男は依頼書を手元に引き寄せ、エントの木札を指先で弾いて突き返した。
「実地講習を受けてから出直せ」
◇
「講習って……どこで受けられるんですか!?」
エントはカウンターに身を乗り出した。
「今すぐ受けます! ここで受けさせてください!」
「無理だな」
受付の男は即座に首を振った。
「講習は、ギルドがベテランの冒険者に依頼として振って、町の外で何日かかけてやらせるもんだ。今、この町にそんな暇な真鍮札以上のやつはいねえよ。みんな討伐やら護衛やらで手一杯だ。駆け出しの小僧の尻拭いなんかに付き合ってられるか」
「そんな……じゃあ、俺、どうすればいいんですか……」
エントの肩が落ち、木札を握りしめた拳が震えていた。
受付の男はため息をつき、帳簿に目を落としかけたが、ふと顔を上げた。
カウンターから少し離れた場所、掲示板の脇に立っていたライゼンの姿に目が留まった。男の視線が、ライゼンの革鎧と、腰に下がった長剣の使い込まれた柄をなぞる。
「……おい、あんた」
男がライゼンを指さした。
「昨日の、真鍮の三本筋の旦那。ちょっと札を貸してくれ」
ライゼンは動かず、男の顔を見た。
「何だ」
「いいから、ちょっと寄越せ」
ライゼンは懐から真鍮札を取り出し、カウンターの上を滑らせた。
受付の男は札を拾い上げると、黒い石板の中央に押し当てた。
青白い光が石板の縁から溢れ出し、先ほどのエントの木札よりもはるかに長い文字の列が、幾段にも重なって浮かび上がった。所属支部の変遷、等級の昇格歴、過去に受領した護衛や討伐の完了記録。
男は指先で文字をなぞり、一番下の行でピタリと止めた。
「……やっぱりな」
男が顔を上げ、ライゼンを見た。
「あんた、前の町で実地講習の指導役を務めた記録があるな。二回も受けてる」
石板の青白い光の中に、『実地基礎指導 完了報告受領』の文字が刻まれていた。
男は石板から札を離し、ライゼンに差し出した。
「ライゼンさん、だったな。……ちょうどいい。この仕事、あんたが受けてくれねえか」
カウンターの横で、エントが目を見開いてライゼンを見た。
「……ライゼン、さん……?」
エントの唇が、その名を確かめるように小さく動いた。
受付の男はエントの様子を気に留める風もなく、引き出しから緑色の縁取りがされた厚手の依頼書を一枚取り出し、カウンターの上に広げた。
「駆け出しの実地講習の依頼だ。町の外に出て、三日。野営の張り方、火起こし、初歩の採取と索敵を叩き込んで、最後にギルドへ報告書を一枚出せば終わりだ。報酬はギルドの本部から出る。銀貨十枚だ」
銀貨十枚。
一人で受ける仕事としては、掲示板の中段にあった荷運びや警備と比べても、日数に対する割は悪くなかった。相手はギルドであり、商家の都合で支払いが滞る心配もない。
エントが、息を呑んでライゼンの横顔を見つめていた。
両手で握りしめた木札が、汗で湿っているのが見えた。口を開きかけては閉じ、何かを言おうとして喉を詰まらせている。
ライゼンはカウンターの上の緑色の依頼書に視線を落とした。
「……三日だな」
「ああ、三日だ。日数は引き延ばしても構わんが、報酬は一律十枚だ。前金として銀貨二枚、残りは戻ってきて報告書を出したときだ」
受付の男はペンをインクに浸し、ライゼンの顔色を窺った。
「どうする。受けるか」
「引き受ける」
ライゼンは短く言った。エントの口から、ヒッと引き攣ったような息が漏れた。
「ラ、ライゼンさん……! 本当ですか!? 本当ですね!?」
エントがカウンターの角を回って、ライゼンの目の前に躍り出た。
「俺、絶対足引っ張りませんから! 教わったことは全部覚えます! 書き留めます! 薪割りだって昨日の夜で慣れましたし、水汲みだって何十往復でもやりますから!」
ライゼンはエントを見ず、カウンターに置かれた前金の銀貨二枚を指先で手元に引き寄せた。小銭袋の紐を解き、中へ滑り込ませる。
「門の前で待て」
「はい! すぐ行きます! 門ですね、南の門ですか、それとも東の門ですか!?」
「南だ」
「分かりました! 走って行って待ってます!」
エントは木札を懐に突っ込むと、背負い直す荷物もないまま、ギルドの扉を蹴るようにして外へ駆け出していった。土間に、勢いよく板戸が閉まる音が一度だけ響いた。
受付の男が、受領の半券をライゼンに差し出しながら、小さく息を吐いた。
「講習には、いつも南の門を出た先の、山裾の手前の沢沿いを使ってる。水が取れて、獣道もある。大角鹿が出るあたりよりは手前だ」
男はカウンターの下から、口を縛った麻袋を一つ引きずり出した。
「講習生の分の干し肉と堅パンだ。三日分。予備だから、使わずに済むならそれでいい」
ライゼンは麻袋の口を開けて中を一瞥し、背負い袋の脇に括り付けた。
「……まあ、怪我だけはさせんでくれよ。報告書が面倒になるからな」
「ああ」
ライゼンは半券を腰嚢に収めると、背負い袋の紐を両肩に引き上げ、静まり返った広間を歩き出した。




